終末の聖母・3
はっ、はっ、はっ……。
規則正しく小刻みに吐き出される自分の呼吸。それは普段よりも浅く早く自分の耳元で聞こえるような気がする。
もう少し、もう少し。
あの角を曲がれば、そこからはあたしの庭だ。
あたしの知り尽くした、あたしの居場所。
もう少し、もう少し――!
「今晩は、お嬢さん。この先はスラムしか広がっていませんよ」
「――ッ!」
角の先から聞こえてきたその声に、ステラは半ば転ぶような形で足を止めた。勢いがつき過ぎていたその細い脚は急ブレーキに耐えられず、膝をつく。
心臓が、飛び出そうなほど左胸で踊り狂っている。地面に手を着き、片膝になりながら彼女はゆっくりと立ち上がった。
「――そう。貴女はここで立ち止まるべきだ。スラム街など、貴女には似合いませんからね」
穏やかに台詞を紡ぎながら現れたのは、夜の闇にはそぐわない真っ白な衣装を着た男だった。口元には穏やかな笑みを湛えているものの、月の光を反射させる眼鏡の所為で実際どんな表情を隠しているのかは分からない。
だが、本能的に感じる。
この男は――危険だ、と。
スラム街で培った、実践的な本能がそう告げている。
危険、きけん、キケン。
生命の、危険。
頭の中で点滅する、サイン。
気を抜くと震えてしまいそうな両脚にぐっと力を入れ、その男を睨み付ける。
「おやおや、そう怖い顔をされなくても」
茶化すように両手を広げる。いちいち行動が芝居がかっている男だ。
「……あたしに、何の用?」
「何、少しだけ、協力して頂きたいのですよ。リーファ=M=ルフランという少年をご存知でしょう?」
「リーフに何かしたら、許さないから」
「そうそう、リーフ君。我々は彼に協力してもらいたい事がある。それを、貴女から説得してもらえると話がスムーズに進むと思うんだが」
「嫌よ」
即答だった。
「それに、リーフは今何処にいるか分からないわ。協力して欲しい事があるなら、自分で捜して、自分で頼むのが筋ってモンじゃないの?」
リーフが彼女に何も言わずに旅立ったのは少なからずステラにショックを与えた。この男について行けば、すぐに再会出来るかもしれない。少なくとも、自分一人で闇雲に捜すよりはずっと確立が高いだろう。
それでも。
唇を噛み締めて睨み付けて来る紅い瞳を眼鏡の裏で確り受け止め、男は残念そうに言葉を口にする。
「……筋、か。確かにそうかもしれないねぇ。だけど私にも」
唐突に言葉が途切れ。
男が、ステラに身体を預ける。
――え?
何が起きたのか、分からなかった。
じわり、とした腹部の痛みと一緒に目の前が暗くなる。
「……あ、あん、た……」
「私にも、私なりの筋の通し方があってね。協力するもしないも、君は最初から私の計画に協力する事になっているんだよ」
がくっと膝から力が抜けたステラを男は抱き止めた。足元には夥しい量の血液の水溜り。
――嗚呼。
あたし、刺されたんだ。
このまま、死んじゃったりするのかな。
危険、きけん、キケン――。
その信号が頭の中で煩いほど鳴り響いたまま。
ステラの意識は、暗転した。
「お主、一体どうやってその姿になったのじゃ?」
あまり似合わない真剣な表情を浮かべて少女が問う。それはむしろ、ティル自身が聞きたい事の一つであった。
だから、確りとした答えを彼は持ち合わせていない。
「俺は、それを聞こうと……」
ここに来たんだ。
その台詞に被せる様に、フィリエラが問う。
「お主……紋章は、何処にある?」
ティルは自分の左の二の腕を指差した。そこにはいつも白い布が巻かれている。イグナーダになってから出現したこの紋章を、何となくだが晒しておきたくなくて、いつもそうやって隠しているのだ。
「見せるのじゃ!」
叫んでティルに詰め寄る。詰め寄られた当のティルはもちろん、事の成り行きを見守っていたエルゥやリリィも目を丸くしてその光景を見ていた。
少女の勢いに押されるように布を取ったティルの腕を、フィリエラは食い入るように見つめた。そこには相変わらず、不可解な紋章が刻まれている。
