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『呑み処 昼から夜まで』に生ゴミはやってくる。

作者: 幽霊のハチ

 空は曇天である。五月中旬の火曜日は曇りのようで空は薄汚かった。まるで生ゴミのような空は店内に居る山中泰輔でさえ気が滅入って来る。


「やばいな。アイツドタキャンなんかしねえだろうな」


 今年で三十を迎える泰輔はこの気分の悪い天気に待ち合わせをしている友人が本当にやってくるか不安になってしまう。泰輔が友人と待ち合わせに選んだ店は『呑み処 昼から夜まで』という名の居酒屋である。


『呑み処 昼から夜まで』。昔ながらの昭和テイストな店内に、そのシンプルの名の通り平日から土曜日曜祝日関係なく昼から夜まで営業している居酒屋だ。待ち合わせ場所に選んだ泰輔も平日の昼間から酒を飲む奴なんて居るのかよと思うが、


「まあここに居るんですけどね」


 自虐するように呟く泰輔は火曜日の真昼間からジョッキで冷やされたビールを少しだけ口に含むと、苦みが全身に行き渡る。その苦みは果たしてビールの苦みなのか今の自身の心境なのか、はたまたどちらもなのか泰輔は分からなくなる。


 山中泰輔は一週間前に勤めていた職場を退職したのだ。


 原因は上司に酷い言葉をぶつけられている後輩を庇って、そのまま口論の末に上司を殴ってしまったのだ。最初は暴行罪やら何やら言われていたが、結局会社と上司は泰輔が自主退職すれば何も事を起こさないという判断を出したのだ。泰輔としては出るとこまで出てやろうと思ったが、庇ったはずの後輩まで会社側に付いてしまい、どうでもよくなってしまった。その結果が自主退職だ。


 今は手切れ金のように支給された退職金とそれまでの貯蓄で食い繋いで居るが、今でもあの時無駄な正義感を発揮しなきゃなぁと後悔している。やるせない気持ちで泰輔は二口目を口に運ぼうとした時に、


「悪い遅くなったわぁー」


 悪いと言っているのに全く申し訳なさそうには聞こえない声が耳に入る。二口目をやめて、ジョッキを置きながら顔を上げると声の主は黒縁メガネがトレードマークの高校時代からの友人、杉山広光だった。


「おせーよ。もう飲んじまってるぞ」


 泰輔はぶっきらぼうに言いながらも広光に早く席に来いと催促する。


「遅いって三十分くらいしか遅れてねえじゃねえかよぉ。そんくらい待てよ」


「お前バカか。三十分って普通に大遅刻じゃねえか」


「大遅刻って……。せめて中遅刻くらいだろう」


「意味分かんねーよ」


 会って早々バカみたいな会話しながら泰輔はメニュー表を広光に渡しながら、数か月ぶりに会う高校時代の友人を見る。


 まだギリギリ二十代である広光のデコはすでに広がりつつ、髪の量もなんだか少なくなったような気さえする。ハゲ症候群の中期段階と言ったところだろうか。そのハゲ症候群を見ていると自分たちもこれからどんどんおっさんになっていくんだなぁと自然とため息が出て来る。


「お? どうした? 会って早々辛気臭せぇな。あっ店員さんカルーアミルクと鳥の唐揚げにフライドポテトお願いします」


「一杯目からカルーアミルクってお前女かよ……」


「んだよいいだろ好きに飲ませろいっ」


 そう言いながら広光は笑う。ハゲ症候群のくせに全く能天気な頭をしていると泰輔は思うが、だからこそ今日この友人と会うことにしたのだった。


 広光が頼んだ飲み物とつまみとして頼んだ料理がやってくると泰輔は久しぶり会う友人との再会で緩んだ顔を引き締めながら罰が悪そうに話し始める。


「あー、まあなんだ、その、俺さ、会社辞めたんだ」


「辞めた? 辞めたって自分からか?」


 少し驚いたような顔を見せた後に広光は訊ねてくる。


「ん。ま、そうなるな。後輩を庇って上司と揉めた挙句に上司を殴ちまったんだ。そんで色々訴えるだなんだの言い合った後に自主退職したんだ。……おまけに庇ったはずの後輩にもあっさり裏切られてな」


 会社を辞めた経緯を話し終えると自嘲気味に泰輔は笑ってしまう。そうしながら飲むビールはなんともマズかった。


 今日まで会社を辞めたことを泰輔は友人や両親には何一つ話はしなかった。心配をかけたくなかったというのもあるが、何より恥ずかしかったのだ。自分の現状が。憐れんで欲しくない。見下されたくない。馬鹿だと思われたくない。そんな気持ちで泰輔は一杯だったのだ。


