雪月花
この小説は、セリフに広島弁を用いています。読みにくいと感じられるとは思いますが、ご容赦ください。
また、この作品は、企画小説「月」に参加すべく書かれたものです。他の先生方の作品は、「月小説」で検索することによって読むことができます。
ただし、この作品は出てきません。なぜなら、長すぎて規定を満たすことができなかったから(泣)。
どうぞ、お楽しみくださいませ。
月の光が舞い落ちる。
花のように、ひらり、ひらり。
月の光が降り注ぐ。
雪のように、しんしんと。
病院の屋上から見る町の灯は、薄汚れていた。
月の光が花ならば、すべてを飾ってくれるのに。
月の光が雪ならば、すべてを隠してくれるのに。
月は、暗く照らすだけ。
枯れることも、融けることも知らず。
綺麗なモノも、汚いモノも。
ただ、照らすだけ。
雪月花
『けーじぃ。助けてぇやぁ。ユウがぁ……』
ケータイの向こうの声は、ズルズルだった。
寝入りばなをゴッドファーザーのテーマで叩き起こされた啓治は、薄い布団の中でもぞとぞと身体を返し、ケータイを耳に当てた。そしてついでに時計を見る。
午前一時。大学生の啓治にとって、まだ宵の口といってもいい時間だが、レポートが重なって二日徹夜した後では、さすがに眠い。布団に入ってから、まだ一時間も経っていない。
「なんなあ、ジン。何時じゃ思うとんな。わしゃあ、ワレと違うて、真面目な学生なん――」
(ジンは、何を言った?ユウが?)
「ユウがどうしたんな」
聞き返しても、電波が伝えるのは、ユウがぁ、ユウがぁ、というリフレイン。
「泣いとったら分かるまあが!はっきりせえや!」
低血圧の頭に血を上らせて怒鳴る。
しゃくり上げ、洟をすする音。
『……ユウが、動かん。返事せん』
「あほう!!」
思わず布団をはね飛ばして立ち上がる。
「わしんとこへかけてどうすんな!救急呼べぇっ!!」
『だめじゃあ。そんなん呼んだら、ユウが――』
(クスリか……)
まともな病院に運び込んだら、間違いなく捕まる。ジン――仁史はそれを恐れている。……ユウはそうさせる過去を持っていた。
啓治は、自分の顔をわしづかみにした。仁史に投げ付けてやりたい言葉が次々に浮かんでくるが、堪える。それどころじゃない。
「ユウは生きとんな。息はしようるか」
「しちょる……じゃけど動かん……」
「親父んとこへ連れてけ。親父にはわしから電話しとくけえ」
『じゃけど、どうやって……?わし、今車持っとらん」
啓治の頭の中で、プチッという音がした。
「クソ馬鹿っ!タクシーでもなんでも呼べっ!!」
『……』
「なんなあ?」
『……タクシー代がない』
崩れるように、布団に座り込む。
「……それも親父に言うとく。立て替えてもろうとけ。わしもすぐ行くけえ」
ライトブラウンに染めたばかりの髪をかきむしると、啓治は再び立ち上がった。
いつもなら二時間半かかる道程を、一時間足らずで駆け抜けてくれた中古の白いベンツには目もくれず、啓治は通用口から病院内へ飛びこむ。
入ってすぐに検査室、それからトイレと三つある診察室のドアが続く。
ここ、松田病院は、個人経営としてはそこそこの大きさではあるが、近くに公立の総合病院もあるため、救急指定を受けていない。だから、救急車を使ったら、頼んでもここへは搬送してもらえない。
院長は松田文啓。啓治の父親だ。
(珍しいな。誰もおらん。ジンはどこだ?)
常夜灯に浮かび上がる待合室で、辺りを見回す。
ここは、ある筋では結構有名な病院でもある。刃物傷や銃創を負った患者が来ても、警察沙汰にしない。不法滞在している女達も診てくれる。
それは、患者を区別しないという、文啓の職業上の信念もあったろうし、幼馴染みで今でも互いに親友と呼ぶ男が、この町に本拠を置く広域暴力団の幹部だという理由もあっただろう。
だから、毎晩一人二人は、待合室に誰かいることが多いのだ。
本当に、いつ眠っているのだろうと、自分の父親のことを、啓治はいつも不思議に思っていた。
(二階か?)
