健やかな寝息
全ての子供たちへ
全てのママたちへ
捧ぐ
あやちゃん、と振り向いた時、後ろをついてきているはずの子供がいなくなっていたとしたら。
二歳になりたての子は歩きたがって、抱っこをすると嫌がって降ろせと言う。
車から降りた時、スーパーで買い物をしている時。
ばたばたと暴れて悲鳴交じりの声を上げる。
歩きたいのだと。
軽快な音楽が流れる店の中で、わかったよ、じゃあ歩いてみな、だけど悪い子だったらママ知らないよと下におろす。
すると案の定、すぐさましゃがみ込み、そこから一歩も動こうとしない。
イヤイヤ期だからね、おいでと言われたら反抗したくなるんだろう。
でもわたしも急いでいる、疲れている。早くおいで、もう知らないよ、ママいっちゃうよ。
そう言って娘から目をはなし、二、三歩行きかけたところで「ママ」と必死な声が聞こえる。
「ママ!」
「知らないよ、もうママ行くもの」
「ママ!」
「そんな子知らないよ」
さらにもう何歩から行ってから振り向く。
モシ、イナクナッテイタラ。
……。
この恐怖はなんだろう。
子が産まれて、抱っこした瞬間から小さな恐怖が生まれた。
あまりにも大事だから、あまりにも弱くて守ってやらないといけないから。
この子がもしいなくなったらと思うと恐ろしくて眠れないこともあった。
ちょっと目を離したすきに、もし……。
(ああ、勘弁して)
どうしてか、その恐ろしい妄想はいつもわたしの中にあって、それが親の愛なのか、それとも自分がちょっとおかしくなりかけているのか、分からなくなりそうだ。
家の中にいても。
もし、寝ている娘から目を離した隙に、もし、いつも閉まっているはずの窓がたまたま開いていて、そこから誰か、良くない企みを持った人がそっと入ってきて、娘を攫って行ってしまったら。
車から降ろす時も、ほんのわずかな間――扉にロックをかけるためにポケットの鍵を探っている数秒に――子がちょこちょこと走り出し、はっとした時に、その小さい体を見失ってしまうかもしれない。
どんなに明るい服を着せていても、目を離した瞬間に空気に溶けたかのように消えているかもしれない。
どんなにママ、ママと叫んでいても、振り向いた時、ママと叫んでいたのは見も知らぬ別の子で、うちの娘はどこにいったのか、もう全然わからなくなっているかもしれない。
仕事が終わって保育園に迎えに行って、たくさんの子供たちが賑やかに遊んでいるのを見る。
「あやー、帰るよ」
呼びかけても娘は来ない。
先生たちも、まるでわたしがそこにいないかのように反応しない。
よく見ると、きゃっきゃと走り回っている子供たちの中に、娘の姿は見えない。
「あやちゃんですか。さっき、迎えに来られた方と帰られましたよ」
通りすがりの保育士が背中越しに言って去っていったとしたら。
嘘だ、そんなはずはないと、娘の靴が入っているはずの下駄箱に駆け寄り確かめてみたら、赤いさくらんぼのついた靴が――休日に子供服の店で勝ったやつだ――消えていたとしたら。
(耐えられない)
そんなことがこの世の中で許されるものなのか。
だけど事実、毎日のように悲惨なことは起きているではないか。
うちの子だけが安全だと思うことなぞ、できるはずがない。
……。
ちいさい体、舌足らずできちんと分かるように喋ることもできない。
ママの名前も、それどころか自分の名前もきちんと言えないんだ。
走っていって、足元にあるものなど気づかないから、もし一歩踏み出したところに、例えば用水があったとしたら。
歩道から逸れて、前などろくに見ていない車の前に出てしまったとしたら。
一日が終わり、娘は今日も無事に眠ってくれた。
すうすうと寝息を立てる横顔を何度も確認しながらパソコンに向かう。
けれど「ママ」と呼び声が聞こえた様に思い、どきりとして振り向くのだ。
モシ、イナクナッテイタラ……。
大丈夫だった。
寝言でママと呼んだだけだった。
今も娘は健やかに眠っている。
(大きくなあれ)
心から思う。
ママと呼んで追い回してくれる今の愛くるしさが、いつか小憎らしさにかわる日が来るとしても。
大人になれ。
強くなれ。
ママに置き去りにされて行方不明になるくらいならば、ママを置き去りにしていい。
ママの死に目にあえなくても、あんたは気にせずどんどん進んでいけばいい。
ママは背中を見送られる事より、あんたの背中を見送りたい。
子を連れて外出するときや、自分以外の誰かに子を預けるときに、ふっと強い不安を感じることがあります。
この不安感やばいな、とおののきつつ、たぶんほとんどのママが似たような思いを抱いたことはあるんだろうと思うのです。
全ての子供たちが健やかに大きくなってくれればいい。
悲しいニュースを見るたびに、祈るように思います。