「……お主……」
たっぷりと見つめた後。
フィリエラは搾り出すような声で一言。
「中途半端に、封印を解かれたな?」
何だか。
面倒な事に、なったなぁ。
そうぽつりと呟いて、後ろからこつんとエルゥに小突かれる。
「面倒な事っちゅうんは、最初っから分かっとった事やんか」
「いやぁ、それは、そうなんだけどね」
苦笑を浮かべる。
フィリエラが言った言葉。
彼女が言うには、ティルはどうも完全に封印を解かれたわけではないらしい。それどころか、中途半端に封印を解かれた何とも危うい位置に立たされている、と言うのだ。
……何とも、複雑な事で。
他人事の様に、思ってしまった。
そう言える原因はまず一つ。
フィリエラが持たせた封印具――ロザリオ――が無くなっている、という事。しかしこれは、半分ほど予期出来ていたらしい。その証拠に、確認の為、リリィに同じ物を持たせていた。
そう。
昔ティルが持っていた、黒いロザリオ。
あれこそが、フィリエラが彼の力を封じる為に用いた封印具に他ならないというのである。封印を解くには、フィリエラ自身が解除するか封印具を壊すしかないが、滅多な事ではまず壊す事は不可能だと言う。
だけど。
あの時――。
脳裏に蘇る、フリジットでの記憶。
揺れた、ロザリオ。
金属が触れ合う、甲高い音。
白く染まった、視界。
そう。
――あの時。
その、滅多な事が起こったのだろう。だから、自分は今こんな状態でこんな場所にいる羽目になっている。
そしてその滅多な事が、フィリエラの頭を悩ませるもう一つの事態を引き起こした。
ティルの腕にある紋章が、違っているのだと、言う。
この状態で闇の力を行使したなら、また暴発するだろう。そうすると、あのフリジットでの暴発は、起きるべくして起こった暴発、とも言える。
今のままでは、闇の力を引き出せても、目標に向かって解き放つ事が出来ない、とフィリエラは苦々しく言った。つまり、その場で発動させるしか無い、と彼女は続ける。
紋章が違うから。
呼び出した、闇の力を制御出来ない。
ティルが何とか理解出来たのは、そんな話だ。それ以外の事は、はっきり言ってよく分からない。
紋章と宝珠の関係についても少女は説明していたが、全く寝耳に水である。元からそういったものに疎いので、細かい事はさっぱり理解不能だった。とりあえず飲み込めたのは、古代魔法である光と闇の魔法は、今一般的に使われている魔法よりもずっと複雑で、宝珠だけでなく紋章も揃わなければ使えないという事ぐらいだ。
……何だか、なぁ。
結局、宝珠を探す羽目になった。最初、ここに連れて来られた時は、いざという時の為に闇の力が必要だという話だったのに、今となっては、闇を暴走させない為に光の宝珠を探さなければならなくなった。
一難去ってまた一難。
思いっきり巻き込まれたような気がするなぁ、とぽつりティルは呟いた。
何に巻き込まれたのかは、結局よく分からないのだけれど。
リーフはフリジットの中を避けて、街道沿いを歩いていた。イスライアからウィンデルまでは乗合馬車で、そこから港町キールまでは歩きである。理由は単純で、旅費の節約だ。
彼は歩くのが決して速い方ではない。のんびりマイペースで歩く為だ。そりゃ急ぐ時は急ぐけど、特に何も無い時ぐらいはゆっくりしていようよ、というのが彼の持論なわけで。
それに、あの両親の事だ。どれだけゆっくり歩いたところでどうせ自分の方が速くキールに着くに決まっている。両親の天才的なまでの方向音痴を嫌と言うほど知っているリーフには、それが分かり切っていた。
というより。
自分がキールに着いてから両親に会えるまで、一体どれだけの時間が掛かるのか。
それを考えてみると、いくらのんびり屋のリーフでも少々げっそりする。ファーランドに渡るつもりなのだから、フィリルアー最大の港町であるキールには確実に立ち寄るだろう。それは予測出来ても、あの両親がどれだけ間違った方向に驀進してくれるか等は予想出来るはずもない。
