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返却期限

作者: 射月アキラ

 やりたくないことがあると部屋の掃除を始めてしまうのは、私の悪い癖だった。

 学校のテスト勉強しかり、終わりそうにない課題しかり。家族や友人と喧嘩したときのような、嫌なことがあったときにもついやってしまう。

 とはいえ、自分でも少し不思議だった。二年ぶりに実家に帰ることが、それほど私にとって精神的な負担になっているのだろうか、と。

 その原因は、掃除中に見つかった。

 めったに開かない引き出しにしまいこまれた、紺色のビニール袋だ。平べったいつくりからして書店で使われるもので、プリントされた店名は上京する前よく目にしていたそれだった。

 几帳面に余った部分を折りこんで、さらにテープでとめられた袋を、わざわざ開けるまでもない。

 この中に入っている本は、借り物だ。

 すっかり忘れていた。けれど、見てしまえば思い出すのは簡単だった。思い出してしまえば、実家に──というよりは、地元に帰ることへの気の重さにも、納得がいった。

 ほとんど二年ぶりに、私は紺色のビニール袋を開封した。テープの粘着力はとっくに弱っていて、少し触れただけであっさりとはがれてしまう。折りあとのついた袋から出てきたのは、一冊のハードカバーだった。

 古めかしい、それこそ世界史の教科書にでも載っていそうな画風の絵が描かれている割に、つやつやした滑らかなカバーがかかっている本だ。

 はたして、この本のタイトルをどれだけの人が見るのだろうか。『北欧神話物語』。簡潔で明瞭な題ではあるものの、日常生活で目にすることなどないと言っていいだろう。北欧といったら、デザインものの家具や小物がごくまれに雑誌で特集されているくらいで、ブームというにはささやかすぎる。ましてや、神話なんて。

 この本を、私は返さなければならない。

 けれど、貸してくれた人物こそが、私の心を重くする原因でもあるのだ。なぜか、と問われれば、詳しく説明するのも難しい。嫌いとも、苦手とも違う、気まずさのようなものを私が感じてしまっていることは確かだ。

 ともかく、私には彼と接触をはかるきっかけができてしまった。立ちあげたままのパソコンに繋がっているスマートフォンを掴み、メールアプリを開く。

 大学進学と同時に新調したこの端末には、おそらく彼への送信メールが残っているだろう。受信ボックスに入っている返事は、ない。高校卒業の日に『北欧神話物語』を借りたきり、彼からのコンタクトは一度もない。

 いまはやりの既読スルー、なんてものじゃない。いちいちそんなものを気にしている友人に対して、内心鼻で笑うことすらできるレベルだ。二年も音沙汰なしとなったら、いっそ安否の心配すらできてしまう。嫌われたとか、縁を切られたとかいう理由ならば、それだけメールで伝えてくれれば借り物は宅急便でも済ませられるのに。それとも、仕事を始めるということは、忙しいことすらメールで伝えられないくらいに忙しいことなのだろうか。

 ため息をひとつついて、そこで私は文面をどうしようか全く決めていないことに気づいた。一方的に何度もメールを送り続けていたのは大学に入ってからの半年間だけで、相手の真意だとか安否だとかを考えている内に頻度が落ちていってしまったのだ。

 だいたい、一年ぶりのメールということになる。

 真っ白な本文欄を前に、私は何もできないまま画面を見続けていた。操作されなかったスマートフォンが省エネと防犯のために画面を暗転させ、私がロックを解除する。同じことが四度続いて、ようやく私の肩から力が抜ける。

 彼の真意など、考えるだけ無駄だ。必要最低限のことだけ書いて、返事がなければ本はポストにでもつっこんでおけばいい。

 そう決めてしまえば、驚くほどあっさりと本文欄を埋めることができた。「今度久々にそっち帰るから借りてた本返そうと思うんだけど、時間ある? なかったら、適当にポスト入れとくから」──見返すほどのものでもない内容だ。多少言葉足らずな感もあるが、そこまで気にするのもなんだか違うような気がする。