 だけど今自分が話している広光は決して憐れむことなく話を聞いてくれるだろうと確信している。なぜならこの男は――、


「ぷふっ」


 そこで一つの漏れ出た笑い声が『呑み処 昼から夜まで』の店内に流れる。


「は?」


 店内にはこの店の店主以外には泰輔と広光しか居なかった。平日の昼間から酒を飲む人間はなかなか居ないからだ。つまり漏れ出た声の主は、


「ちょっと待って? え? なんで笑ってんの? え? 今面白かった?」


 たった今自分の悲惨な現状であるはずの話を聞いていた広光が笑っていたのである。人の不幸でだ。泰輔は驚きで口が半開きのままになってしまう。


「……いや全然。悪い悪い。何かの間違いだ」


 広光はすぐに謝罪しながら否定する。


「だよな。だって俺が会社を無理矢理追い出された話だもん。面白いはずがねえよな」


「おう! 当然だ。クソッなんて理不尽なんだ!!」


 広光は怒る。怒った勢いでカルーアミルクを一気に口の中に入れる。


「しかも助けたはずの後輩に裏切られるし」


「ブフォー」


 そこで広光は口に含んでいたカルーアミルクを全て噴き出す。噴き出されたカルーアミルク綺麗にそのまま泰輔の顔に直撃する。


「…………」


 顔にかかったカルーアミルクは甘い香りがした。


「ハハッ……ハハハハハハハハハハハッッッッッッ!」


 そして店内にはテーブルを叩きながら壊れたおもちゃのように笑い出す広光の声だけが響いた。


「ククッ……ブフハッ! アハハハ!! クビにされてやんの! しかも庇った後輩に裏切られて……ひぃひぃ、ハハッ!」


「…………」


 泰輔は無言で顔にかかったカルーアミルクをおしぼりで拭きながら思い出す。ああ、そうだコイツは屑なんだと。屑だからこそ広光は自分を憐れむことをしないし、屑だからこそ屑にどう思われようがダメージがない。だからこそこの男に泰輔は話すことにしたのだ。


「ちっ。本当に昔から嫌な野郎だお前は」


「ハハハッ。フハー。面白かったぁ。悪い悪い。しかし無職か。無様だな」


「ニートのお前には言われたくねえよ。それと俺は一応求職者だ」


 何より泰輔が広光に話しても全くダメージがないのはクズなこと以上にこの眼鏡ハゲが無職歴まもなく二年を超える男だからだ。


「フフ、まあな」


「誇るなよ。どうせ今日もここの代金自分で払うんじゃないんだろ?」


「おいおい見くびるなよ。ちゃんと妹からお小遣い貰って来たわ!」


「クズだわー。クズを通り越してドクズだわー」


 杉山広光は泰輔が知る情報では二年前に勤めていた料理屋を辞めて、それから一年前くらいに住んでいたアパートの大家と揉めてしまい、そのまま追い出されて住む場所を失くしたのである。そこからはなんやかんやで妹夫婦に泣きついて、現在は妹夫婦の家に居候させてもらっているようだ。


 ここまで情けない屑だと泰輔としても世の中には下には下が居るんだぁと心が和まされるのである。友人が屑で良かったと泰輔は心から思う。


「それで結局お前は俺の仲間入りしたことを報告するために俺を呼んだのか? 言っとくけど、久美子に小遣い貰うの苦労しながら来てやったんだからな」


 広光は妹の名を口に出しながら恩着せがましく言うが、半年前くらいは一応広光も学生時代から貯めていた金で妹夫婦の家に食費だけは入れていると自慢気に話していたがついに貯蓄まで全て失ったのだろうか。


 職を失うわ、住居を失うわ、髪もやや失うわで失ってばかりの広光に泰輔は自分の今の立場を忘れて、憐れに思いながらも今日広光を呼んだもう一つの理由が役に立ちそうだとも感じるのだった。


「そのことだけど、俺さっきも言ったけど今求職中でさ、せっかくだからお前も職探ししないか。もう自分で酒を飲む金もないみたいだしさ。どうだ?」


 そう。泰輔が広光と今日会う理由として一つは広光という底辺中の底辺に会うことで自分よりまだ下が居るんだと和むためだが、もう一つはこの屑を真っ当にするためである。


 この広光という男。高校時代の友人で昔から屑ではあったが、屑は屑でも性根が屑なだけで一応真っ当な男ではあったのだ。高校を卒業して働き始めた料理屋でもしばらくは真面目に働き、一人前の板前として認められている実績もあるのだ。


 しかし働かなくなった広光はそれはそれは屑で屑でどうしようもない人間になってしまい、泰輔はこの職探しの機会にどうしようもない屑を再び真っ当な屑に戻すのが友人としての役目だと思うのだった。何よりこんな屑に寄生されている妹夫婦が不憫でならないのである。


「えーいいよ俺は」


 そんな泰輔の無駄に熱い心情を知ろうともしない広光はあっさり断るのだった。やはりこの男圧倒的に屑だ。


「なんでだよ」


 泰輔は申し出をあっさり断られたことに少しだけムッとした声になる。


「あ? 面倒くさいからに決まってんだろ」


「面倒くさいって実際もう貯金もないんだろ。働けよ。勿体ないよお前」


 これは前から言っていることだったが、広光は屑だが料理人の腕は素人の泰輔でさえ一級品だと分かるくらいである。そんな才能がある屑が働かなければそれはただの才能のある生ゴミだ。


「もしかして料理のこと言ってる? それだったらないわー。なおさらないわー」

 

 そう言うと生ゴミはテーブルの上にある唐揚げに大量のレモンをかけ、その後店主にお願いしてマヨネーズを持ってきてもらうとそれを大量に唐揚げの上にかけるのだった。


「うわっ」


 かけすぎてマヨネーズが山のように盛っているのを見て、泰輔は思わず顔を顰める。これはもう人間の食べ物ではない。生ゴミが食べる生ゴミのエサだ。そして生ゴミは生ゴミらしく見事に生ゴミのエサにかぶりつく。


「うんめ~! はぁーやっぱこれだわー。最高だわー」


 生ゴミは一応人の形をしているのに生ゴミのエサをおいしそうに食べている。さすが生ゴミだ。


「広光……」


 泰輔は生ゴミの姿を見て、深刻な表情になる。その表情を見てか生ゴミが自嘲気味に鼻で笑う。


「フッ。これで分かっただろ。今の俺はこうしてメシには基本濃い味付けならなんでも満足するバカ舌になっちまった。とてもじゃないがもう料理の味なんて分かんねえ。ましてや繊細な和食の味なんてな」


