ティル
それは、永い夢だったのかもしれないと心の底では分かっていたのかもしれない。今の自分が本当の自分で、昔の自分が造られた自分だったのだと、言う事を。
だがもう、彼にとって一体何が本当で何が嘘なのかなど、如何でも良い事に等しくなっていた。ただ、自分が本当だと信じた事が自分にとっての真実になるのだと、そう、思うようになっていた。だから、彼にとっての真実は今までと何も変わりは無いし、彼自身も何ら変わる事は無い。
その――永い永い夢さえ、覚める事が無かったら。
何処までも続く、長い廊下がある。
その壁は真っ白で、一定感覚に扉が並んでいる。扉だけは、その存在を如何にも主張しているような、色とりどりの色をして彼を誘っていた。
彼は、それに誘われるまま、最初から順番に扉を開けて中を覗いていくのだが、結局中に何が入っていたのか分からないまま出て来る事になる。
ずっと、ずぅっと、そんな事の繰り返し。
それが分かっているのに、扉を開けずにはいられない。彼は扉を開け続け、とうとう最後の扉まで到達する事になる。今までと違い、ひっそりと、壁と同じ白い色をした扉に手を掛け、躊躇いもせずに彼は扉を開けようとした。
――が。
扉は、びくとも動かない。
今まではこんな事は一度も無かったのに、と彼は少し不思議に思う。今までの扉は、中身こそ覚えてはいないが、手を掛ければそれだけでするりと扉が開いたのだから。
俄然、興味が沸いてくる。
もしかしたらこの中にこそ、自分が求めているものが入っているのかもしれないと、扉をどうにかして抉じ開けようとする。
周りには、道具になりそうなものは何も無い。探ってみると、自分自身も道具になりそうなものは何一つ身に着けていなかった。
それでも彼は好奇心を抑えきれず、扉を引っ張り、扉に当たり、爪が剥がれるほど隙間に指を引っ掛けてみたりしながら、何とかその扉を抉じ開けた。
苦労の末、開けた扉の奥には。
小さな箱がぽつんと置いてあるだけだった。
鍵の掛かった、粗末な粗末な、掌に乗ってしまいそうな、小さな箱。
今度は、その箱の中身が知りたいと、彼はそう考える。ここまで来たんだ、箱を壊してでも、その中身が知りたいと、そう願う。
だが。
箱は、何をしても絶対に開く事は無い。
今度こそ、鍵が無ければ絶対に開かない。
……次第に彼は、その箱を開けようとする行為を諦め、その存在すら忘れるようになっていった。箱の中身など知らずとも、今までの扉の中身だけで満足するようになっていったのだ。
そんな時。
彼は偶然にも、箱の鍵を手に入れる。
箱の存在を思い出し、彼は恐る恐る鍵を鍵穴に差し込んだ。合わなければ良いとそういう淡い期待もあったかもしれない。得体の知れないものを見たいという気持ちとそれに対する恐怖とは、常に背中合わせなのだから。
――鍵は。
かちり、という小さな音と共に、ぴったりと鍵穴に収まった。
……だが。
彼は、忘れていた。
決して開けてはならぬと言われた箱を開けた事で、この世には様々な災厄が降り注ぐようになったのだと、言う事を。
この箱は。
彼にとっての、パンドラ・ボックスだったのか?
――それとも――。
夜が来る夜が来る夜が来る。
長い長い長い夜が来る。
もしかしたら、もう二度と目覚める事は無いのかもしれないけれど、朝を信じて言いましょう。
――お休みなさい――
「貴方の呪いの解き方を知っていると言ったら、どうする?」
確かに、目の前の女はそう言った様に、ティルの耳には聞こえたのだった。
魔法王国と言われるレクタルの首都、ウィンデル。
その街にある、中の上くらいの宿(所謂冒険者宿と呼ばれる類の宿だ)の一階に、目立つ二人組がいた。イグナーダとチェックスという、その組み合わせだけでも十分に目を引く二人組である。それに加え、チェックスの方はこれでもかというぐらい色鮮やかな黄緑色の羽毛を持ち合わせていたし、イグナーダの方も、この種族にしては変わった色合いをしていた。
褐色の肌に後ろで一つに纏めた銀髪。それに加えて少し丸めがちの紫色の瞳。派手なチェックスというのはいないでもないが、イグナーダという種族は黒い髪に黒い瞳というのが普通、といった種族なので、こちらは本当に珍しいと言える。それでいて、彼がイグナーダである事を示す、犬の耳と尻尾はこの種族に最も多いとされる茶色である事が更に、彼の珍しさを醸し出しているように見える。
その二人、イグナーダの方をティル・マクガール、チェックスの方をカンナ・エルヴィングと言う。
