終末の聖母・1
次の日。
ティルとエルゥにリリィを加えた三人は、ウィンデルの東に広がる大森林、フリジットの中を歩いていた。エルゥとリリィはすっかり意気投合したようで、何やら楽しそうに喋っているのが聞こえる。そんな二人から少し離れた後ろを歩きながら、ティルはどうにも釈然としない気持ちでリリィの背中を見つめていた。昨日の夜、彼女が乱入して来てからというもの、彼はずっと落ち着かない。
……多分。
彼女が見せてくれたロザリオの所為だろうとティルは考えている。薄い水色の蛇が巻きついた、銀色のロザリオ。
というより、そう思いたい、というのが彼の本音である。彼女が昨日言った事について考えているといつまで経っても答えは出ないわ疑問が増えていくわで、とてもじゃないが落ち着かないなんて言葉じゃ表せない。
あれから早々に食事を切り上げ、彼らが借りている部屋へ戻ってリリィの話を聞いた。彼女が言った言葉を頭から信じようとは思えなかったが、それでも聞き流す事は出来なかった。どちらにせよ、何の手掛かりも無い現状だ。嘘か本当かは、話を聞いてから判断しても遅くは無い。
部屋に落ち着くとリリィはティルにそのロザリオを手渡した。見覚えがあるかと。
反応したのはエルゥだった。ほとんど思い出したとは言え、未だ記憶に霞が掛かっているような状態のティルより、ずっと彼と一緒にいたエルゥの方がはっきりと覚えていたのだ。
「それ、ティルが持っとったやつの色違いやろ?」
そういやどうしたん? あれ、と問い掛ける親友に、ティルは曖昧に首を傾げる事しか出来なかった。多分、あのロザリオを無くしたのはあの時――イリーズに見せてもらった夢の続き――であるのだろうから。
「無くしちゃったんでしょう?」
簡単に言う目の前のラムリエを見て、ティルは小さく肩を竦めた。
この女。
一体、何故知ってる?
腕輪、本名に続き、ロザリオも、か。こりゃあ、どうやら本格的に調べてくれてるようだと一寸苦笑した。それを見て、エルゥが不思議そうに首を捻る。
そんなティルの思考などお見通しなのか、リリィはふっと息を吐くと、そんな顔しないでよ、と言った。彼女も少し、苦笑を浮かべている。
「実を言うとね。あたし、貴方の事をある方から聞いて捜しに来たのよ。その方から、貴方を連れて来て欲しいって言われてるの」
「……ある、方?」
ティルの脳裏にケインの顔が浮かぶ。
唐突に彼の前から姿を消すまで、結局何も聞く事が出来なかった男の顔が。
「だからね。貴方の呪いについて知っているのも、正確にはその方なの。あたしは少し聞かされただけで、そのロザリオだって役に立つからと持たされた物。それに一体何の意味があるのかは、知らないわ」
「……それで。一体何を聞かされた?」
自分でも驚くほど硬い声。
リリィは少し首を傾げ、一瞬考えるような動作を見せると、そう、貴方の本当の姿かしらね、と言った。
「貴方は――本当にイグナーダなんだって、そう聞いたわ」
……全く。
一体、何だってんだ……?
俺が本当に犬なんだとしたら、俺の持ってる、やっと思い出した記憶は一体何なんだよッ!