「いや確かにお前の食い方にはキモいけど、だからって料理が出来ないって訳じゃねえだろ」


「出来ねーよ」


「なんでだよ?」


「……あんな、料理人としての動きは消えなくても料理人が自分の作ってる料理がどんな味かもちゃんと分からないまま調理してもいい品にはならねえんだ。とてもじゃないが今の俺じゃ一流どころか二流の店でも満足に働けねえんだ。そして俺は三流の店でやるつもりはない。だから働かない。分かったな」


 広光は言い終わると悲しそうな顔をしたままカルーアミルクを呷る。そんな広光を見て泰輔は思う。やっぱり生ゴミにカルーアミルクって似合わないなと。カルーアミルクは可愛い女の子が飲むべきだ。そんな思いで泰輔は一杯になるのだった。


「まぁ、うん。とりあえずお前がもう唯一の得意な分野もダメになったのは分かるよ。だとしても働けよ。いつまで無職やってんだ。この生ゴミ!」


 生ゴミは色々バカ舌になったとかマヨネーズだとか唐揚げにはレモンだとか言っているが、結局はこの生ゴミが悪いのだ。料理がダメなら力仕事をするなり、職業学校に通うなりすればいいのだ。それをこの二年間何もしないどころかアパートを追い出されて妹夫婦の家に世話になっているなど友人として情けなくて仕方がない。


「生ゴミだと!? 言っとくけど、俺の心は燃えないから不燃ゴミだいっ!」


「どっちにしろゴミじゃねえか!」


「うっせやいっ! 大体クビにされた奴にはゴミとは言われたくねーよ」


「クビにはされてないからな!? 自分から辞めたんだ。自主退職!!」


「ハハッ! 無理矢理させられたくせに」


「人がせっかく心配してやったと思ったらこのゴミはムカつくわ」


「ヘッ! それはこっちのセリフだぜ」


「ああん?」


「オオン!」


 ゴミと会社に見捨てられた男は互いに睨み合う。このまま底辺同士の戦いが始まってしまうのかと思った矢先に、


「お客さん。静かにしてもらえねえですかね。他の客さんに迷惑なんで」


 『呑み処 昼から夜まで』の店主がグラスに入った水を持って来ながらドスを利かせた声で言う。この店主寡黙な男だが、元格闘家でガタイが半端ないのだ。ちなみにこの店に生ゴミと会社に見捨てられ男以外に客は居ない。なぜなら平日の真っ昼間だからだ。


「「……ごめんなさい」」


 あまりの筋肉に二人は声を揃えて、仲良く謝罪するのだった。



「それで? お前が料理人としてダメになったのは分かったけど、実際働かないとやばいだろ? というかお前の妹とその旦那の目が厳しいだろ」


 店主に怒られた生ゴミとリストラ男は仕切りなおすように互いまた酒を頼み、酒がやってくると先程の話の続きを再開する。


「大丈夫大丈夫! 俺を誰だと思ってんだよ」


 ピーチウーロンを片手に広光はそう言うが、泰輔は広光が誰かと問われたら生ゴミとしか答えられずに黙っていると、広光は勝手に話し始める。


「俺は兄貴なんだぜ。兄貴が妹にも妹の旦那にもデカい口を叩かせるかってんだ」


「なんだ? お前ニートのくせに家ではデカい面してんの?」


「あたぼーよ!」


「それはすげーな。どうせ今は金なくて食費も出せてないんだろう。それでデカい面してんのか? いやーお前の鈍さには感心するわ。ある意味で」


「ヘッ! 三か月滞納してるだけだいっ! いずれ日雇いのバイトとかで一時的に働いて返すよ」


 いずれとは果たしていつなのか分からないが、まあクズだから本当に追い込まれないと動かないのだろう。


「はぁー。分かったよ。お前が根っからのクズだとは思ってたけどここまでとはな。いいよ。一人で勝手に職を探すわ」


「おう! お前が成功しないことを祈ってる」


「死ねクズ」


 互いに悪態を突き合うと酒も進み、三杯目、四杯目とどんどん飲み始める。泰輔と生ゴミは広光が妹夫婦の家で如何に敬われているかという話で盛り上がるのだった。


「はぁー。まさか気の小さいお前がそこまでデカい顔が出来るとはなぁ。世の中不思議なもんだわ」


「これが男の魅力って奴よ。久美子の旦那も飼い犬みてーに扱ってるよ」


 生ゴミの妹として産まれてしまった久美子に泰輔は心の底から同情しながら生ゴミの話を聞いている。


「そっかぁ。俺はてっきりお前が久美子ちゃんの旦那に犬みたいに扱われてると思ってたんだけどな」


「これが男の器ってもんさ」


 広光が生ゴミのくせに機嫌が良さそうにカシスオレンジを飲みながら語っていると、


「あれ義兄さん?」


 そこで第三者の声が入る。泰輔は声の方へ目をやると端整で穏やかな顔立ちをしたスーツ姿の男がニコニコと笑った顔で泰輔たちの席に歩いて来るのだった。


「げっ……」


 そのスーツ姿の男の声に広光は露骨に嫌そうな顔をする。泰輔は一瞬疑問に思ったが、スーツ姿の男をよく見たら一度見たことがある顔だった。


「こんなとこで奇遇ですね義兄さん。お友達と食事ですか? ……ん? あのすいません。一度お会いしましたよね」


 スーツ姿の男は席までやって来ると広光に声をかけるが、泰輔の顔を見るとすぐに目線を泰輔に変える。


「ええ、ですよね。えっと……ああ! 結婚式だ! 久美子ちゃんの結婚式でだ。ああ、じゃあ広光の」


 泰輔は思い出す。このスーツ姿の男は広光の妹と結婚した男である。泰輔も広光の妹である久美子は広光と友人になってからの古い付き合いなので結婚式に参加していたのだった。