二階には、手術室やICU、重篤患者のための病室などがある。そこに向おうとした時、逆に階段を下りてくる足音が、リノリウムの古びた廊下にパタパタと反響した。
「けーじぃー」
仁史だった。今にも泣きそうな顔で笑いかけるという、複雑なことをしている。
丸刈りの金髪に、白のスウェットの上下、サンダル履き。首には金の太いチェーン。スウェットにも金のプリント。手首には、パワーストーンの数珠。
上背は、啓治よりも頭一つは上回る。仁史が高いだけでなく、啓治が小柄なせいもあるが。
トルエンのやり過ぎで融けた歯をのぞかせた口元は、上の前歯が二本欠けている。
どこから見ても完璧なヤンキーの仁史の顔を――
「こん、クソ馬鹿がぁー!!」
啓治は思いっきり、ぶん殴った。
「痛ぁー。なにすんなぁ、けーじぃー」
ぐらついたものの、セリフほどは痛そうにしていない仁史の様子に、啓治の血管がもう二三本キレる。
「なにすんなじゃあるかあ!ワレがついとってどういうことなっ!!」
啓治はもう一度拳を振り上げた。
「啓ちゃん。大声出したらいけん。場所を考えんさい」
しかし不意に降ってきた、自分をたしなめる女の声に、啓治は手を下ろして、階段を見上げた。
「あ、ああ。加瀬さん……」
「医者になろういうもんが、病院で人に怪我させちゃあ、いけんよ」
「ユウは?ユウはどがあなんよ」
ナース服を着ている女の眉が、微かにしかめられた。口を開くのをためらうような表情。
加瀬は、この病院の師長だ。そして、院長の愛人でもある。事実上の妻の座にあると言ってもいい。
とはいえ、院長の本妻、つまり啓治の母親は、啓治を産んで間もなく他界していたから、彼にそれほど拘りはない。
中学に入る頃から、ほとんど母親同然に面倒を見てもらっていたし、さばさばとした、歯に衣を着せぬ物言いをする彼女を信頼もしていた。さすがに、オフクロ、と呼ぶ気にはなれないでいるが。
文啓は、加瀬という名前なんだから、かあさんと呼べばいいなどというが、そんな理由で呼ばれても、彼女は嬉しくないだろうと思う。
「ユウ、悪いんか?」
そんな彼女が口ごもるのを見て、啓治の不安がさらにつのる。仁史も、えぇーという、不安そうな声を上げる。
しかし、加瀬は首を横に振った。
「ショック状態は脱したわ。あの娘の命には別条ないと思う……」
「ほうか!」
啓治は、大きく息を吐いた。曇っていた表情が、一気に晴れ上がる。安堵のあまり、その場に座り込んでしまいそうだ。ちらりと仁史に目をやれば、本当にへたりこんでいた。その鼻から、鼻血がタラリと垂れているのを見て、思わず吹き出しそうになる。
「えかったあ。もう会うてもええか?ええよな!」
「わ、わしも」
「会うても今は寝ちょるけえ、話はできんよ。それと、ジン君、ちょっと」
勢いよく立ち上がった仁史を、加瀬が呼び止める。啓治はそれを無視して、暗い階段を二段とばしで駆け上がった。
「ユウ!」
処置室のドアを勢いよく開けて飛び込んできた啓治を、白衣を着た男の険しい視線が出迎えた。
「……と、親父ぃ」
丸首のアンダーシャツとスラックスの上に、白衣を羽織っただけの文啓は、啓治と本当によく似ていた。
小柄で――ヒールを履いた加瀬と並べば、彼の方が少し低い――ひき締まった、バランスの取れた体付き。高い鼻を中心にした、鋭角的な、しかし表情豊かな顔立ち。
異なるのは、重ねた年輪。
目尻と眉間の双方に深いしわが刻み込まれた文啓の顔は、しわのできている場所を見ればそのときの機嫌が一目で分かる。今、彼の機嫌は、眉間にあった。
「静かにせい。患者が寝とるんじゃ」
「わりぃ」
啓治は後ろ手にそっとドアを閉めると、ベッドに近付いて、覗き込む。
栗色のショートヘアに縁取られたユウ――悠理の寝顔。最後に会った時より、少し痩せただろうか。顔色は決してよくはないが、思ったより悪くもない。点滴のチューブがつながれているものの、どちらかといえば幸せそうな表情で、穏やかな寝息を立てている。