 一息ついて本とスマートフォンを置くと、ひとつ肩の荷が下りたようにも思えた。返事が来ないからといって彼にメールすら送らないということに、少しばかりの罪悪感があったのかもしれない。

 無駄な思考を振り払い、やりかけの掃除を終わらせようと開けっ放しの引き出しへ近づく。まずは中身のいらないものを捨ててから、なにを入れるか決めていこう。というところまで考えたところで、引きとめるように電子音が鳴った。

 音源はスマートフォンだ。まさか、とよぎった期待を、私は努めて意識の外へ追いやる。彼からメールの返事なんて、ずっと来ていない。大学からの連絡メールか、どこかの店で登録したメールマガジンか、タイミングよく用事のできた大学の友人からだろう。

 スマートフォンには、二〇時二五分を示すデジタル時計の下に、メールの着信を知らせるポップアップが表示されている。

 予想は裏切られた。期待は裏切られなかった。

 けれど、訳もなくいらいらする。USBコードを抜いたスマートフォンを部屋の隅に畳んだ布団に投げつけ、一時間ほど放置してから返事を書こうと心に決めた。

 なにが「分かった。日付教えてくれれば合わせるよ」だ。忙しいんじゃなかったのか。今までメールの返事がこなかったのは、なんだったんだ。

 fromのあとに続いた彼の名が少しばかり新鮮だったのが、さらに気に食わなかった。



   *



 暇つぶしに使うものを持ってきていないことに気づいたときには、私はすでに新幹線に乗りこんでしまっていた。

 どうしよう、と思う間もない。世間一般も長期休みに入るこの季節、下り線の新幹線は多くの乗客であふれかえっている。今回は「今年こそ帰ってきなさい」という手紙とともに指定席券が実家から送られてきたからいいものの、そうでなければぜひとももう少し時期を考えて帰郷したいところだった。けれども、姉の結婚式まで理由に出されてしまったら、そんなわがままは言っていられない。彼への気まずさと家族との間には、なんの関係もないのだから。

 やっとこさ座席を見つけ、荷棚に小ぶりのトランクを乗せる。きっぷにあるとおり窓際の席へ腰を下ろして手荷物を開けると、家を出る直前に慌てて詰めこんだ紺色のビニール袋が目に入った。

 暇つぶしに本を読むことは嫌いじゃない。むしろ好きな方だし、乗り物酔いしやすい体質というわけでもない、のだが……問題はタイトルだった。

 赤の他人とはいえ、『北欧神話物語』という本を読んでいるのを見られることに耐える精神力が、私にはない。好きなジャンルであれば吹っ切れるのだろうが、私は特に神話が好きなわけではないのだ。

 さらに、私に追い打ちをかけるようにして、隣のシートに他の乗客が腰かけてきた。軽く会釈をしてきた男性はまだ若く、私と同じ大学生か、あるいは一、二年目の社会人にも見える。慌てて会釈を返して窓の外へ目を反らすと、なおさらビニール袋から本を取り出すことなどできなくなった。

 反対側の線路の向こう側には、閉ざされたホームドアが見える。東京駅の外観はテレビなんかでしか見たことがないが、ここから見える風景にはレトロな屋根の先端すら見当たらない。狭苦しい空に見えるのは、どれも同じようなビルだけだ。

 景色でも見ていれば眠くなるだろうか、と考えている内に、発車のアナウンスがなった。軽い電子音のあと、新幹線が動き出す。

 ゆるい圧が体にかかった。昼前の日差しが窓から差し込んでくる。ちょうどよく満たされた腹も、暖かく調節された気温も、かすかな揺れも、眠気を誘う条件には申し分ないはずだ。

 それなのに、私の瞼がおりる気配は微塵もなかった。ぼんやりと外を見つめていると、高層ビルの間に電車の乗客へ向けたと思しき看板広告が掲げられているのが目に入ってくる。ちらつく原色と、読めそうで読めない速度で通りすぎていく活字が、なぜだか妙に私の脳を覚醒させていた。

