7/1「ゴジラ」:或る黙示録 追記あり
伝説は、怪獣の咆哮から始まった。
絶叫と、足音。
そして立ち向かう脅威の大きさを感じさせるヴァイオリンの旋律。
いったい何が起こるのだ?
流れるスタッフロールは何も語らない。沈黙の力は偉大だ。我々はいったい何が起きるのかという期待感をもって、画面に見入っている。
伊福部昭の書いたこのオープニング音楽「M1」は今の我々にとっては「ゴジラのテーマ」として広く親しまれている。ゴジラと聞けばこの音楽を思い出す人も多いのではないだろうか。ゴジラを知らなくてもこの音楽だけは知っているという方もきっと多い。
しかしこの映画は、現代の我々が想像するようなパニック系特撮映画などではない。
映画「ゴジラ」の正体はあの時代の人々が直面していた現実の鏡。「シミュレーションSF」映画なのだ。
◇
特撮技術の素晴らしさと、演出の巧さはこの映画を語る上では欠かせないだろう。しかし私は特撮に関しては恥ずかしながら不勉強で、雑学程度しか知らない。
なのであくまでも、ここでは私が感じたものを表現することに注力しようと思う。
この映画の魅力は人の数だけ存在する。「これがゴジラの魅力だ」という言葉はレトリックでしかない。
だがそれを自覚した上であえて語るとすると、私は、何よりも「現実への真摯さ」こそが「ゴジラ」の魅力ではないかと思う。
現実への真摯さと聞いて、ピンとこない方が多いと思う。僕がこの単語を使う理由は、先ほど紹介したように、「ゴジラ」を「シミュレーション映画」だと思っているからだ。
確かにゴジラという怪獣が現代に蘇るという展開は荒唐無稽で、現実味が薄いかもしれない。しかし復活した怪獣に「水爆の落とし子」という背景が導入されると、途端に話は変わってくる。
そして「ゴジラ」はあくまで怪獣ゴジラの暴威を描くことに主眼が置かれていない。では何が描かれているかというと、「怪獣ゴジラの登場によって混乱する社会」なのだ。
不必要なのではないかと思えるくらい執拗に、劇中ではゴジラの被害に嘆く人々の姿が描かれる。ゴジラの登場で混乱する政府が描かれ、ゴジラの情報を公開すべきか否かで争う与党と野党も描かれる。
これはまさしく、「現実世界にゴジラが現れたら」というエクストラポーレーション(直訳すると代入;SFの伝統的手法)だ。
怪獣が現れた時、政府はどう動くのか。人々はどう動くのか。科学者は何を思うのか。綿密に、彼らはシミュレートして、映像の中に閉じ込めた。
「博士の異常な愛情」が公開される10年も前に、日本の映画で水爆の恐怖を取り扱っているのだ。その先見性の高さには純粋な感動を覚える。
◇
映画「ゴジラ」の「現実への真摯さ」について、シミュレーションの正確さという観点から今まで語ってきた。今度は、その映像な真摯さについて語ろうと思う。
ゴジラに踏み潰され、熱線に焼かれた街の光景。現代に生きる私たちですら既視感を抱く焼け野原はいったい何の再現だろうか。
察しのいい人はもう気がついているかもしれない。
あの焼け野原は、空襲に焼かれた東京の街だ。
こじつけようと思えば、ゴジラ、つまり外部からの侵略者は落とせなかったB29のメタファで、無力で、自己の利益=支持率しか考えない政府はかつての政府のメタファだとも言える。
ここまでいうのは穿ち過ぎだと思う。
しかし1954年という時代を考えたとき、つまり朝鮮戦争の三年後だが、この映画は背景に戦争を孕んでいるのは明白ではないだろうか。
この演出は時代背景を考えると、とても勇気のいる行動だ。未だ傷跡残る東京の市民のトラウマを掘り返すことになるのだから。
しかしそれでも、彼らは水爆の恐怖を描いた。
焼け野原の東京を、東京タワーの破壊を描いた。
不条理な暴力装置としてのゴジラを描き、それに対抗できる唯一の手段が水爆に匹敵する兵器だと描いた。
暴力の連鎖。拡張され続ける軍事。
私たちが生きる現代も、未だその呪縛から逃れられてはいない。