思わず、そう怒鳴った。怒鳴ったところでどうにもならないと冷静な彼の一部分が冷めた口調で呼びかけていたけれど、吐き出してしまったものはどうしようもない。
彼女の言った言葉は、記憶を失ってからのティルがやってきた事を根底から否定してしまうようなものだったのだ。そんな言葉を聞かされて落ち着いていられるほど、ティルの冷静な部分は多くは無い。
「……そんな事言われたって分からないわよ。とにかくあたしは、貴方を捜して連れて来いって言われただけなんだから」
本当に困っているという口調だった。何を言えば良いのか分からなくなり、下を向いて黙ってしまったティルに代わって、しばらく黙って見守っていたエルゥが言葉を挟む。
「せやけど姉ちゃん……。ティルは、わいと会うた時にはもう人間やったでぇ? わいと会うたのは……十、二、三年前、ぐらいやろ?」
最後の問いは、ティルに向けられたものだ。多分な、と彼は俯いたままぽつりと答える。
「ちゅう事は、や。ティルはそん時まだほんっのガキや。その前の事はわいには分からねんけど、ティルがホンマにイグナーダなんやとしたら、一体どないなってんねん? そもそも、ほんなら何でティルは人間の姿やったんよ?」
これは、ティルの記憶違いや考え違いなんかやない、わいという立派な証人がしっかりおるねんからな、とエルゥは強調する。
「あんさんの言っとる事がホンマなんやったら、一体、ティルはいつ人間になったんや?」
その言葉を最後に、部屋には重苦しい沈黙が訪れた。リリィは何やら困った表情を浮かべて壁を見つめているし、ティルはティルで何やら床を親の敵でもあるかのような形相で睨み付けている。そして、エルゥはそんな二人の間で一体どうしたら良いものかと考え中だった。舌はよく回るエルゥと言えど、喋る言葉が見つからなければ回るものも回せない。
しばらく押し潰されそうな重たい空気が漂った後、ティルがようやっと口を開いた。
「……じゃあ、質問を変える。俺を捜してるやつってのは一体何処の誰だよ?」
これ以上同じ質問を彼女にぶつけても無駄だと判断したのだろう。ティルの顔にはある種諦めにも似た表情が浮かんでいた。
「会って、くれるの?」
「何か、ごちゃごちゃした話らしいからな。はっきりした事を聞かないと気になって夜も眠れねぇっつーの」
何だか、拗ねている様な口調だ。尻尾がぱたんぱたんと揺れている。
リリィは一瞬言いよどみ、ふっと身体から力を抜いた。
「……フィリエラ・ランティスっていうお方よ」
「名前だけ聞くと可愛ええ女の子みたいやな。知っとるんか? ティル?」
エルゥの問いにぶんぶんと首を横に振る。全く聞き覚えの無い名前だ。エルゥが言うように名前からすると女だろう。こういった勘に関して彼の幼馴染は外した事が無い。
「言い換えれば――終末の聖母と呼ばれているお方。……聞いた事ぐらい、あるでしょう?」
「……は?」
もちろん、知っている。
この世界で、その名前を聞いた事が無いのは生まれて間もない赤ん坊ぐらいのものだろう。
特定の宗教を持たず、それぞれが信仰する精霊を崇めるこの世界にあって、皆が知っている、時には絶対神と代弁される事すらあるその呼び名。
終末の聖母。
世界に破滅が訪れる時、封印されし世界の守護竜ロウリィを呼び起こし、世界を安らかな死に誘うと言われる伝説上の人物。絶大な魔力を持ち、その凄まじい魔法の力は混沌を呼び起こす事も、豊穣を授ける事も出来ると言う。
伝説としては、信じられる。
……そう。
ただの、伝説としてならば。
しかし、こうさらりと言われてしまっては、開いた口が塞がらない。むしろ、リリィの頭の方を疑いたくなってしまうし、彼女に関わった事をすでに後悔し始めているティルだった。
……何を言うかと思えば。
終末の、聖母だと?