「そうですそうです! 久美子の旦那の佐藤圭一です。その節はどうもありがとうございました。確かお名前は……山中泰輔さんでよろしかったでしょうか?」


「おお! よく俺の名前なんて覚えてくれてたね。一度しか会ってないのに」


「いえ。久美子や義兄さんからもときどき山中さんのお話しをされるので。立派な方だって」


 佐藤圭一はそう言って、爽やかに泰輔に笑いかける。この一連の会話だけで泰輔は圭一にある程度の好意を覚える。歳も自分や広光と確か三つ程度しか変わらないのにしっかりとした受け答えで、まさに好青年だ。


「…………」


 そんな好青年の登場に広光は歓迎するどころか顔を俯けて、黙り込んでいる。義兄弟の関係で今では同じ家に住んでいる仲なのにだ。


「あの~僕今日一人なんですけど、一緒に飲ませていただいてもよろしいですか?」


「ああ、全然いいよ。いいよな広光?」


「…………チッ」


 広光は小さく舌打ちして返事をする。


「あ? なんだよ急に感じ悪いな」


「別になんでもねえよ。おいお前」


 広光は不機嫌な顔で圭一に対して呼びかける。


「あれ? 今義兄さん僕の事お前って言いました?」


 しかし圭一は圭一で先程の好青年ぶりから一転して、冷たい声で広光に問いかけるのだった。あくまで笑顔を崩さないことに傍から見ている泰輔は五月だというのに寒気を感じる。


「…………」


「義兄さん『お前』って今言いましたよね? ねえ?」


「…………圭一くん。せっかく一人で来たんだから一人になりたかったんじゃないのか? 俺たちが気になるってなら俺たちは店変えるけど」


「そんなことしなくて結構ですよ。ただ気分転換で来ただけですから。それで義兄さん席をご一緒してもよろしいですか?」


「…………」


「義兄さん?」


「…………」


「義兄さんちなみにここお金持ってないのにどうやって払うんですか?」


「……どうぞ座ってくれ」


「どうもありがとうございます」


 一連のやり取りが終わり、圭一は泰輔と広光の席の空いている椅子に腰を下ろす。そんな義兄弟の会話をただただ傍観していた泰輔はふとした感想が生まれる。


「何これ?」


 今の会話でこの二人の仲が良くないというのは分かったが、それにしてもかなりの険悪な雰囲気だ。


「え? 広光、何お前ら仲悪いの? さっきお前圭一くんのこと犬みたいに扱ってるって言ったくせに全然懐かれてねえじゃん。え? 大丈夫?」


「ちょ、泰輔余計なこと言うなよ!」


「犬? すいません。山中さん犬みたいに扱われているって義兄さんが僕を犬扱いしているってことですか?」


 泰輔の言葉に広光は焦り、圭一は怪訝そうな顔で訊ねて来る。


「あ……うん、まあそうだね。さっき広光は圭一くんのこと超犬だって言ってたよ。あと器が違うとか」


 泰輔は泰輔で場の空気を読めずに正直に答えてしまう。


「だから余計な事言うなってお前!」


「へ~。そんなこと言ってたんですか。まあ器が違うってのは同感ですけど。義兄さんと一緒にされたくないですから」


 吐き捨てるように言うと圭一は注文を取りに来た店主にビールと枝豆を頼むと、小さく舌打ちを始めるのだった。


「一緒にされたくないってどういことだ。あん?」


 広光は圭一の言葉が頭に来たのか声を荒げて詰め寄るが、圭一は広光に顔を背けずに睨み返す。


「言ったとおりですが、何か? 少なくとも妹夫婦の家で世話になっておいて、払うのは食費だけ。仕事もしなければ、探しもしない。家の手伝いだって気が向いたときに少しやるだけで、どうみても邪魔者以外の何者でもないじゃないですか。はっきり言わせてもらいますが、義兄さんはゴミですよゴミ!」


「っ、それは確かに働いてはないけど、仮にも義兄に向かってその口の利き方はなんだ!」


「義兄? 義兄さんを敬えとでも? 食費さえここ三か月は入れてないゴミがですか? 今日だってここに来る金を久美子からもらったんでしょゴミ!」


「…………そ、そうだが」


「ほらやっぱり。最低だよアンタは。ゴミの中のゴミだ。妹から金を巻き上げるだなんて恥ずかしくないのかこのゴミ!」


 酒を飲んでいないのに圭一のこのヒートアップぶりに泰輔は少し引いてしまう。また生ゴミの安定の生ゴミぶりに安心してしまうのだった。


「まあ圭一くんの気持ちも分かるけど、落ち着いて! ね、一旦落ち着こうか」


「山中さんに言われなくても落ち着いていますよ。ただこの人があまりにもゴミだから」


「いやまあ確かに広光はゴミだけど。生ゴミだけども、さすがにゴミにゴミは言い過ぎだよ。一応クズの生ゴミでも君の兄なんでしょう?」


「山中さんが知らないからですよ。この人はゴミのくせにいつもニコニコと久美子が作ったご飯を食べて、久美子に兄貴面して偉そうにしているゴミ。いやそのゴミの中に居る卑しい寄生虫ですよ」