(スッピンのユウなんか、久し振りに見たな。眉毛が無いじゃん)
「女の子の寝顔をじろじろ見んな」
「お、おお、わりぃ」
啓治は慌てて、父親に目を向ける。
「で、どがあなんよ」
「クロスハーツいうて知っとるか?」
「おお、あれじゃろ、最近よう出まわっちょるクスリで――」
ハート型の錠剤に十字の刻印があるから、クロスハーツ。
「――キメてからヤったら、ぶちええいうて……いうウワサを聞いたことがあるような無いような……」
ジロリと睨まれて、口の中でもごもごとフェードアウト。
「ほいじゃけど、そがあにやばいいう話は聞かんで?」
「シャブじゃ」
「……はあ?」
「経口摂取用に色々混ざっちょるが、主要な成分はメタンフェタミン。覚せい剤じゃ」
啓治の顔が、険しくなる。
「この娘ぁ前に、シャブをやったことがあったのう」
「……ああ」
三人がまだ高校生の頃のことだ。
悠理の様子がおかしいのに気付いた啓治が、無理やりこの病院に連れてきた。早期に治療ができたせいで、それほど重大な中毒症状も出ていなかったのだが。
覚せい剤の影響は、脳細胞に刻み込まれる。些細なきっかけで、その記憶は呼び覚まされてしまう。
「じゃあ、ドラッグをやったせいで……」
中毒症状が再燃したのだろう。
「この娘には、飲んだんがシャブじゃいうて、分かったんじゃろうの。ほいで、経口じゃ満足できんで、錠剤を溶かして――」
「注射ぁしたんか……」
注射により、循環器系から覚せい剤を吸収させると、効果も早いが、心身にもっとも悪い影響を与える。
消化器や鼻腔粘膜から摂取するのがまし、というわけじゃない。ポンプを使うのはより最悪だ、ということだ。
それも、純度の高い結晶ではなく、夾雑物がかなりの割合を占める錠剤を溶かしたものをだなんて。ドラッグとして出回るメタンフェタミン製剤には、殺虫剤と同じ成分の、毒性の強い原料が混ぜられていることも多いのに。
「こん馬鹿が……」
ベッドをもう一度見下ろしながら、啓治はつぶやいた。眉間にまだ浅いしわを刻み込みながら、悠理の寝顔をじっと見つめる。
ぐつぐつと、やり場の無い怒りが、腹の底にたまる。いつもの、熱したフライパンに落とした水滴のように、一瞬で沸騰し瞬く間に消えてしまう感情とは、全く違う。
「ほいじゃけどまあ、生きちょってよかった。ここに連れてこさせて正解じゃったわ。サンキューな、親父」
熱い蒸気に似た息を吐きながら、それでも文啓に礼を言う。
「大したことはしとらん。この娘だけしか助けられんかったしの」
「……?どういうことな?」
文啓の言葉に聞き返そうとした時、ノックの音が響いた。
「先生」
からからとドアを開いて、加瀬が入ってきた。自宅で文啓を呼ぶ、センセェという甘え混じりの声とは全く違う、事務的な口調。そして、その後ろには仁史。
加瀬に応急処置をしてもらったのだろう。鼻血を出していた左の鼻孔には、白いガーゼが詰められている。そして、反対側の鼻の穴からは、鼻水。
「せんせー。ユウがぁ、ユウにぃ……」
両目を真っ赤に腫らして、ふらふらとベッドの傍らに膝をつき、文啓を見上げる。
「ユウの腹に子供がおったって、ほんまかぁ?」
「なっ!?」
仁史の言葉に愕然とした啓治は、悠理の身体を慌てて見直した。しかし、白いシーツの下の腹部は、痩せたという印象そのままに、薄い。
「八週くらいじゃった」
文啓は、仁史の目を真っ直ぐに見つめて言った。それはつまり、流産の処置を済ませてしまったということだった。
仁史の身体から、力が抜ける。啓治はその胸倉を掴みあげた。
「ジン。ワリャア、なんで気ぃ付かんかったんじゃ。八週いうたら、一番大事な時じゃなあか!ツワリがあってもおかしゅう――」
「調子は悪いようにしちょったんよ。気分が悪いいうて……」
「ほいで、クスリかあっ!!」
「啓治、静かにせえ。患者の横じゃ」
低い、しかし鞭のような文啓の声。
「……くっ。ジン、ワレ、ツラ貸せ」
「けーじぃ」
まだ泣きそうな仁史を突き放して、啓治は部屋を出た。