……結局。
その後、話は有耶無耶になったままだった。
「イスライア? 何だってそんな所へ?」
「さあネェ? ケインの考えている事を予想するなんて、するだけ無駄サね」
そりゃ、ご尤も。
胸の中で呟き、フェリルはため息を吐いた。ここ数日、ケインという男に付き合っただけだが、それでもそれぐらいの事は納得出来る。あの男は一体何を考えて行動しているのかまるで分からない。
……というか。
むしろ、こいつらが、か。
目の前でばたばたと旅の準備をしているこの店の女主人、エリザ・レイオルだってケインに負けず劣らず何を考えているのか分からないとまた、胸中でぼやく。こいつらに会ってからというもの、ぼやいてばかりのような気がするのだが、悲しいかなきっとそれは気の所為では無いだろう。
もう一度盛大にため息を吐き、反対にして跨いで腰掛けている椅子の背もたれに置いた手の上に顎を預ける。何だってこんな奴らと関わってしまったんだろうと己の不幸をぶちぶちと考えながら。
「……それで。あんたも行くのか? もしかして」
彼女の行動を見る限り、それ以外の答えが返って来ないのは明白だが、何となく確かめてしまうフェリルだった。観光に行くわけじゃないのだ。どう好意的に考えてみたってこの女の存在は邪魔以外の何物にもならない。
と、思う。
断言すると何となく後で凹む様な事柄が待っている様な気がして、フェリルはまたため息を吐いた。そんな自分が何だか情けない。
「あらア? あんまりため息ばかり吐いてると、幸せが逃げるわよォ?」
耳聡く聞きつけ、エリザが言う。
「それにねェ。一つ、言おうと思ってたの。フェリルちゃん、まだ若いンだからサ。もう一寸笑った方が良いと思うわよォ? 若いうちから怖い顔ばっかりしてると、その顔のまんまで固まっちゃうンだから。それに、笑ってた方が、幸せが寄って来るんだからサ」
……ちゃん、と抑揚の無い声でフェリルは呟く。もう、それを抗議する気すら起きない。エリザはそんなフェリルに追い討ちをかける様な台詞をさらりと続ける。
「フェリルちゃん、折角美人さんなんだからサ」
何故か、妙に艶のある言い方だった。
「……幸せが逃げてなきゃ、こんな事はしてねぇんだけど」
ぼそりと主張する。微妙に声が硬かった。
「あらま。それもそうねぇ。でも、フェリルちゃん若いんだし。これから幸せになれば良いんじゃない」
そう言ってにっこりと笑う。荷物の整理が終わったのか、彼女はドアの方へと向かった。
「ケインの様子を見てくるわ。あの人ったら、あたしが居ないと何もしないからねェ」
パタン、と音を残してドアが閉まる。
――変わった女だ。
幸せに逃げられたのなら、これから幸せになれば良い、だと?
……能天気に言ってくれる。
――だけど。
嫌いになれそうで、なれないだろうな。
何故かそんな気がして、フェリルはもう一度深いため息を吐いた。
木々の間から零れる陽の光がかなり傾いて来ている。それはつまり、道を外れてかなり経っているという事だ。
もしかして、また道に迷ったんじゃなかろうか。
そんな疑問がティルの頭を過ぎり始めた頃である。
リリィが唐突に一本の木の前で足を止めた。何の変哲も無いその木に向かって何やら呪文のような言葉を早口で唱え、右手を翳す。
すると。
木の表面がみるみる歪み、小さな穴が開いた。それはすぐに、人一人通れるほどの大きさになる。
「さ、行きましょ」
あっさりと言って、さっさと中に入る。
「……何や。わいら、木に食われるんかいな」
苦笑いを浮かべて言ったエルゥに、
「うん。どうやらそうみたい」
と、こちらも苦笑いを浮かべてしばし見つめあう。
「真逆、あの世に繋がってるんやないやろな、こん中。……もうあんな風においでおいではされとう無いで」
「やっぱり。あの世ってあったの?」
「企業秘密や。いつかわいの伝記を出そうと思っとるさかい、それを買うて読んでや」