「ちょっと圭一君寄生虫はないだろう! コイツは確かに愚図でアホでゴミだけど、いい所だってあるんだ!」


「いい所ってどこですか!?」


「それは……ほら無職のくせに妙にしぶとい所とか!? ゴキブリみたいだろう!」


「どっちみち虫じゃないですか!」


 泰輔と圭一が広光に巡って言い合うが、結果的に広光がゴキブリということになってしまった。世界とはなんて残酷なのか。


 そんな中ゴキブリという代名詞を得た広光は自分のことを話されているのに静かに一人酒を飲んでいるのだった。


「…………」


「ちょっと義兄さん。今は義兄さんの話をしているんですよ。黙ってないで反論が何かあるなら言ってくださいよ!」


「…………」


 圭一は広光に食ってかかるが、広光は黙々と注文していたポテトにケチャップとマヨネーズをドバドバかけていた。


「はぁー。犬呼ばわりしたと思ったら今度は無視ですか。ホントアンタってクズだな。人間の中の最底辺だ! 昔は腕のいい料理人だったって聞いてましたけど、この様子じゃそれも全部嘘なんじゃないんですか? アンタはほら吹きの最低なクズ料理人だったんだよ。だから仕事も続かなかったんだ。そうだろゴミ!」


 その圭一の言葉に泰輔の心の中の導線は反応する。確かに自分の友人の広光はクズでゴミでどうしようないゴキブリ男だ。それは事実だし、実際に圭一や広光の妹である久美子に大きく迷惑をかけているのだろう。


 だがそれでもだ。それでも言っていいことと悪いことがある。泰輔は知っているのだ。料理人だった頃の広光を。学生時代は妹のために常に泣き言も言わずに動いていた男のことをこの場で泰輔だけはその目で見て来たのだ。だからこそ圭一の立場がどれだけ正しくて、泰輔自身が会社や上司に後輩に見放されたリストラ男であろうと圭一の言葉はあまりにも許せなかった。本気で腹が立ったのだった。


「おいお前いい加減にし……」


 そこで泰輔の言葉が途切れる。泰輔の怒りの声よりもさらに勢いがある声でかき消されたのだ。そう。生ゴミの声である。


「うっせええええええええええええええええええ!」


 生ゴミこと広光は勢いよく席を立ち上がったかと思えば、叫ぶのだ。その声のデカさに圭一が注文したビールと枝豆を持って来ていた筋肉店主もビックリしたような顔になり、目をパチクリしている。


「ちょっとお客さん店内では静かにってさっきい、」


「うっせえ! どうせ他に客なんて居ねえだろうが!」


 筋肉ムキムキの店主に対しても広光は怯むどころかむしろ店主が広光の剣幕に怯んでしまっていた。これには泰輔も少し驚いてしまう。


 広光は店主を黙らせる真っ直ぐと広光の方に体を向けると、目を逸らさずに言い放つのだった。


「ああ、そうだよ。俺はクズだ。ゴミだ。生ゴミだ。ゴキブリ野郎だよ! お前らの家に厄介になってるくせにここ最近は食費だって払ってねえどころかここで飲む金も久美子にもらったんだよ。とんだゴミ虫野郎さ!」


「広光……」


 泰輔はそう言っている友人をただ見るだけしか出来ない。この男が何を言おうとしているのか付き合いの長い泰輔には分かってしまうのだ。


「でもな、それでも俺は料理人だったんだ。今じゃポテトにケチャップやマヨをドバドバかけるバカ舌で、もうせいぜい数人分の飯を作るのが限界な手しか持っていない俺でも昔は料理人だった。妹の、久美子のために必死に稼ぎ続けた、料理人だった時の時間は嘘じゃねえんだよ。これだけは俺の中のちゃんとした時間だったんだ!」


「数人分が限界ってお前怪我してたのか広光?」


 泰輔はそのことは知らなかったのだ。昔突然料理人も辞めた時も店主と喧嘩をしたとだけしか聞かされていなかった。


「…………」


「ええ、そうです。……これは久美子から聞いた話ですが、義兄さんは事故で手首に大きな怪我を負ってしまったんです。その後遺症で今では料理人として何十人、何百人としての料理を作ることなんて出来なくなってしまったんです。それどころかこの人は今では二十キロ以上の物さえまともに持つことが出来ない体なんです」


 泰輔の問いに答えたのは先程まで広光を罵倒していた圭一だった。


「本当なのか広光?」


「……まあな」


 泰輔がもう一度問うと今度は広光はちゃんと答える。


「お前には情けなくてちゃんと話してなかったが、ちょっとした事故でな。手をダメにしちまったんだ。そして料理が出来ない料理人は店から追い出される。当然だ。役に立たねえんだからな」


 自嘲しながら広光はそうやって話して行くのだった。


「ただ圭一くんの言ってることも本当だ。料理人としてやっていけなくなった俺は酒に溺れて、料理の味を見るための舌を自分から壊して、自暴自棄になっていたんだ。何よりちょうどその時期久美子が圭一くんと結婚するって言い出してなぁ」


「…………」


 広光の言葉に今度は圭一が黙り込んでしまうのだった。


「……正直言えば、嬉しかったよ。久美子がまさかちゃんと結婚してくれるだなんて。しかも相手はイケメンで大手の会社で働くエリートサラリーマンと来たもんだ。安心した。心底安心したよ俺は。だから一気に肩の荷が降りた。もう頑張らなくてもいいんだって。そっからは知っての通りさ。お前らが言うゴミクズのゴキブリ男の爆誕って訳さ」


 話し終わると広光は乾いた声で笑うと圭一に向かって頭を下げるのだった。


「すまなかった。知ってたんだ。俺がずっと邪魔者だってことは分かってたのにお前たちの家に長居させてもらいすぎていたな。これからはまあアレだ。……うん。自分のために頑張ってみるわ。正直に言ってくれてありがとう」