その後を、仕方なさそうに仁史は追う。ちらりちらりと、ベッドの上の悠理を振り返りながら。
「センセェ。ええの?」
「ほっとけ。まだガキなんじゃ」
文啓は加瀬にそう答えると、そっと悠理の脈を取った。
啓治が、仁史と悠理に出会った、最初のシーンは覚えていない。
市立の保育所が最初の場所だったことは間違いない。三人ともそこに通い、三人とも母親がいないという共通項からか、いつしかいつも一緒に遊ぶようになった。
大将は啓治。昔から頭の回転が早いとはいえなかった仁史を引っ張り回していた。
だからといって、啓治が仁史を見下していたわけじゃない。
三人でいる時は、大柄なくせに泣き虫だった仁史は、身体が小さいくせに鼻っ柱だけは強い啓治が喧嘩でやられると、相手が上級生であろうと向かっていった。
仁史の前歯が欠けているのは、中学の頃、医者の息子のくせに生意気だと、十人近い奴等に袋叩きにされているところを助けてくれた時のものだ。
それ以外にも、啓治が仁史に助けられたことは数え切れない。だから、啓治は仁史を何があろうと助ける。それは、二人の進路が別れてからも変わらない『決まり』だった。
悠理は、そんな二人の後ろを、いつも金魚のふんのように付きまとっていた。
一人でいる時は、口数の少ない、表情の乏しい女の子だったが、二人といる時は、ほうけているのかと疑うくらいに、いつも笑っていた。
少年二人にとって、その笑顔が、活力の源であったことは間違いない。
啓治と仁史だけだと、吐き捨てられたガムみたいに、マクドのテーブルにへばりついて動かないのに、彼女がいれば爆竹みたいに弾けだす。
残念ながら、そのエネルギーをスポーツなどで昇華しようなんて性根は端から持っていないから、やんちゃなまんま突っ走るのは仕方がない。それでも、取り返しのつかないようなムチャをしないのは、悠理の悲しむ顔が見たくない、その共通の想いがあるからだった。
その想いが成長するにしたがって意味を変えていくのは、当然のことだろう。
啓治がそれをはっきりと意識したのは、十五の誕生日を迎える、少し前のことだった。
「な、なあ、ユウ。高校、どうすんな?」
「んー?行くよー。ケージはー?」
中間試験で軒並み赤点をとった仁史が補習から解放されるのを、啓治と悠理はいつものマクドで待っていた。
とりとめのない話からの問い掛けに、悠理は何気なく答える。啓治がその問いを口にするのには、ちょっとした決心が必要だったことに、彼女は気付いてくれない。
「わしのぉ、宮高受けよう思うとるんじゃ」
「ふーん。ケージ、頭ええもんねー」
「ほいでな……」
「んー?」
「あのなぁ……、あー、ユウも宮高へ行かんか!?」
一瞬、目を見開いた悠理は、すぐにけらけらと笑い出した。
「まーた、ワヤ言いようるー。うちが、あがあな高校、受かるわけないじゃんかー」
県立宮田高校は、私学の進学校などないこの辺りで、もっともレベルの高い学校だ。
「あっこにゃあ、家政科もあろうが。それでもむつかしいいうんじゃったら、わしが勉強教えちゃる。まだ半年あるんじゃ。ユウじゃったら――」
「ジンはー?」
啓治は言葉に詰まる。そこに悠理が、ちょっと真面目な顔で言葉を継ぐ。
「ケージ、頭ええんじゃけん、ケージがジンに合わしちゃったらええんよ。ジンが受かるとこじゃったら、うちも絶対大丈夫じゃけえ、ほしたら、三人で高校行けるじゃん」
気付かないうちに乗り出していた身体を、イスの背もたれにあずけながら、啓治は大きな息を吐いた。天井の照明を何となく見ながら、それもええかもしれんなぁ、とつぶやく。
「ジンでも受かるいうたら、菅田工業かぁ」
「あっこは、自分の名前書けたら受かるそうじゃしねー」
悠理はまた、くすくすと笑いながら言った。
「あー、でも今度のテスト、ジン、名前を丸山じんいうて書いたんじゃってー。ダメかもしれんねー」
「大丈夫じゃ。まだ半年あるんじゃけえ、わしがあんなの名前、きっちり教えちゃる」