口調だけ聞いていると、面白がっているのか怖がっているのか分からない。
「……何やってるの?」
先に入ったリリィが、穴から首だけを出して声を掛ける。二人が中々入って来ないので催促に来たのだろう。何やら不思議そうな顔をして二人を交互に見回した。
「早く行くわよ。……別に、貴方が見て来たって言うあの世とやらには繋がってやしないから大丈夫よ」
くすっと笑うと再び穴の中へ消えた。それを聞いて、ティルはじとーっとエルゥに視線を送る。どうやら、企業秘密とやらをリリィにはべらべらとお喋りしていたようだ。
「……伝記、書くんだろ? また変わった体験が出来るな」
「ホンマや」
もう一度顔を見合わせて苦笑すると、彼らも穴の中へと身を躍らせた。
硬い床を歩いている感触がする。
が、足音はしない。
真っ暗なようで仄かに明るい、不思議な空間。下を歩いているのか、はたまた上を歩いているのか、それすら分からなくなる。流石のエルゥも口を閉ざし、ゆらゆらと歩いていた。
軽い眩暈にも似た感覚に襲われながら、数年前、イリーズに記憶を覗かせてもらった時の雰囲気に似ているとティルは思う。あの時と違うのは、ここにははっきりと感触がある、という事。
どれぐらい歩いただろう。
うっすらと建物が見えて来た。仄暗い空間に浮かんで見えるほど明るい、真っ白な建物。遠くから見ると、玩具のお城が転がっているようにも見えるが、こんなものではもう驚く気にすらなれない。城だろうが納屋だろうが、こんな場所に建物がある事自体が異常なのだから。
建物の中に入り、やっときちんと床を踏みしめている感覚を確かめながら、リリィの後について黙々と歩く。幾つかの部屋を通り過ぎ、一際豪奢な造りのドアの前で立ち止まると、彼女は一寸待ってて、と言い残してそのドアの中へと入って行った。
リリィがいなくなった事で緊張が解けたのだろう。エルゥがふぅっとため息を漏らすと、長い首を伸ばしてキョロキョロと物珍しそうに辺りを見回した。
「……えっらいとこに来てしもうたなー」
「ネタには丁度良いんじゃないの? あの世に変わるうってつけの見せ場じゃない」
「そうやな。目指せ夢の印税生活! って何の話や」
さっき言ってた話だろ、と返して口を閉じる。リリィが戻って来たからだ。
「お会いになるって。さ、入って」
「いよいよやな~、ティル」
ホンマ、わいの伝記の目玉ページの一つやな、伝説の人物とのご対面なんて、と隣ではしゃぐエルゥをまたじとーっと見つめると、ご指名入ってない奴は気楽で良いよねぇ、と胸中でぼやいた。俺にとっちゃあ、自分の正体に関わる一大事なんだけど、と釘を刺すように呟く。
「そなたが、ティル・マクガールか?」
部屋に入ってすぐ、ティルに問い掛けた声。
そうだ、と返事をしようとしながら、彼の視線は無意識のうちに声の主を捜していた。案外、普通の部屋の中を視線が漂い、その声の主へと辿り着く。
「……へ?」
つい、間抜けな声が出た。
辿り着いた視線の先には、意味も無く豪華なベッドに腰掛けた、小さな女の子が一人。
他を見回してみても、この部屋の中には少女と彼ら三人しか存在していない。助けを求めるようにリリィに視線を送ってみても、彼女は小さく頷くだけだ。
――と、言う、事は……?
「それは返事か? 情けないのぅ」
「……あ、あの?」
その少女は思いっきりため息を吐くと、何か呟いたようだった。ティルの耳には、先が思いやられるのじゃ、と聞こえたような気がしたのだが、何となく確かめない事にする。
少女はベッドからぴょんと飛び降りるようにして床に降りると、心底困った表情を浮かべているティルに向かって指を突きつけるとはっきりと断言した。
「そうじゃ。わらわがフィリエラ・ランティスじゃ。確りとその頭に叩き込んでおくが良い」
……真逆。
目の前で自分の鼻先に人差し指を突きつけ、何故か自信たっぷりの表情で笑みを浮かべている少女を見て、思わず頭を抱え込みたくなったティルだった。