村雨美由梨と人形少女
「……なぁ、美由梨。そろそろ教えてくれないか?」
照明を落とし、カーテンを締め切った部屋に、一筋の光が射した。
イヤフォンを外し、ベッドの上で転がるようにして部屋の壁からそちらに視線を移す。
開かれた部屋の入り口には、電灯を背にして黒く縁取られた、兄のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。
懲りもせずにまた来たのか。そんなことを思いながら、私は再び壁への現実逃避を再開する。
「ほっといて」
「いや、でも……」
「いいからほっといてよ! いいじゃない! まだ貯金もあるわ! 職がなくたって迷惑は……」
「あのな。そういう問題じゃねぇよ。……もしかして〝あのこと〟で職場の連中に何か言われたのか? だったら……」
腫れ物に触るような、気遣いと緊張が孕んだ声。それが無性に悲しくて、私の目尻に涙が溜まる。
理解されない悲しみがそこにはあった。
兄が考えている。あるいは想像しているであろう問題と、今私が抱える問題は、全く別のものだからだ。
「違う! それは関係ないよ! ただ……行きたくない、だけ」
「これだけ引きこもってるんだ。それはよくわかるよ。なら、理由くらいは教えてくれないか?」
「知ってどうするのよ」
「俺も一緒に、悩めるだろ」
「悩んで解決するならそうしてる。……兄貴には無理よ」
「そんなのわからねぇだろ! もうこんな生活を初めて二週間だぞ!? いい加減……」
「部屋の外に出ろって? 出来たら苦労しないよ」
光が当たらない、真っ暗な場所の方が幾分かマシだと気づいたのは、最初の二日目から。
耳をイヤフォンでふさいで。、瞼を閉じて。意識を音楽かボイスドラマに集中させる。そうすることで、私はこの悪夢の記憶から逃れられるのだ。
「色々あってから、ようやく見つけた職場だ。慣れないのも分かる。けど、俺や真由梨。父さんに母さんは、お前の味方だ! 誰が何と言ったって……!」
兄はまだ喚いていた。いい加減うるさいし、これで何かあっては悪いので、私は会話と交渉を打ち切るべく、ゆっくりベッドから身を起こした。
上のボタンが二つくらい千切れただらしないパジャマだが、部屋は暗いし、この場にいる連中には今更だから大して気にしない。
乱れてボサボサな髪を手ぐしで雑に整えて。私は兄と正面から対峙する。
「……本当に味方?」
「当たり前だ!」
我が兄ながら即答とは男前なことだ。こんなイケメンがロリコンだなんてとても信じられないな。なんて、いつかに見たスマホの待ち受け画面を思い出して一人笑う。
兄は大学院生にして家庭教師だ。この職業。女性ならエロチック。男性ならば背徳的なんて響きに聞こえてしまうのは、私だけだろうか。
ともかく、あのツーショット画像にいた女の子と四年後にどうなっているのか、色々と楽しみである。……もっとも。私がそれを見届けられるのかは、わからないけど。
「本当に本当?」
「何度も言わせるな」
「私のこと、信じてくれる?」
「くどいな。お兄ちゃんだぞ?」
ニッと不敵な笑みを浮かべる兄は、ロリコンという性質以外は見た目も心も花丸なイケメンだった。私が妹じゃなかったら……。いや、ないな。末の妹ならばともかく、私は百パーセント惚れないけども。とにかく……。
「じゃあ、話すよ。早速だけど兄貴は……幽霊って、信じる?」
そこまで言うなら話してあげよう。二週間前。ハロウィンの夜を引き金に起きた、恐ろしくも奇妙な出来事の連続を。
思い出すのは暗い廊下と、老人と。そして……フランス人形を思わせる、人並外れて美しい小さな女の子だった。
『Trick or Treat』
桜色の唇から紡がれたあの言葉に、いったいどんな意味が込められていたのかはわからない。