二人は目を合わせると、同時に吹き出した。
「おもろいじゃろうなぁ。今までみたぁに、三人でワヤしてから――」
「ほーよ、絶対おもしろいって」
にこにこしながら、断言する悠理。
「ほいじゃけど、管工行ったら、わし、絶対勉強せんようなる」
「んー?ケージ、頭ぁええけど、勉強嫌いじゃん。なんで急にそんなこと言うん?」
軽く首をかしげた悠理の目を、啓治は正面から見つめる。
「わしのぉ、医者になるんじゃ。親父みたいな」
なりたい、ではなく、なる、というのが啓治らしい。
「医者いうたら、人の命を救う仕事じゃけぇ、遊んじょったらなれん。じゃけえわしは、宮高へ行く。でもわし……ユウと離れとうないんじゃ!」
啓治は大きく息を吸い込んだ。高校生にケンカを売る時でも、こんなにどきどきしたことはない。
「わし、ユウが好きじゃけえ!!」
悠理の瞳が、再び大きく見開かれた。今度は笑顔に変わることなく、そのまま伏せられる。
「じゃけ、ずっと……一緒にいたい」
「……ジン、は?」
ぼそり、と悠理は言った。啓治は一瞬口ごもる。
「ジンは……そりゃ、ジンに宮高受けいうても無理じゃけど、高校が違うたけぇいうて、会えんなるわけじゃない」
「ほうよね、うちが宮高行かんでも、ケージと会えんようになるわけじゃない」
悠理は顔を上げた。いつものように、くしゃりと笑う。ただ、瞳だけが少し、濡れていた。
「うち、馬鹿じゃけぇようわからんけど、ケージのことは嫌いじゃない。ジンとどっちが好きなんか、決められん。どっちも好きじゃし、ずっと三人で一緒におれたらええ思う」
母親に連れられた幼児のはしゃぐ声が、店内に響く。悠理はその子をちらりと見やる。
「ほいじゃけど、もし三人一緒におれんのなら、うちはジンと一緒におりたい」
「ほ……ほうか」
啓治はやっとそれだけを言った。
何故とは聞かなかった。
聞きたくなかった。
理由を聞いてしまえば、それに対して何かを言わずにいられない。吐き出されるのはきっと、仁史を貶める言葉以外に考えられない。
それだけは、したくなかった。
「ジン、補習、まだかかるじゃろうの」
啓治は、融けた氷で薄まったコーラをずるずるとすすると、立ち上がった。
「わし、去ぬるわ」
「ケージ……」
悠理の瞳の奥にある光がなんなのか、啓治には分からなかった。だけど、たぶん、寂しさだったのだろう。
三人が一緒にいられる時は、もう長くない。
だから啓治は無理やり笑った。
「また明日な」
涙を堪えるのがこんなにつらいということを、啓治は初めて知った。
高校に入って、啓治は一人になった。
仁史や悠理とは、月に一度は連絡を取り合っていたが、昔のように遊ぶことはなくなった。
二人は、特に仁史は、管工の校風に瞬く間に染まっていった。会えば、自分の属する暴走族の話、集会の話、ケンカの話。
悠理の肩を抱きながら、自慢げに喋る仁史に違和感を感じながらも、黙ってその話を聞いた。
勝手に二人から離れたのは、自分の方だという引け目があったし、悠理が幸せそうにしているのなら、それでいいという思いもあった。
でもたぶん、良きにつけ悪しきにつけ、啓治は仁史にとっての手綱だったのだ。はみを外された悍馬はただ跳ね回る。乗り手の意思などお構いなしに。
だけど悠理は、再び手綱を求めたりはしなかった。啓治を拒絶したのは自分だという引け目があったし、自分の道を進む啓治の邪魔をしてはいけないという思いもあった。
厚い化粧に隠された心を見抜くには、啓治は未熟すぎた。だから、彼女の異常に気付くことができたのは、僥倖にすぎない。
父親の病院に担ぎ込まれたシャブ中のちんぴらの言動が、何故か悠理と重なった。不安になった啓二は悠理を問い詰め、そして、覚せい剤に手を出したことを知った。
啓治はすぐに悠理を父親にあずけると、仁史をぶん殴った。
仁史は三年振りに泣き崩れた。族をやめる、そして悠理を大事にすると誓った。
だけど、簡単に抜けさせてくれないことを知ると、啓治はそれまで決してしなかったことをした。