 言い終わると広光は頭を上げ、料理と酒を持って来ていた店主にお勘定と言いながら金を渡すとそのまま店から出て行こうとしていた。


「ちょっと待った!」


 泰輔が引き留めようとする前に先に圭一が広光を引き留めるのだった。


「つまり義兄さんは僕たちの家から出て行く。それでいいんですね?」


 圭一は確認するようにそう訊ねる。


「フッ。まあそうだな。俺は久美子や圭一にとって邪魔者だったんだ。今まで無視しながらそれを知らない振りをしていた。……そういうことだから出て行くよ今日にも。幸いにも持って行く荷物なんてほとんどねえんだ」


「出て行くってお前どこに?」


 そこでようやく泰輔は口を挟むと、広光は罰が悪そうな顔で笑いながら泰輔の方に顔を向ける。


「……無職同士仲良くしてくんねえかな?」


 その屑な発言に泰輔は思わず、笑えて来る。


「…………一か月以内に生活費を払えなかったら追い出すからな」


「おう、たぶんな」


 広光のあてにならない返事を聞いて、泰輔も席を立ち上がり、店主に勘定の金を渡すとそのまま店を広光と共に出て行こうとするが、


「勘違いしないでください!」


 そんな生ゴミリストラコンビをまだ引き留める声があるのだ。圭一だ。


「勘違いってどういうことだ圭一くん?」


 広光の代わりに泰輔が圭一に訊ねる。今回圭一がここのやって来たのだって迷惑で邪魔な広光を追い出すためだと泰輔は思っているが、それは勘違いというのだろうか。


「確かに僕は義兄さんを邪魔に思っています。義兄さんのこと嫌いですし、ウザいし、むしろ居なくなって欲しいです。でもそれは僕の思いであって、久美子の想いではありません!」


「久美子の想い?」


 妹の名前に広光は反応する。


「久美子はあなたがどんなに落ちぶれようが、ゴミクズだろうが、ゴキブリであってもあなたのこと兄として慕っていますよ」


「慕ってるって圭一くん。そりゃあねーよ。久美子だって君と一緒さ。俺が邪魔なんだ。顔を合わせたらいつも小言ばかりだ。情けない兄貴に愛想なんてとっくに尽かしちまってるのさ」


「確かに久美子は義兄さんのことを話すときはいつも愚痴ばかりです。どうしようもない兄だってね。でもね楽しそうなんですよ。あなたの愚痴を話す久美子はいつも楽しそうだ。いつもあなたはダメ人間だから今度は自分が助けてあげなきゃと言っていますよ」


 そう話す圭一の声は泰輔が聞いても悔しそうに聞こえる。しかし圭一は悔しそうでも顔を曇らせはしない。そうして確信を持った声で自分の友人の広光に言ってのけるのだ。


「そんな久美子を僕は愛しています」


 それはシスコンの兄貴へ宣戦布告なのか。彼は広光を睨むように鋭い目つきで見つめる。


「そして僕の妻が慕っているあなたを僕は大嫌いでムカついて疎ましく思っていますが、感謝しています。あなたが、義兄さんが僕の妻をずっと支えてくれたんですから。ずっと僕の妻のために義兄さんはその身を削ってくれた。その事については僕は義兄さんを心から尊敬します」


「…………そうか」


 広光は静かに呟くと、彼は一人俯く。


 泰輔も圭一のことが言っていることは分かる。高校時代からゴミみたいな友人を見てきた泰輔には圭一の言葉は共感出来るのだ。


 高校一年生の夏に広光の両親は事故で亡くなった。まだ高校生の広光と小学校も卒業していない妹の久美子を残して。両親の葬式を終えた後に親戚は広光たちに片方ずつなら引き取れると言ってきたそうだ。


 まだ幼い妹を一人ぼっちに出来ない広光は泰輔たち友人に相談などした後に、自分たち兄妹で暮らしていくと親戚の申し出を断った。自分で妹を育てると親戚たちに啖呵を切ったのだ。


 それから広光は一直線だった。両親の保険金だけでは足りずに彼は自分の学費と妹を育てるためにいくつも掛け持ちしながらバイトに明け暮れ始めるのである。


学校ではいつも寝ているかゲスで屑な生ゴミのくせに学校が終われば妹のために遊ぶことも休むこともせずに常に働いていた。馬鹿みたいに笑うのだけは忘れないで。


そんな生ゴミだから泰輔はこの生ゴミと友人で居たいと思ったのだ。そんな生ゴミだから泰輔は学生時代この生ゴミに協力しようと思ったのだ。


「久美子が前に話してくれましたよ。彼女が風邪を拗らせて入院した時あなたはバイトや学校があるのに目に隈を作って、いつも彼女の傍に居たって。彼女が苦しそうにしていると大丈夫だって手を握りながら言い聞かしてくれたって。彼女が不安そうにすればあなたはいつだって笑い飛ばしてくれたんだって。誇らしそうに久美子は話していました」


 それも泰輔は知っている。この隣の生ゴミの友人は学校では妹が入院したと大騒ぎして、不安そうな顔をしているのに、いざ妹の見舞いに行く時に限っては笑うのだ。妹に心配をかけないように。そうして放課後から面会時間が終わるまで常に妹の傍に居て、深夜に年齢を誤魔化してバイトをして、学校でまた大騒ぎして、また妹の前で笑う。それが泰輔が知っている生ゴミなのである。


 高校を卒業してからも妹のために進学など全く考えずに就職をして、一杯一杯なくせにいつでもダサいのにカッコつけて笑っていたのだ広光は。


 ああ、そうだ。泰輔だってそんな男を口には絶対に出さないが、尊敬していた。ダサいのにカッコいいと思った。同い年である男の姿を確かに目に焼き付けていた。その思いは今でも変わらない。例えそいつがどんなに堕落しようが、屑になってしまおうが泰輔の目には焼き付いている。自分が見ていた事実は決して消えはしない。