 忌々しかった。ついこの間まで、容赦のない課題の山とバイトのシフトに頭を抱え、電車の中で立ったまま寝ているような生活を送っていたというのに、こんな恵まれた環境で眠ることができないなんて。

 なにげなく隣を見てみると、男性は前の座席から簡易テーブルをさげてノートパソコンを開いていた。テレビCMでも見たことのある、タブレットに薄いキーボードを繋げるやつだ。私のやぼったい大学推奨のノートパソコンとは比べ物にならない。そもそもノート型なのに持ち運ばれていないぐらい重いのだから。

 思わずため息が出た。東京に出たって、私は大して変わっていない。誰だって突き当たる壁かもしれないが、最新のものがあふれる都会に出ても、それに親しんでいない地域の人間はそうそう最新に追いつくことができないのだ。インターネットがいくら普及しても、大量に並ぶ商品を前にしたら「慣れた目」を持っているかいないかがはっきりと分かってしまう。適当に情報を聞きかじった程度で、家電量販店に大量に並んだパソコンを前にして選別作業に入れるわけがないのだ。

 彼も、変わってはいないのだろうか。普通にしゃべっているはずなのに、いちいち言葉を選んでいるような自信のない口調だとか。たえず手でどこかを触っているような、挙動不審にも見える妙な癖だとか。私とすら決して目を合わせようとしない、不自然な目の運び方だとか。

 ──いや、本質は変わっていないだろう。本を返す、というメールにはすぐ返事がきた。それ以外のメールへの返事は、今だって特になにも言ってこない。「メール返せなくてごめん」の一言さえ、だ。

 もはや、残念とすら思えないのが自分でも少し悲しかった。二年前、返事がなかった頃にうだうだと悩みすぎて、諦めの境地だとか、そういうものに達してしまったのだ。

 ひとつめの停車駅を前に、新幹線がその速度を落とした。景色は相変わらず、建築物の密集地だ。この駅を通り過ぎて、ようやく新幹線は速度を十分にあげることができる。

 時間の流れがやけに遅い。思考もまるでいい方向に転ばない。

 紺色のビニール袋に包まれた本に目を向ける。嫌な考えから逃げるのに最適なのは部屋の掃除だが、それができなければ活字の世界に逃げこむのも悪くはない。問題は、原因となる人間から借りた本であるということと、興味もなにもない神話だということくらいか。

 背に腹は代えられない。憂鬱に地元へ帰るよりは幾分かましだろう。表紙さえ見られなければ、他人からはなにを読んでいるのかも分からないはずだった。

 テープをはがし、袋から取り出した本の滑らかな手触りに、なぜか安心している自分がいた。



   *



 ──この話、漫画とかゲームの元ネタになってることが多いんだよね、読んでみなよ。

 二年前、彼が『北欧神話物語』を評した言葉なら、一言一句たがわず覚えていた。心に残った、とまで言うつもりはないが、呆気にとられたことだけは覚えている。本を貸し借りするような関係が、高校卒業後まで続くとは思っていなかったのだ。

 そもそも、当時だって大したことはしていない。シリーズものの漫画と小説をいくつか買い揃えていれば、毎月のように発売日は訪れる。それでも興味をひかれるもの全てを買えるなんてことはなくて、学生の財布事情を考えればそれも当然だった。

 となれば、友人との貸し借りは自然と行われることになる。私の場合、趣味が合ったのが異性だったというだけで、たとえば同年代の同性間で本の貸し借りをしていることは、なんらおかしいことではなかったはずだ。現に、紙袋にシリーズ全巻を入れてまとめて貸し借りしている様子は、大学でだって見ることができる。

 私と彼の関係は、ほとんどそれだけで成り立っていた。読みたい本があって、二人で分担して買って、貸しあって、借りあう。たまに本の話をして、けれど必要以上に近づくこともない。

 おそらく、彼にとって私との繋がりはこれしかなかったのだ。彼が自信をもって語れる話題、と言いかえてもいい。だから、本以外の話題を含んだメールには返事がこない──そう考えれば、まだ理解できないこともない。