父親の力を頼ったのだ。自分の危機ではなく、悠理と仁史を助けるためだったから、躊躇はなかった。
この町のヤクザが先生と呼ぶのは、政治家でも弁護士でもない。第一は文啓のことだ。
彼にはこの町からドラッグを一掃することも、暴走族を壊滅させることもできない。だけど、十七のガキを一人二人守ることくらいはできる。
結局、族と学校を同時にやめた仁史は、文啓の世話で土建屋に就職し、悠理と同棲を始めた。
土建屋の経営者は、文啓の知り合いの極道だったから、啓治も安心して元の生活に戻った。
週末ごとに連絡を取って、飯を食った。
啓治が別の町の医学部に進学してからは、それも月に一度になったが、二人とも落ち着いて、それなりに幸せそうに見えていた。
それなのに――
「ワリャア、あんときどう言うたぁ!」
満ちるには少し足りない月が、仁史の背後から照らす。
大柄なシルエットが、啓治の怒声にびくりと震える。
「ユウはもう泣かせん言うたんじゃなぁんか!シャブはもうやらせん言うたんじゃなぁんか!ありゃあ、大嘘かっ!!」
「う、嘘じゃなあ」
コンクリートがむき出しの屋上で反響した怒鳴り声は、仁史の弱々しい反論をかき消す。
「じゃったらなんで、あんなぁ、クスリやったんなっ!」
「知らんよお」
「知らんじゃあるかっ!」
啓二に平手で叩かれたフェンスが、ざんっ、と揺れる。
「ワレが知らんで、誰が知っとんなっ」
「シャブがどんだけやばいもんか、先生にさんざん言われたんじゃ。あれがシャブじゃいうてわかっとったら、ユウにやらすかあ!」
「そがあな話をしとんじゃなかろうがっ!!」
仁史もなんとか言い返すが、啓治が治まるはずがない。
「なんぼワレの頭が悪うても、妊婦は風邪薬も飲めんいうんは知っとろうが、あ?」
「そりゃ……」
「それをワリャア、ドラッグじゃあ?」
「いうても、ユウに子供ができたいうんが分からんかった……」
「なんで分からんのんよ?ずっと一緒におって、ユウの何を見ようたんな!?」
啓治は仁史を追い詰めていった。
仁史が窮地にあれば、何を犠牲にしても助けてやりたい。その気持ちに変わりはない。
しかし、仁史の愚かさのせいで、ユウが苦しむなら話は別だ。
ユウに対する想いは吹っ切ったつもりだった。すべてを忘れ、告白する前の関係に戻したつもりだった。だけどそんな中途半端な状態が、結果として未練になっていることに啓治は気付いていない。
だから――
「ユウもかわいそうじゃ。ワレみたいなんと一緒におるせいで――」
――自分の言葉が、どれだけ仁史の心をえぐるのか、分からなかった。
「――腹のガキ、殺されるんじゃけ……!」
不意に左の頬を襲った衝撃に、啓治はのけ反った。二三歩よろけてからフェンスに指をからめ、かろうじて踏み止どまる。
鼻の奥のきなくさい臭い。口の中の鉄サビの味。
痛みを覚えたのはその後だった。
「……おんどりゃあ」
ペッと血の混じった唾を吐き捨てると、ゆっくりと体を起こし、仁史を睨み付ける。
「誰に手ぇあげようんじゃ」
身体中の血が頭に集まって、脳の血管をぎちぎちと軋ませる。ケンカを前にした啓治には、馴染みの感覚。後は相手が逃げるか、自分が地面に這いつくばるまでは決して消えない。……はずなのに。
仁史は、拳を胸の辺りに構えたまま、かすかに震えていた。俯いた頬に、月の光を反射する、何か。
(泣いてやがる)
泣き虫仁史が泣くことなんか、珍しくも何ともない。
しかし、啓治は突然冷めた。今仁史の頬を濡らすそれは、違う、気がした。
「がっ――」
もう一度殴られた。
今度は堪えきれずに、しりもちをつく。
「こんくそがきゃあ」
起き上がろうと手をついた肩口に、蹴り。
「なんでよっ!?」
仁史が喚く。
そして、ひっくり返った啓治に追い討ちをかける。
「なんでなんよっ!?」
「ぐっ――」
啓治は頭を抱えるようにして身体を丸め、叩き付けるような蹴りを耐える。起き上がろうと身体を開いた時に、腹や顔面を蹴られれば、タダではすまない。それに――