「久美子は今でもあなたのことを愛して、いつかまたカッコいいあなたに戻ってくれることを信じて疑わない。だから僕は今の義兄さんを許せない。こんなに想われていて、あなたはそれを知っているくせに知らない振りをして、ダメ人間を演じている。だから僕はあなたが大嫌いだ!」


「…………」


 広光は黙ったまま何も言わない。いや言おうとしているがまだ決心がつかないのだろう。しょうがない奴だと泰輔は思う。ここまで言われてまだ黙っているとは。だから生ゴミなのだ。


 だったらしょうがない。生ゴミの背中を押すのは同じ底辺の自分しか居ない。支えるのが家族の役目だとするなら、尻込みしているケツに蹴り込んで前にぶっ飛ばしてやるのは友の役目だろう。


「広光いいのか。あんなこと言われて、ムカつかないのか?」


「泰輔……。いいのかな?」


「何がだよ?」


「俺、ムカついてもいいのかな。今まで何もして来なかったくせにムカついてもいいのかな」


「何言ってんだよお前」


 泰輔は広光の言葉を鼻で笑う。何を勘違いしているんだこの男はと心底思うのだ。


「お前はクズだ。生ゴミだ。それなのにそんな事気にしてんじゃねえよ。生ゴミ」


「……ハハ。誰が生ゴミだ。会社からも社会から家族にも必要にされてない奴には言われたくねえよ」


「家族には必要とされてるわ! 言っとくけど、俺の母ちゃんマジであれだから。子離れ出来てないから。未だに俺の事タイちゃんって呼んでるんだぜ」


「そういえば昔泰輔の家に遊びに来たとき、お前の母ちゃんが作った煮物がめちゃくちゃ不味くてさ、世の中にはこんな不味い物を食べて育っている奴が居ると思うと俺お前が可哀想になった。だったらせめて俺は誰かに旨い飯を食べさせてやろうと決心したんだ。それが料理人になろうと思ったきっかけだ」


「…………うん。よく吟味しながら考えたけど、いい話風に言ってるだけで単純に人の母ちゃんの飯ディスってるだけだよね?」


「お前の母ちゃんの飯超不味いし、正直そんな不味い飯で育ったお前に俺の料理旨いとか言われても正直微妙だったよ。むしろ不安になる」


「えっごめん。殴っていい? 一発だけだから眼鏡ごとぶん殴っていい?」


「ほらまた暴力的なことを。だからクビにされるんだよお前は」


「……クズだわー。本当に生ゴミ野郎だわーコイツ」


「うっせ。リストラのマザコン野郎」


「マザコンではねえよ!」


 泰輔が叫ぶとそこで広光は笑い出し、泰輔もそれを見て笑う。本当に世の中屑ばかりだと泰輔は思うのだ。


 目の前で眼鏡をかけてハゲ症候群の広光は昔は妹のために働いていたくせにいざ妹が自立すると今度は妹に寄生してダメになったとんでもない屑だ。そんな広光の義弟である圭一も最初は人の良さそうな顔をして近づいてきたくせにすぐに正体を表わして義理の兄弟で喧嘩を始めるのだ。失業者の自分を巻き込んで。とんだ迷惑な屑野郎だ。


 本当に屑ばかりで泰輔は嫌になってくる。自分の前の会社の上司も、庇ってやったのに裏切りやがった後輩も、見て見ぬふりをして影口を叩く周りの人間もみんな屑だ。真っ昼間から酒を出すこの店の店主も屑だし、生ゴミの広光を甘やかす久美子も屑だ。みんながみんな屑なのだ。


 だからこそ泰輔はこんな糞みたいな屑ばかりの世の中で生きてやろうと思える。生きて屑共を見返してやりたいし、屑たちに屑などと思われても屑って言った奴が屑と言い返してやればいい。


 だったら広光も立ち上がればいい。どうせ世の中屑だらけならジッとしている屑より奇妙に動き回る屑の方がずっと面白い。


「言い返してやれよ、生ゴミ」


 そのために他の人間と同様に屑な自分は同類の屑の友人のケツを蹴り飛ばすのだ。屑にはそれくらいでやっと伝わるのだから。


「圭一くん」


「はい」


 圭一が返事をすると店内は数瞬程静寂に包まれるが、広光は意を決したように動き出す。


「……悪かった」


 そして広光は頭を圭一に下げるのだった。


「さっきも謝ったが、もう一度謝らせてくれ。俺は演じてなんかいない。今も昔も妹のために頑張っていたわけじゃねえんだ。全部俺のために頑張っていたんだ」


 懺悔でもするかのように広光は口にする。


「親が死んじまった時、心が折れそうになった俺は久美子が居てくれたから踏ん張れた。辛いことも嫌なことも久美子のためだとか思いながら歯を食い縛って働いてたら全部頭を空っぽに出来た」


 広光は頭を下げ続けたまま自身の想いを吐露する。


「俺はずっと久美子が居たから頑張れた。目の前にはアイツの背中がいつだってあった。でも料理人として俺が駄目になった時にも久美子は歩き続けていたんだよ。気付いたらアイツの背中は見えなかった。さっき久美子が圭一くんみたいな相手を見つけて、肩の荷が降りたって言ったけど、同時に怖くなったんだ。もう俺を引っ張ってくれる人は居なくて、なんのために働けばいいのか、料理人以外に何をすればいいのか分からなくて不安で、どうしようもなかった」