 それだけの関係、というのも、もどかしいものがあるのだが。

「……よ、久しぶり」

 控えめな声に振り返ると、彼はちょうど自転車を降りるところだった。

 ──卒業式のあと、会ったところで。

 メールの指定通り、私は住宅街から少し離れた川べりに立っていた。川といっても、清流には程遠い。たんぼの水をかき混ぜてそのまま流したような泥水が、上流も下流もずっと続いている。

 河川敷も極端に狭く、急な傾斜は小さな子供が川に近づくことすらためらうほどだ。両側の道も農作業用のそれとそう大差はなく、周りに広がるたんぼの中に完全にまぎれてしまっている。

 通る人間なんて、ほとんど見たことはない。このあたりは冬の間、たんぼになにも植えないものだから、さらに人通りは少ない。物好きな釣り人か、まれに犬の散歩をしている老人を見かけるくらいだ。

 遠くには、木々が密集して生える小高い丘のような山が見える。反対側には、高台に建つ小学校と住宅街があるはずだった。

「変わってないね」

 ぽろり、と私の口からこぼれた言葉は、嘘とも本当とも言えなかった。言葉が見つからないまま辛うじて出た言葉のはずなのに、本心ではないような気もする。

 彼は、こんな顔だっただろうか。よく考えれば、私はろくに彼の顔を見たことがなかったかもしれない。ぼんやりとした記憶の中より、にきびの目立たない顔になった──ぐらいは断言できる。そのくらいだった。

「そっちも、変わらないな。安心した」

「都会行って、変わると思った?」

「向こうの方が、面白い人とかおしゃれな人とかいるんじゃないの」

 聞き慣れた、ぎこちない口調。所在なさげに自転車のハンドルを握りなおす手も、どこか見覚えがある。

 変わりないようでなにより、と言う気にはなれなかったが。

「……歩こうか、冷えるし」

 彼は、そう提案して自転車を押し始めた。断る理由も特にないので、私も隣に並ぶ。

 まだ高い位置にある太陽のおかげで震えるほどの寒さではないが、いずれは体の芯まで冷えてしまうだろう。多少は体を動かしていた方がましになるはずだ。住宅街と並行に伸びる道だから、帰りの距離が大きく変わるわけでもない。

「で、都会の面白い人とかおしゃれな人に影響受けて、私が変わると思ってた?」

「いや……そういうわけじゃなくて」

 ちょっと意地悪な聞き方をすると、彼は視線を反らして頬をかいた。

「彼氏とか、できたんじゃないかなって」

 思わぬ反撃だった。

 本人にその気がなくても、私からすれば思い切り不意を突かれた質問だった。けれど、パニックに陥るほどでもない。

 会話に空白は生じたものの、私の返答に揺らぎはない──はずだ。

「残念だけど、そこまで大学生ライフを満喫してはいない」

「そっ、か。いや、うん、ごめん」

「謝ることじゃないよ」

 謝るところはそこじゃない、と言いたいところだが、辛うじて飲みこむ。

 しかし、恋愛の話題になったにも関わらず、私の心は少しも浮かれていなかった。理由は、やはり二年前にあるのだろう。高校の卒業式後、同じ場所で同じように二人きりになって、何事もなく雑談して何事もなく本を借りて、それだけで終わったあの日。

 二人で会おう、と言われたとき、告白だったら受けよう、と思ったことだって覚えている。彼の顔をろくに覚えていなかったのは、自信なさげな挙動が目立つとはいえ、彼を見るのが少しばかり気恥ずかしかったからなのだろう。友達だから、と割り切っていたが、思春期に含まれる時期に趣味の合う異性と出会ったのだから、どこかで意識していてもおかしくはない。

 けれど、見事に裏切られてしまった。私が一方的に思っていただけ、と言えばそれまでだが、それはそれで思わせぶりな行動に腹が立つ。代わりに渡された本が『北欧神話物語』だったから、一気に力が抜けて感情が爆発することはなかった。それだけが救いだった。

