7/3「キングコングVSゴジラ」:ゴジラシリーズの針路決定作
この映画は「ゴジラ」の社会派SFとしての特徴は残しつつも、エンタメ色が非常に強い。
端的に感じた印象は二つ。
「新しい視座の登場」と、「これがゴジラシリーズの針路を決めた」
順番に、話をしていこう。
動物的な習性を前面に出し破壊のスペクタクルを描いた今作。破壊される建物と、躍動するキングコングとゴジラの格闘は感動すら覚える。実に動物的に彼らは戦う。これまでどこか神話的存在として描かれてきたゴジラであるが、今作ではあくまで一匹の動物のような描かれ方をする。それはつまり、この世界の人々にとって「ゴジラという恒常的な恐怖」が日常に変化してしまったことを意味する。それは「タコ部長」の言動からも明らかだ。
昭和のバイタリティあふれる「タコ部長」は、自社がスポンサーになっている「世界脅威シリーズ」の聴視率(この頃はまだラジオ優勢だから、聴者のほうが多いのだ)低迷を受け、その打開策を考える。「偉大なる魔神」の目覚めに飛びついたこの部長は、期せずしてゴジラ登場の直後に魔神=キングコングの発見を報道することに成功し、大喜び。
「みろ、ゴジラがなんだ? どの新聞もキングコングの話題ばかりだ!」
わっはっはと笑うタコ部長。彼にとってはキングコングは宣伝材料以外の何ものでもない。
後に彼が「ゴジラとキングコングどちらが強いか競わせてみよう」なんて発想に至るのは、一作目ゴジラの悲痛な人間たちの慟哭からは想像もできないポジティブさだ。
もはやゴジラの存在は非日常ではなくなった。ゴジラが目覚めてしまうのはしょうがないことで、それによる被害も織り込み済み。三回目にもなるとなれたものである。人間は実にしたたかだ。
この明るい人間の視座は今までのゴジラになかったものだ。
「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」において人々は、ゴジラは打倒すべき障害であり一刻も早く除くべきものだという悲痛さがあった。しかし今作においては、ゴジラとキングコングの争いを見世物のように楽しむ人々が描かれる。もちろん、その一方で自然への崇拝を抱く人々も描かれているから、全体で見るとバランスが良い。
しかしそのバランスがどうであれ、この「終わらない悪夢=ゴジラの出現が当たり前のものとなった世界」への変化というのは、大きい。
「ゴジラシリーズ」は夏休み映画として喜ばれる映画として人々の間に普及していく。そこには強いエンタメ性が必要になる。原爆への恐怖なんかを描いていてはテーマが重たくて、毎年見るには胃もたれする。何より子どもにとっては、原爆の恐怖なんかどうでもいい、っていうのが本音だろう。
これら諸条件をクリアする契機になったのが、この一作で描かれた「明るい人々」であることは間違いないだろう。
もう一つの契機は、カラー映画で行われた特撮の見栄えの良さだ。
ミニチュアであるが、国会議事堂がキングコングに破壊された時なんて思わず手に汗握っていた。
カラーで戦車がバカバカ主砲を撃って、スモークも出て、……モノクロとは印象が違うことに驚いた。
押井守はたびたび、かつて映画はその映像そのものが驚異であった、電車が走ったり、赤子が泣いたりするだけで人々はそれに驚き感動したものだ……と語っている。
「カラー映像による特撮」とは、新たに登場した「魔術としての映像」だったに違いない。
現代っ子の僕でさえテンションアゲアゲで楽しめるんだから、当時の子どもたち/大人たちにウケが良かっただろうことは容易に想像できる。
新しい視座が導入されたこと/カラーの特撮が導入されたこと
この二つが、後のゴジラシリーズを「社会派エンタメSF」の方向へと舵を切らせることになったのは想像に難くない。
聞けば、「放射熱線」なる設定の方向性が決まったり、ゴジラの声が新しくなり「昭和ゴジラシリーズ」で使い続けられることになったり、いろんな指針が決定されているようだ。
今作は「ゴジラ」シリーズを語る上では欠かせない一作であるだろう。