ただ……恐ろしいのだ。
だって私の推測が正しければ、あの人形少女は……。全てをわかっていた上で、私にその言葉を持ちかけたに違いないのだから。
※
とある理由で前職を辞し、そのまま転がり込んだ介護の仕事は、想像していた以上にハード……という訳でもなかった。
事前に聞いていた肉体と精神を削られるなんてこともない。そりゃあ体力は使うけども、やりがいはある。
勿論、入所しているお爺ちゃん、お婆ちゃんの中には少しズレてたり変な行動を取る人もいるにはいるけれど、それはもう仕方のないことだと思う。
基本的に皆いい人ばかりだし、長年の経験からくるお話には面白いものが多い。中には驚くほど数奇な人生を歩んできた人も結構いる。そんな凄い人達から送られる「ありがとう」という何気ない言葉が、私の中ではなかなかに小気味がいいのである。
ただ……。
「帰れ! 帰れぇ!」
夕方のおやつ時。部屋から出て、フロア共用の長テーブルに腰掛ける利用者の方々に紅茶を配って回っていると、不意に狂ったような怒号が、響き渡った。
今いるCフロアの隣。Dフロアからだった。
「おうおう。またか」
「最近多いねぇ……」
「紐パンティ!」
その場にいた面々の反応はてんでバラバラ。
素直に同情の表情を浮かべるもの。
元々耳が不自由故に、気にせず幸せそうにティータイムを楽しんでいるもの。
一瞬だけビックリするも、すぐにそのビックリした理由を忘れてテレビを見るもの。
色んな意味で別世界に生きているもの。
実に様々である。
「隣か? 戦闘か? 大丈夫なのか?」
「山木さん。お気になさらず。面会に来られてるだけで、そんな深刻なものではないですから」
「来てるのは奥さん? 妹? いえ、孫かしら?」
「いえ、沼津さん。ただのご友人だそうですよ。奥さんはその、他界されたとか」
「紐パンティ!」
「柏さん、今日のお菓子はシフォンケーキです。断じて紐パンティなんてものじゃ……」
「紐パンティ!」
「……うん、セクシーですよね。紐パンティ」
それを聞いた柏さんは満足気に笑っていた。今にも天へ召されそうな表情に、隣にいる山木さんと沼津さんは必死に笑いを堪えている。
日常でよくある、私とお爺ちゃん、お婆ちゃん達の間で繰り広げられるコミュニケーションは、大体こんな感じだ。
「黙れ! もう来るな! 帰れ! お前なんて……! 帰れぇえ!!」
叫びは続いている。それを聞きながら紅茶の配膳を終了させ、私はそろそろかな。と、思いながらその場をもう一人の職員に任せて、Dフロアに移動する。
私が配属されている二フロアの一角は、昼間は人で溢れているCフロアの半分しか人がいない。
それもその筈。こちらは寝たきりの利用者さんがフロアの半分を埋めているからだ。
そして……。つい先程まで怒号が響いていた、2038室。そこにいる坪井さんもまた、ベッドから動くことが出来ない人だった。
「こんにちは。毎回ごめんなさいねぇ」
ほわほわ。そんな擬音がピッタリな、間延びした声がフロアに着いた私の耳に届く。
高そうなダークネイビーのコートを着込んだ老婦人だった。
右脚が悪いらしく常に引きずるようにして歩く彼女は、黒檀の馬を模したオブジェが持ち手に取り付けられた、立派なステッキをついている。
名前は……知らない。ただわかっているのは、坪井さんのご友人だという事だけだった。
「あの人、あんな状態で……普段あなた方に暴力などふるってはいませんか?」
「……いいえ、そんなことは」
「そう、ですか……。」
私の返答に婦人は何とも言えぬ顔で肩を竦めると、そのまま足を引きずりながら歩き出した。坪井さんが入所してはや一週間。彼女はどんなに罵声を浴びせられても毎日ここに来て。悲しげな。それでいて悔しげな表情で帰っていくのである。