二人の主張を聞いたなら、更に変わっている、としか言えなくなるだろう。
ティルは曰く「元人間」であるし、エルゥは「あの世の花畑を拝んで来た事あるで~」で、ある。あまりにもあまりで荒唐無稽な主張であるからして、両方ともあまり真面目に扱われた事は無い。エルゥの方は「と言うても、あの世の手前や。仮死状態ゆうヤツだったらしいで~」と半分笑い話として楽しんでいる節があるから良いものの、ティルの主張を否定しようものなら、炎の雨か矢の雨が容赦なく降り注ぐ事になる。彼は、よりにもよって犬が大嫌いなのだ。
いくら呪いだとはいえ、わざわざ嫌いな動物の姿に近い種族に変えなくたって、と彼は未だに今の自分の姿が好きになれずにいるのだ。呪いを掛けられてからもう五年以上経つというのに、である。
そんな幼馴染に向かってエルゥは「わい、犬好きやから別にそのままでも構へんで」といつも言っているのだが、それはすでにティルを「犬」扱いしているのと同義語だという事にエルゥは気付いていないらしい。
そんなわけでこの二人、ティルの呪いを解く方法を探していたりするのであった。
しかし、自分に掛けられた呪い自体がはっきり分からない。それでは困るという事で、まずは情報集めと魔術師ギルドのあるウィンデルへとやって来たのだった。結局何も得るものは無く、空振りに終わったわけだが、他に頼る場所も無く、結局ここ、ウィンデルに居座っている。今日もまた、ギルドへ顔を出して来たのだが、結果はいつもと同じだった。期待はそれほどしていなかったにせよ、矢張り少なからず落ち込むのは隠せないようで、定期的にため息を吐きつつ晩御飯を食べているというわけである。いつも本人が意識していなくても左右に揺れている尻尾までもが、元気なくぶらんと垂れ下がっている。
「……なぁ、ティル。そりゃー気持ち分からんでも無いんやがな」
いつもより、大人しめの声。とは言っても、彼特有のダミ声には違わないので耳障りの良くない事この上ない。更には、チェックス特有の訛りがあるから尚更だ。
「明日があんねん、明日が。今日で世界が終わるわけや無いさかい、何落ちこんどんねん。大体、犬で何処が悪いんや?」
いつも通りの慰め方だ。そんなエルゥの言葉を聞いているのかいないのか、ティルは頬杖を付きながら右手に持ったフォークで目の前の皿に乗っかっているウィンナ・ソーセージをつまらなさそうに突っ突いていた。
「ええか? まだイグナーダで良かったと思わなあかん。もしもこう、げっちょんげっちょんででろんでろんのモンスターなんかにされとったらどうすんねん。そんなんなっとったら……」
『ナンパ出来へんやんか』
最後の台詞だけぼそりとハモると、ティルはまた小さくため息を吐いた。先ほど突いていたウィンナ・ソーセージはいつの間に食べたのか、皿の上から綺麗さっぱり消えて無くなっている。
「そやそや、その通りや! ホンマは分かっとるやんか、ティルも。意識が人のまんまで出来た彼女がモンスターでしたーなんて、シャレにもならんで、ホンマ」
けたたましい笑い声を上げてエルゥが言う。これはこれで彼なりの慰め方ではあるのだ。……多分。
「……いーねー、エルゥは気楽でさ」
ため息混じりに言ったティルの言葉に、エルゥは心外だと嘴を突き出して見せ。
「そんな事無いで。この世はな、わいのカッコ良さが分からんヤツが多すぎる! そう、多すぎるんや。ヘタすると、わいの美しい宝石のような尾羽を引っこ抜いていくクソガキ共までおるんやで!? お陰で、折角の尾羽がずっと痛みっ放しやわ」
ぼやきつつ、自分の羽を撫でてみせる。その程度の悩みしか無いというのがそもそも気楽だよ、と思いつつ、ティルはぼそりと言う。
「……俺も、引っこ抜いた事、あるよ」
「覚えとるでー。初めて綺麗な羽生えたねゆうて、ぶちぃっと引っこ抜いてしもたんや。……記念に取っとく言うて」
そん時はまだティルもわいよりもちょこーっと背ぇ高かっただけやのになぁ、とエルゥは気持ち良さそうに昔の事を語り出した。喋りながらずっと酒を飲んでいたのだが、どうも酔っ払って来たらしい。酔うといつもの饒舌に輪が掛かって喋り捲るのがエルゥの特徴だ。特に、昔の事を話し出す事が多く、周りに酷い迷惑を掛けたりする事は無いが、つき合わされている身としては、早く酔い潰れて眠ってくれないかと願うばかりである。
しかしいい加減、ティルも慣れたもので、親友の話に適当に相槌を打ちつつシチューなんかを啜っている。聞いている振りをして放っておけば、喋り疲れて眠ってしまうのがいつものパターンなのだ。