だけど、それを言ったら。
家に帰って来るのなんてそれこそいつになるのか見当もつかないんだよね……。
独りごち、ゆっくり行こう、ゆっくり、と意思を固めるリーフだった。
もうそろそろ暗くなるなとリーフが思い始めた頃。
遠くに村が見えて来た。あまりにも丁度良いタイミングに感謝しながら、彼は足を速める。出来れば野宿はしたくない、というのが彼の心情だった。
リーフがその村に到着した時には、すっかり日が暮れていた。早速宿を取って、ベッドの上に寝転がり、何気なく窓を見た。
「……あ」
窓枠にぶら下がる黒いものを見つけ、彼はベッドに腰掛けるとそれを観察する。するとそれはばさりと羽を広げ、徐に飛び去った。
「蝙蝠かー……」
別に怖いわけじゃないが、何となく気味が悪かった。
「この村って、蝙蝠が沢山いたりするのかな」
気になって、晩飯時に宿の主人に聞いてみた。主人はリーフが注文したスープやサラダを手際良く並べていきながら「そんな事は無いなぁ」と答える。
「この村で蝙蝠なんて、ほとんど見られませんよ。見間違いじゃないですかねぇ」
「でも、窓枠にとまってましたよ。ホラ、引っくり返って」
「で、お客さんが見てたらばさばさと。うーん、確かにそいつぁ蝙蝠だなぁ」
「ですよねぇ」
二人で顔を見合わせ、少しの沈黙が訪れた。
「……まぁ、ソイツが蝙蝠だったかどうかは別として、だ。気になるなら、別の部屋へ移ってもらっても構いませんよ? 今日はもう、客も来ないだろうし、部屋ならまだ幾つか空いてますからねぇ」
ま、他の部屋にも蝙蝠が出たってんなら、お客さんが余程蝙蝠に好かれてるって事になりますがね、と主人は豪快に笑う。
「じゃあ……隣へ移らせてもらいますね」
リーフは言い。
「ところで、ここで美味しいお酒って何がありますか?」
と、満面の笑みで聞いたのだった。
その夜。
旅慣れないから疲れも溜まっていたのだろう。部屋へ戻るとベッドに倒れ込み、眠り込んでしまった。
一体、どれぐらい経ったのか。
何か、音が聞こえたような気がして目を覚ます。
聞き慣れたようなそうじゃないような、腹の底に響く重い音。
……今のは。
銃、声……?
音の響き方からいって、外じゃない。
何処か、この宿の中からだ。
――真逆。
隣の、部屋から?
着たままだった白衣の内ポケットに手を当て、中に入っている物を確かめる。
うん、自分の銃は、ちゃんとある。
銃なんて物騒な物、そうそう持っている人間がいるとは思えない。寝ている間に盗まれたんじゃないかと心配したのだった。
その時。
ぱたん、と静かにドアが閉められる音が聞こえた。どうやらやはり、隣の部屋で何かあったらしい。隣から誰かが出て来て、階段の方へと歩いていく足音が聞こえる。
リーフはそろりとドアを開けると、首だけ出して廊下の様子を確認する。隣から出て行ったらしい人物の姿も、一瞬だけ捉える事が出来た。
犬の耳と尻尾を持った、人物。
隣の部屋から出て行ったのは、イグナーダだ。
廊下に誰もいない事を確認すると、リーフは静かに隣の部屋――最初に自分が通された部屋だ――へ入ってみる。一応、手には小さな銃を構えて。
部屋の中には、誰もいなかった。あれから誰も来なかったのか、それとも先程出て行った人物が泊まっていたのかは分からない。だが、食事を終えてリーフが隣の部屋へ戻った時には誰も借りていなかった記憶がある。
部屋の中央付近まで歩いてみて。
窓の下辺りに、何やら水滴がこぼれている事に気が付く。
ツンと鼻をつく、生臭い匂い。
――これは。
血、だ。
やっぱり、さっき何かあったんだ。
こんな場所で、一体何があったんだろう。
部屋をぐるりと見渡す。血痕が落ちているのは、丁度蝙蝠が止まっていた場所の下だという事に気が付き、嫌な予感が駆け抜ける。部屋を変えたのはどうやら正解だったらしい。
……明日。
明日になったら、すぐ発とう。
そう固く心に誓って、リーフはもう一度寝直す事にしたのだった。