「じゃ、そっちはどうなの? 彼女とか」

「え、いないよ。できたとしても、俺、うまく付きあえる気がしないし……」

「ふうん」

 自覚はあるのか。

「最近やっと仕事に余裕できたくらいで、ずっとバタバタしてたからね……」

 あっさりと、はやくも近況報告が始まってしまった。半分ほど聞き流しながら、私は内心で息をつく。

 告白されたからといって、今更イエスと返せるほど太い神経は持っていない。けれど、ここまでいろいろな条件が揃っていながら、どうして話が外れていってしまうのだろうか。

 期待はしない、なにを考えているのか疑問に思わない。彼と付き合ううえで、そうした方が楽なのだということはとっくに分かっている。

 当たり障りのない、平凡な会話だけが行きかう。日が沈みかける、寒くなっていく時間帯までには、別れて家に帰りたいなぁ、とまで思えてくる。

 話す内容も、景色も、ろくに変わらない。住宅街側に見えていた小学校がはるか後方に去って、代わりに六階建てのマンション群が見えてきたくらいだ。太陽の位置だって、なかなか動かない。

 田舎のゆっくりとした時間、というには抵抗があった。惰性で続く、退屈な時間だ。私には、その惰性を振り切ることすらできない。

「あ──そろそろ、仕事戻らないと」

 話のネタでも切れたのか、と言いたくなるタイミングで、彼が唐突に言った。

「え、抜け出して来てんの? 無理しなくていいのに」

「いや、会う機会なんて全然ないからさ」

 思わず冷めた目を向けてしまいそうで、私は彼から視線を反らした。

 夕焼け、とまではいかないものの、赤みを増し始めた空が山の向こうに見える。けれど、冬独特の灰色がかった青い空の中では、差し色のような暖色も寒々しさを助長させる一要素でしかなかった。

「じゃ、これ。返すよ」

 会話の間に挟まった沈黙が致命的な長さになる前に用事を思い出すことができたのは、私にとっても幸運だった。わけの分からない気まずさと罪悪感を、わざわざ感じたいなんて思ったことはないのだから。

 紺色のビニール袋に戻しておいた本を取り出し、彼に渡したところで、ようやく一息つけたような気がした。やらなければならないことがずっと心の隅にあるのは、思いのほか気が重い。

 ビニール袋が彼の鞄に入るのを見届ける。自転車の前かごに収まっている鞄は、確かに仕事用らしい飾り気のないものだった。元々彼に飾り気なんてない、という話はさておき。

 がさがさとビニールの擦れる音が続く。彼は腕で自転車のハンドルを抑えたまま、鞄の中を覗きこんでなにかを探しているらしかった。

「ん、じゃあこれ貸すよ。面白かったからさ」

 鞄の中から彼が取り出したのは、見覚えのありすぎる紺色のビニール袋だった。

「いやいやいや、今やっと返せたところなんだし」

「気にしないでいいって」

「ほら、返すの遅くなるし」

「適当に返してくれればいいから」

 そう言って、彼は押しつけるようにして紺色のビニール袋を渡してきた。ただ、さっきの『北欧神話物語』がハードカバーだったのに対して、今回は文庫本サイズだ。

 だからなんだ、という話なのだが、彼は聞く耳を持っていないらしい。

「じゃ、また今度」

 今度がいつになるのかも分からないのに、さらりと言って彼は自転車にまたがり、ペダルをこぎ始めてしまった。

 ひとけのない、たんぼの真ん中に取り残される。わざわざこんな所に呼び出して、普通の話をして、本を返したと思ったらまた借りることになって──一体、私がなにをしたというのだ。

 長く息をはいて、私はビニール袋にぴったりととめられたテープをはがす。新しいそれは粘着力が強く、接着面に触れていたビニールが伸びて紺色が薄くなってしまった。

 中から取り出した本の表紙は、濃い水色の中に赤いキンギョが映える色使いだった。神話、じゃない。タイトルは、『伊豆の踊子』とあった。

 なにを考えているのか、まるで分からない。

 真意を問おうにも、彼の自転車はすでに遠くの住宅街に入っていくところで、足で追いつくことなどできそうになかった。

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