「……だからなーティル。なーんも落ち込む事などあらへん! 犬になったぐらいがなんや! それでもわいなんかよりずぅぅぅぅっと人間に近うて理解される見た目やないか。大丈夫や。そんな耳付いとる事ぐらい、可愛ええもんや。そんくらい、ご愛嬌やで。そんなん気にする女なんか、こっちから願い下げや!」
ドンッと握り拳をテーブルに叩き付けて熱弁する親友に横目を向けつつ、小さく呟く。
「……ほんっと気楽だねー、お前」
女の事ばっかり考えてればご機嫌なんだから、と心の中で付け加える。そんなティルの気を知ってか知らずか、エルゥのお喋りはまだ続く。
「そやなー。難点ゆうたら、アレや。ラムリエの姉ちゃんと仲良う出来ひん事や。これは痛い。痛いでぇ~。ラムリエの姉ちゃんには可愛ええ娘が仰山おるからなー」
「あら、そう?」
「そやそや。わい好みのなんちゅうかこー、むっちんむっちんでぱっつんぱっつんの……何やティル。お前、喋り方変えたんか?」
「じゃあここ、お邪魔してもよろしいかしら?」
そう言ったのは、これまた目立つ色合いのラムリエだった。赤紫の長い髪をしている。身体のラインがはっきりと分かる服も赤を基調としているのだが、髪の中から突き出た耳と、思わずじゃれ付きたくなりそうな猫の尻尾が見事に真っ白なので、これがまた赤、という色を際立たせているのだろう。
突然の乱入者に、エルゥは思わずぼーっと見惚れていたが、慌ててどーぞどーぞと隣の席を勧めた。
「ありがとう。別に、喧嘩を売りに来たわけじゃないわよ」
後の台詞は、ティルに向けられたものだ。ティルはすでに椅子を後ろに引き、いつでも立ち上がれるよう体勢を整えていた。
イグナーダとラムリエは、会うとすぐ喧嘩を始めると言われている。姿が犬と猫だからだとか、そんな勝手な事を色々と言われてはいるが、実際はそんな事は無い。あったとしても、その都市伝説紛いの言い伝えを利用した、一寸した挨拶や力比べのようなものなのだが、これが以外と他種族には知られていない事が多い。場所によってはイグナーダとラムリエを一緒に入れないような店があるほどなのだ。
ティルの言葉を借りれば、彼は元人間である。だからか、ラムリエに会うとすぐ喧嘩を吹っかけられると思い込んでいる節があり、彼は極力、ラムリエとは関わり合いにならないように行動してきた。
体勢を整えつつも、店の中でやりあうには魔法を主体とする自分には分が悪いと考え、逃げちゃおうかなーと思い出した時だった。まるで、彼の頭の中を読んでいたかのようなタイミングで、彼女が口を開いた。
「逃げなくても良いわよ。貴方が持ってる“ソレ”を使えば簡単に逃げられるでしょうけど、でもそもそも、あたしは喧嘩を売りに来たわけじゃないって最初に言ったわよ? ティル・マクガールさん」
その台詞を聞いて、今度こそティルは立ち上がった。そのままテーブルにバンッと大きな音を立てて両手を着くと、押し殺したような低い声で問う。
「……“腕輪”の事は聞かない。どうして俺がここにいると分かったのかも、聞かない。だけどな、何で俺の名前を知ってる? 何処でその名前を聞いた?」
本当は、全て聞いてしまいたかったのだが、逸る気持ちを抑えて要点だけゆっくりと口にする。
ティル・マクガール。それは確かに彼の本名である。だが彼は、イグナーダになって以来、自分の本当の名前すら思い出せない状況にいたのだ。盗賊ギルドにはティル、としか登録されていないし、エルゥと再開してからはパーティだって組んでいない。彼の本名を知るものは、極僅かに限られるのである。
彼女がぞんざいに“ソレ”と称した腕輪にしてもそうだ。イグナーダになった時、唯一身につけていた物であり、少々変わった効力を持つ事からティルは肌身離さず腕輪を身につけている。だが、その効力はエルゥにも教えていないほどで、その効力を知る人間がいるとしたら、むしろこちらから聞きたいぐらいだ。
ラムリエは少し笑い、答えた。
「あら。それだけで、いいの? あ、とりあえずラムリエって呼ばれたくないから名乗っておくわね。あたしは、リリィ。覚えたら、今度からそう呼んでくれる?」
台詞とは裏腹にリリィは楽しそうだ。
彼女はゆっくりと足を組むと面白そうに、一言。
「貴方の呪いの解き方を知ってると言ったら、どうする?」
――確かに。
確かに、目の前の女はそう言った様に、ティルの耳には聞こえたのだった。