この映画を作った人々の、作品への真摯な態度が、結果的に様々な現代的テーマを「ゴジラ」に与えることとなった。私にはそう思える。
歴史に嫌という程描かれてきて、現代の我々には一種常識にもなっているもの。
人類の行為の、その意味をこの映画は問い直している。
追記(07/05)
ここから先は蛇足にすぎない。物語の分析ではない、私自身の感想を書かせていただこうと思う。
本文部分の印象を大きく損なうかもしれないので、気分を害された方はゴメンナサイ。
本文で、約1,800文字近く費やして、ゴジラスゲー、時代の象徴、ってなことを語ったわけなんだが、……
実を言うと、この映画を初めてみた時、「ゴジラ」という存在があまり特別なものに感じられなかった。
それどころか不満バリバリだった。ハッキリ言おう、僕は初めてみた時「ゴジラ」を駄作だと思った。
子供の頃からウルトラマンとか、ゴジラとか、そういう巨大ヒーローにはどうも「作り物」感を否めなくて、実はあまり好きじゃない。そのくせ仮面ライダーや巨大ロボは好きなのだからどこか矛盾している。
ゴジラのことを語る前に僕がどうして仮面ライダーが好きなのか語らせてもらいたい。もちろんこれはちゃんと後に”活かす”語りだから、「なんだよマジで蛇足じゃないか」と思ったあなた、もうちょっと付き合っていただきたい。だって、もう追記読んじゃってるんでしょ? そんなら最後まで読んでよ。僕が嬉しいから。多分、損はさせないと思う。
多分、僕は仮面ライダーの人間大=サイボーグという「技術的にありえないことはない」設定に惚れた。そんでもって初めて触れた仮面ライダーが「クウガ」という、人間ドラマに徹した作品だったからこそ仮面ライダーに他とは違う特別感を感じているんじゃないかと、自分では思っている。ファーストインプレッションって、大事だよね。
とあるツイートで、「仮面ライダーは正義の為に戦うのではなく、ショッカーが人々の生活を害するから戦うのだ」と紹介されていた。
僕は非常に小さな目線でしかものを考えられない人間だ。世界が、とか、人類が、とか言われても実感がわかない。思えば、クウガに登場するグロンギも不条理に人類を脅かす。だから五代雄介は戦う。その戦う動機が、どうもウソっぽくないと感じるのだろう。五代の高潔さは真似できないけど、けれど、カッコイイと今でも憧れている。
……だから、最初に「ゴジラ」を見た時、突如現れた怪獣なんて言われても、「ンな馬鹿な」と一蹴してしまった。だって、あまりに非現実的じゃないか? サイボーグなら、まあ、許容できる。けど巨大怪獣? あの足の大きさなら自重で潰れちゃうんじゃねえの? てか、政府の活動とか描きおって。
どうせウソをつくんだったらもっと俺に特撮を見せろ。破壊だ、破壊のスペクタクルだ。ミニチュアをぶっ壊せ!
……とまあ、そんな不満をいだいてしまったのだ。
ファンのかたには非難轟々かも知れない。だがそう思ってしまった。1800文字の余韻台なしである。ゴメンネ。
けれど、そんな僕にさえ「ゴジラ」は妙な印象深さを残した。
だから三回も見直した(もちろん期間はあいてたけど)。
一回目は、「これがオキシジェン・デストロイヤーか……ようやく某漫画/アニメのネタがわかったぜ。オタクとして一歩成長したなふへへ」と思い、
二回目は、「真面目に向き合ってみるとゴジラってシミュレーションとして凄く正確だな」と思った。
そして、三回目に見た時。
「ああ、ゴジラという存在は人類にとってヤバイんだな」
思わず口に出していた。
それは本文中にも書いたように、ゴジラと戦争を繋げたり、シミュレーションSFとしての正確さを実感したりするだけでは感じられなかった感想だと、思う。
有名な話であるが、「ゴジラのテーマ」はゴジラそのもののテーマではない。
ゴジラに立ち向かう人類のテーマだ。
では、この作品でゴジラに立ち向かっているのは誰だろう?