「ワシやって!」
泣きわめきながら蹴りつづける仁史の声に、このままでもいいとすら思う。
「一生懸命なんじゃ!」
「……く」
腎臓の裏を蹴られて、鈍い痛みが走る。
「一生懸命、ユウが好きなんじゃ!」
頭を蹴られる。額がコンクリートに削られ、ささくれる。
「オドレばっか、分かったふうしゃあがって」
肩、背中、腰、尻。
今どこを蹴られたのか、もう分からない。
「ユウは、ワシと一緒におるんじゃ!」
限界だった。
頭を抱えていた腕がほどけ、ゴロリと仰向けになってしまう。
(ダメか……)
「けーじなんかに、ユウが分かってたまるかあ!!」
コンクリートが蹴りつけられ、床がゴン、と揺れた。
駆け出す音と、鉄の扉が閉まる音。
(月だ……)
かすかに開いたまぶたの隙間から、黄色い光が滲み込んできていた。
啓治の身体が、腹の辺りから揺れた。
(ジンも、まだガキじゃのぅ)
くつくつと、笑い続けた。
車一台がやっとの細い道を、二台の原チャリが登っていく。今朝から降った雪がまだ解け残る山道。
「ジン、寒いって!」
「まーだー?」
後ろのハンドルを握る啓治が叫ぶと、一人だけヘルメットを頭に乗せている悠理も、啓治の腰に腕を回したまま声を上げる。
「もうちいとじゃけぇ」
先をいく仁史が振り向いて怒鳴る。そして右手をさらにあおった。白い排気ガスをもうもうと吐き出して、わずかに速度を上げる。
「あーもう、くそっ!」
「ケージィ、ゆき」
ヘッドライトの明かりに、仁史の原チャリの吐く煙に混じって、灰色のほこりが舞う。
「ジン、去のうで!積もったら帰れんなるけえ」
「着いたあ!」
ずりずりとタイヤを滑らせて原チャリを止めると、仁史は辺りを見回した。
道の両側をふさいでいた里山の雑木が、ぽっかりと開けていた。
「みてみい!これが伝説の梅の木じゃ」
仁史が小学生の時、この山里に住む親戚に聞いたという話。
平家の落ち武者どもがこの辺りまで逃げ延び、そして散り散りに分かれる前に、再会の誓いをこの梅の木の下で交わしたという。
啓治が独り別の高校へ進むことを知ってから、仁史はずっとここへ来ようと計画していた。
そして、啓治の宮高合格が決まった今日、実行に移した。
「どれがぁ?」
寒さに強張った顔を擦りながら、啓治がぼやく。
「なぁんも見えんよー」
原チャリのライトに節くれ立った木の幹が見えるだけ。梅の紅色が下枝辺りに覗いているものの、それも雪の白をかぶってしまっている。
「だいたい、源平合戦いうたら、八百年以上も前の話で?なんぼなんでもそんな梅はなかろうが」
「ええんよねぇ。こんなん、気持ちの問題じゃけぇ。よっしゃ、盃をかわそうや」
仁史は前カゴのコンビニ袋から、缶を一つ取り出した。
「なんでビールなんよー。ふつーポン酒じゃろー」
「このクソ寒いのに」
「原チャで来とんのに、ポン酒はやばいじゃろうが」
「ビールでも一緒じゃ」
「うるさいのぉ、文句ばっかり言うなや」
仁史はそういうと、啓治と悠理の中間に立ち、缶を開けた。
「うおっ」
「きゃっ」
原チャの前カゴでごとごとと揺られてきた缶ビールは、当然ながら吹き出して、三人にしぶきを飛ばす。
「冷やあ、この、ばか!」
「バァカー」
啓治と悠理は、そう罵ったあとで笑い出した。
両手をベタベタにした仁史の顔が、本当に情けなさそうで、おかしかった。
「まあええわ。貸せ。飲んじゃる」
「まだいけんって。こういうときには決まり文句があるんじゃけえ。伯父さんにちゃんと聞いてきたんじゃ」
仁史はごそごそとポケットを探る。そして取り出した紙片を、ライトにかざした。
「えっと。われら、同じ年、同じ月、同じ日に生まれずとも……」
「なんな、それ」
「じゃけえ、誓いの口上よう」
「ジン、絶対伯父さんに騙されちょるって。そりゃあ、三国史じゃなあか」
「はあ?」
「こう続くんじゃろ?同じ日に死ぬことを願う、いうて」
「な、なんで知っとんよ」