 そこで広光はようやく頭を上げる。その時の広光の顔は実にふてぶてしかった。


「……ただな、圭一くんに今日言われてようやく分かった。俺やっぱお前嫌いだわ。それに久美子が妬ましい。幸せになりやがってよ!」


 本当に自分勝手でアホな奴だと思う。


「だから全部捨ててやるよ。今日できっぱり料理も、妹に対しての想いも全部捨てて、見返してやる。今度はカッコいい兄貴じゃねえ。女にチヤホヤにされる男になるためにやってやる! いいか! 俺はお前たち夫婦に申し訳なく思っているが、これとそれは別だ! これから絶対お前らを見返してやっからな! 見とけよ!」


 これだけ長々と語ったくせに結局広光は最後は妹夫婦を妬んで、妬んだ相手よりいずれ幸せになってやるという浅はかな話だった。全く生ゴミには困ったものだ。だがこれこそ生ゴミだ。


「はぁぁぁぁぁー」


 これには圭一も長い溜め息。気持ちは分かる。


「……義兄さん、前から思っていたんですけど、義兄さんって大馬鹿ですよね」


 ただどこか楽しそうに圭一はそう言うのだった。そして圭一は泰輔の方に体を向ける。


「山中さん。すいません。……僕はこの人クズだと思っていますけど、それでも久美子の大切な兄です。身内の面倒は身内で見ますからこの人引き取らなくていいですよ」


「あっそう? 正直助かるわ」


「まあ一度面倒を見たらちゃんと見ないといけませんから。ということで義兄さん別に出て行かなくていいですよ。そもそも出て行けとも言ってませんし。ただ僕は義兄さんのことが本気で嫌いだと伝えたかっただけです」


「…………いいの? まだ家に居ても」


 一連の流れに付いていけない広光。ちなみに店主はなぜだか営業中なのに勝手に人の席に座って、ビールを飲んでいた。さすが真っ昼間から酒を勧める店をやっている店主なだけはある。まさに自堕落店主だ。泰輔はこの空間に今まともな奴居ねえよなと思いながらもあとの会話は義兄弟の二人に任せて、店主と乾杯をしながら生ゴミたちの会話に耳を傾ける。


「まあただし仕事を探してくださいね。そして仕事を見つけて、さっさと出て行ってください。むしろ出て行ったら二度と顔を見せなくてもいいくらいです」


「ああ、任せろいっ! 絶対にホワイトで給料のいい仕事を見つけて、お前ら夫婦なんかより幸せになってやるぜ!」


「期待はしませんが、とにかくなるべく早めで姿を消すようにお願いします。さてと、長話になりましたけど、僕たちも飲みます?」


 ようやく話が終わったようで圭一は泰輔となぜか商売中に酒を飲んでいる店主の方に体を向けて、そう言うのだった。


「飲むか!」


 その問いかけに広光も迷いなく答える。


「飲みましょう!」


 こうして勝手に騒ぎを起こした迷惑な義兄弟は席に座る。店主が乾杯用のビールをジョッキを全員に行き渡らし、いよいよ乾杯しようとした時に、ふと泰輔は気になり始めた。


 店内の時計を見るとまだ午後三時。


「そういやさ、圭一くんは今日仕事どうしたの? 無職になった俺たちはともかくまだ三時だけど、大丈夫なの?」


 乾杯の合図を止めて聞き出す泰輔に店主や広光は不満げな顔をする。そんな些細なことはどうでもいいではないかと。しかし当の聞かれた圭一は笑顔で答える。


「ああ、それなら大丈夫ですよ。さっきクビになりましたもん」


 割とあっさりと衝撃発言をするのだ。


「「「は?」」」


 泰輔と広光に部外者である店主まで声を揃えて、間の抜けた顔をする。


「いやクビになったんですよ」


「ど、どうしちぇて?」


 広光は驚いたせいか噛んでまともに言えてない。


「ああ、ちょっと取引先の奴があまりにもムカつく奴だったんでそこの社長に頭からお茶をぶっかけたんですよ。そしたらまあ案の定ウチの会社に苦情がやって来て、僕は即刻クビになりました」


「えぇー……」


 広光は驚きと共に不安そうな顔になる。当然だ。寄生先の稼ぎ柱が同じレベルまで堕ちてしまったのだ。


「それでまあイライラが頂点に達したので昼間から酒を飲もうとしたら義兄さんが呑気な顔をしていたので、さらにイライラして八つ当たりしました。すいません」


「う、うん。……えぇー」


 広光はまだ動揺している。


「あっでもウチにこれからも居るなら今度は家賃と生活費もちゃんと貰いますから早めに仕事見つけてください。じゃないと久美子に殺されますよ。僕と一緒にね」


 圭一の顔に嘘はなさそうだ。マジで言っているようである。泰輔はそのままもう一つ気になることを口にする。


「ちなみにそれ奥さん……久美子ちゃんは知ってるの」


「…………」


 そこで圭一は青ざめてガタガタと震え出す。それを見て口に出さなくても泰輔も理解する。


「義兄さん、今日一緒に土下座しません?」


「…………とりあえず飲むか?」


「…………はい」


 二人の様子を見て、泰輔は今飲むのはビールではないと判断し、店主に別の酒を注文することにする。


「すいませんウォッカロックで!」


 この後広光と圭一がベロベロに酔った後に久美子にボコボコにされるのは言うまでもなかった。そして泰輔がそのゴタゴタに巻き込まれることも。


 『呑み処 昼から夜まで』の店内が悲壮感に包まれる中、空は未だに曇天である。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 3人とも現実にいそうだけどかなり味付けの濃い、それこそマヨの山盛りみたいなキャラなのがいいですね。掛け合いにいちいち笑ってしまいます。こういう会話で笑わせてくるの、自分は大好きです。 そし…
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