「……ありがとうございました。お気をつけて」
出口へ向かう背中に一礼する。
これは他の職員の想像だが、彼女は昔、坪井さんといい仲だったのでは。そんな噂がまことしやかに囁かれていた。
かつての恋慕。結ばれなかった二人。そのやりきれない思いを隠す為に叫ぶ男。というのが、大まかな筋書きだ。寝たきりかつ認知症を患っている老人をそんな妄想に使うのはあまり気分のいいものではないし、真偽の程も分からない。
だが、当の老婦人が面会を終えると、まるで逃げるかのように。それこそ坪井さんの家族と鉢合わせするのを恐れているかのように去っていくので、今や職員の間ではそれが真実となりつつあって……。
お陰で私は最近、どうにもやりきれない気持ちになっていた。
何故か? 簡単だ。当人、坪井さんには彼女以外に面会する者はゼロ。書類上は近場に住んでいる筈の五人兄弟姉妹。その全てが彼の入所以来、音沙汰無しなのである。
それはまさに高齢化社会の闇を思わせて……。
「……お姉さん、大丈夫?」
あれこれ思考が迷走し、俯きながらその場に立ち尽くしていると、不意に背後から誰かに話しかけられた。
思わず出た「うひゃあ!」なんて間抜けな悲鳴を手で抑えた所で後の祭り。少し恨みがましい顔になっていることを自覚しながら後ろを振り返れば、フロアのソファーに見慣れない小さな女の子が、ちょこんと座っていた。
「……そんなにびっくりすることないじゃない」
ジトリとした視線が私を見上げる。
七、八歳くらいだろうか。腰にまで届こうかという、ウェーブのかかったフワフワな亜麻色の髪と、日本人ではありえない白い肌。そして、不思議な……青紫色の瞳が印象的な少女だった。
「……お姉さん?」
「え、あ……うん。大丈夫、だよ」
コテンと首を傾げる少女に、私はしどろもどろになりながらも辛うじて頷いた。
正直に言えば、あまりに浮世離れした容姿の少女に、私は戦慄というか、暫し言葉を失っていたのだ。
人間……。その筈だ。だけど私には、彼女が命を吹き込まれたお人形さんと言われても納得してしまう自信があった。
それほどに、そこにいた人形少女の纏う雰囲気は異質だったのである。
「……私が、怖い?」
「へ? っと……そんなことは」
「いいの。慣れてるわ。ここのお爺様やお婆様方も、私が歩けば気味悪そうに見てくるから」
言葉に窮しているうちに、彼女の中で私は自分を怖がる人。そういう認識になったのだろう。小さくため息をつきながら、彼女は数ある部屋の一つを指差し、「付き添いなの」と、口にした。
「駒形さんの所? お婆ちゃんに会いに来たの? あっ、でもお孫さん確か成人して……」
「正確には、私のお爺ちゃんの妹さんで、私の親代わりになってるおば……。お姉さんのお婆ちゃんなの」
「お、おう……?」
思わず混乱してしまう。複雑な……家庭なのだろうか。特にこうして面会に来ているであろう人と別行動を取っているということは……。
「あの人、私を見るとここに、きゅ~って皺が寄るのよ。ただでさえシワシワだけど、更に。それでお姉さんにこう言うの。そんな穀潰しの出来損ない人形なんて、さっさと捨ててしまえってね」
眉間を指差して、人形少女は嘲るような笑みを浮かべる。何処と無く小悪魔じみた仕草は、年不相応に落ち着いた。下世話な響きだが色気のある声も相俟って、私の目を釘付けにする。
怖いもの見たさか。あるいは神秘的なものを目の当たりにしたが故の放心か。私には判断がつかなかった。
「酷い、わね」
「でしょう? だからね。やだ、干からびた林檎が喋ったわ。って言ってやったの。そしたら目覚まし時計投げつけられちゃって。どうせなら手首につけてる、高そうな時計にしてくれたら良かったのに」