軍隊だろうか。確かにM4シャーマンやF86Fの火力で持って彼らは必死にゴジラに抵抗した。
人々だろうか。確かに「無辜の市民」代表の尾形と恵美子の二人は破壊された街を見て、親を亡くして慟哭する子どもを見て、心を痛め、この現状をどうにかしなければならないと努力する。
しかし、ゴジラに真の意味で対決したのは、尾形でも、恵美子でも、軍隊でもない。
科学者なのだ。
ゴジラの中盤、東京の街が破壊される前。ゴジラを倒すことしか考えない人々とは対照的に、山根博士は憔悴した表情でつぶやく。
「どいつもこいつも、ゴジラを倒すことばかり考えている。生物学的立場から、その生命力を研究しようと何故思わん」
正確なセリフではないかもしれない。それはご容赦いただきたい。しかし重要なのは、山根博士がゴジラの暴威を見てもなお科学者としての自分を忘れてはいないことだ。
それは後々ゴジラに対する決定的切り札を提供することになる芹沢博士も同様だ。彼もまた、東京の街が壊滅しても、恵美子と尾形の説得があってもなおゆずらなかった。
彼らは戦争に加担してしまった科学者の末裔としての意識を持っていたのだと思う。それはどこか「愛国心」のために人類を脅かすことになった原爆を作ってしまった「科学者」の一人であるという罪の意識からきているんじゃないだろうか。彼らにとって海の向こうで行われた実験は他人事ではなく、自国を焼いた悪魔の光も身近なものだった。
だからこそ「平和的活用」が科学者の口からは何度も語られるのだ。
目先の問題を解決するために、後世にまで影響を与えるものを作ってしまった結果が「ゴジラのめざめ」なのだ。彼らは誰よりも知っていた。なんせ、自らの罪でもあるんだから。
そんな芹沢博士が、目の前の現実に折れた。
おそらく三分にも満たないであろう「平和への祈り」を聞いて、芹沢博士は「君たちの勝ちだ」と敗北を告げる。目先の問題を解決し、かつ後世に遺恨を残さない方法=自らの死を伴うオキシジェン・デストロイヤーの使用の決意をした。
ここにどんな葛藤があったんだろう?
……実を言うと今でも答えは出ない。
自信はない。しかしあえて言うとすれば、やはり芹沢博士は五代雄介のような、強い正義感を持っていたからじゃないかと思う。
彼は「オキシジェン・デストロイヤー」を作ってしまった。作ってしまったのだ。
けれど彼は決意していた、「このオキシジェン・デストロイヤーをなんとしても平和のために使ってみせる」そう彼は恵美子に語った。
平和とは何か?
人類未来の安住の約束だ。そこには原爆も、水爆も、量産されるオキシジェン・デストロイヤーもあってはならないと芹沢博士は思っていたに違いない。だからこそ彼は東京が壊滅してもなお自らの落とし子を世に出そうとは思わなかった。
そんな時、一刻も早い平和を待つ子どもたちの声が響いた。
彼はいったいなにを思ったのだろう? 僕には想像もつかない。きっとそれはとても崇高で、重大で、けれどどうしようもなく温かく、苦しい葛藤だっただろう。彼は自らの理想図の敗北を知った。たとえ未来が明るかろうと、今が暗ければ人々は苦しいのだ。ゴジラは打ち倒さねばならないのだと、彼は気づいてしまったのだろう。
だからこそ、彼は自らの死を選んだ。
自分が望んだ「平和な未来」に自分が含まれていなくとも、そこに人々の安らぎがあるというのならと、そう願った。
それを考えた時、僕はゴジラのヤバさを知った。
人が命をとしてまで立ち向かわなければならない敵。
それが人類の罪の象徴だとしても、ゴジラ自身に罪がなかったとしても。
どうしようもないものはあるのだと気づいてしまった。
だから僕は、改めて言おうと思う。
「ゴジラ」は凄い映画だ。
この追記を書くきっかけを与えてくださったジョシュア氏に、この上ない感謝を捧げます。