「あ、あのね。世の中には思っても口にしちゃいけない事があるんだよ?」
「ええ。学んだわ。だからここにいるの。目覚まし時計でドッジボールする趣味は、もうないし」
お前投げ返したんかい。
見た目に反して逞しい子らしかった。いや、垣間見える真っ黒そうな事情を推察すれば、逞しくならざるを得なかったというべきか。
「……ねぇ、さっきのお婆ちゃんが出てきた部屋にいる人、どんな人? 暴力ふるうの?」
いつかに駒形さんのおでこが腫れていたのはそれが原因か~。なんて事を思い出していると、人形少女は唐突に話題を切り替える。
奇しくもあの老婦人と同じ質問に、私は思わずポカンとしつつも、フルフルと首を横に振った。
ああして毎日喚いてはいるし、普段は言動が安定しないけど、手が出るような人ではない。私がそう言えば、人形少女は「ふ~ん」と相槌を打ち、やがてそっと、敬虔な修道女のように指を組み、祈るように目を閉じた。
「……えっと、何してるの?」
思わずそう問いかける。すると人形少女は返事をせずに黙って祈り続けていた。……時折、頭痛を堪えるように顔をしかめながら。
「あの~」
「シェリー。何してる。帰るぞ」
どうしたものかとオロオロしていれば、またしても背後から声がする。
ただ、今度現れた人には見覚えがあった。駒形さんのお孫さんだ。キャリアウーマンを思わせるスーツ姿に短めの黒髪。そして氷を思わせる鋭い眼差しが印象的な、眼鏡をかけた美女がそこにいた。
「洋子おば……お姉さん、おかえりなさい」
「ただいま。また変な電波を垂れ流して人様を困らせていたのかな?」
「電波ね。貴女がそう思うなら、そういう事にしてた方が幸せでしょうね」
「……お前はガキの癖にいちいち言動が難解すぎる。子どもらしく簡単に済ませろ」
「お姉さん可愛くて素敵だわー。憧れちゃうわー」
「あたしをバカにしてんのはよ~くわかったよ」
殴り合いと錯覚しそうな会話にポカンとしていると、駒形さんのお孫さんはバツが悪そうに私の方を見て、フッと肩を竦めた。
「悪かったな。ホラー映画好きな、電波の入った不思議ちゃんなんだ。許してやってくれ」
「だから電波じゃないって言ってるでしょうが」
「やかましいわ。晩飯にカリフラワー入れんぞアホ娘」
「――っ、何でそんな残酷なことするのかしら? 鬼なのね? そうでしょう? 人でなし。冷血女。だから結婚出来ないのよ」
「……死にたいらしいな。いいだろう。茹でてやる。今夜はカリフラワーパーティーだ」
「――! ――っ!」
ポカポカと駄々っ子パンチを繰り出す人形少女を引きずるようにして、駒形さんのお孫さんは出口へ歩いていく。私はそれをぼんやりと見送って……。
「ちょっと待って。――お姉さん!」
そこで、人形少女が保護者の手をすり抜けて、トテトテと此方に戻って来た。
いきなり呼ばれて思わず私は目をパチパチさせるが、そんなのお構い無しと言わんばかりを手招きし、彼女は私に耳を貸すように要求した。
「ホントは内緒にしてるんだけど……。ちょっと酷そうだから、特別。あのねお姉さん、私、人には視えないものが視えるの。誰も気づいていないみたいだから、私が教えてあげる」
言われるままにしゃがみこめば、人形少女はまるで秘密基地の居場所を教えるかのように、私の耳元で囁いた。
「あの部屋のお爺さん、もうすぐ死ぬよ。だから、〝誰が狙われるかわからないけど、気を付けてね〟」
……後に、この気を付けてに込められた本当の意味を私は悟ることになる。
私はこの時、軽い悪戯なのだろう。そう考えていた。だが、実際には違っていた。これは人形少女なりの警告だったのだ。
ここから一週間後のハロウィンに。まさに悪夢というべき夜を私が過ごすこととなろうとは……想像する方が無理という話だった。