「じゃけえ、三国史いうて、中国の小説よ。桃の木の下で、義兄弟の契りを交わす場面じゃ」
「さすが宮高じゃねー。ジン、全然違うじゃんかー」
仁史はもう、言葉も出ない。
「ええけん、ビール貸せって」
「けーじぃ……」
「こんなんは、形じゃなしに気持ちじゃろうが」
啓治は仁史の手から缶を取り上げて、一口飲む。
「ジン、ありがとうな」
「……けぇじぃー」
「ウチも飲むー」
眉根をちょっと寄せながら、悠理も一口。
「あー冷めたー。はい、ジン」
「おお」
やっと笑顔になった仁史が、缶を受けとる。
「けーじぃ。けーじは高校は違うけど、ワシら三人、ずっと一緒よな」
「ああ」
残ったビールを、仁史が一気に干す。
びょうと、強い風が、山を揺らせた。
「さぶう。ジン、はあ、いのうで」
「けーじぃ、ごめんな。梅見えんかった……」
「ええよ、別に」
「ジンー、ケージー、見てー」
「なんよ」
「月がー」
啓治と仁史は、悠理の声に振り返った。
「うひゃあ」
「ジン、電気、消せ」
「お、おお」
仁史が、まわしっ放しだった原チャリのキーを抜く。
一瞬だけ、世界を闇が包んだ。
すぐ、淡い光が湧き上がる。
風が、月を覆っていた雲を、吹き散らしたのだ。
「すげぇ」
「きれー」
天の半分を覆い尽くす梅の巨木の枝々に、薄紅の花が身を綻ばせ、純白の雪をほんのりと染める。
望月の灯明が、それを透かせて輝かせていた。
ぐすっと、洟をすする声がした。
「どしたんな、ユウ」
「……んー。なんか分からん。なんか、すごいキレイじゃけー」
悠理は、まばたきもせずに、涙を流していた。
啓治と仁史は、悠理を挟んで、同じように見上げていた。
どれくらい、屋上に身体を投げ出していたのだろうか。
(同じ月の明かりなのに)
あの時の風景とは、まるで違う。
月に罪はないのだろう。
照らし出される町が、薄汚れているせいだ。
融けてぬかるんだ雪。 枯れて腐った花。
その中で生きる啓治たちには、あの夜の光景は、どんな奇跡よりも儚い。
ガタン。
扉が再び鳴った。
「啓ちゃん、おるん?」
加瀬だった。
「おるよ」
軋む体を起こしながら、啓治は応えた。
「啓ちゃん、どうしたんね。大丈夫?」
「……大丈夫じゃ」
身体中、痛まないところはない。しかし、我慢できないほど痛むところもない。
「ジンは?」
「なにがあったんね。泣きながら降りてきてから。ほうよ、ユウちゃん、目ぇ覚めたんよ。それを言うたけ、今、面会しょうる」
「ほうか!目ぇ覚めたか……てて」
「啓ちゃん?ちょっと、明るいとこへきんさい」
啓治は何とか立ち上がると、言われるままにドアをくぐった。バツが悪そうに、加瀬の心配そうな視線から目を逸らす。
「どうしたんねぇ!?血だらけじゃないね」
眉をひそめた加瀬は、慣れた手つきで、啓治のごわついた髪をかき上げた。引きつるような痛みが走る。
「加瀬さん、大袈裟じゃって。大丈夫よ」
啓治は無理やり笑ってみせた。そうすると、実際たいしたことがないような気がする。
額から流れた血が乾いたのだろう、顔の表面が突っ張る感じがするが、出血はもう止まっている。パジャマ代わりに着てそのままだったトレーナーも、あちこち血が滲んでいるものの、濡れている感じは全くない。
「そがあなことより、ユウは?話できるんじゃろ」
「なに言ようんね。手当てが先よ。ステーションに来んさい」
有無を言わせぬ口調で命じる加瀬。
「後でええって」
「言うこと聞きんさい。看護師敵に回して、医者は出来んよ」
「え……」
この病院の若手医師をあごで使うその貫禄に逆らい続けるのは、啓治には少し荷が重かった。
病室の扉をそーっと開けると、すでに明かりは消されていた。
(寝てしもうたか……)
仕方がない、明日また来るか、そんなことをつぶやいて、扉を閉めようと手を掛ける。
「ケージ?」
「おわ?ビックリした。起きとったんか、ユウ」
「うん」
暗がりの向こうに、ぼんやりとベッドの上の膨らみが、透けて見える。
「ちいと……話してもええか」
「……うん」
ドアの隙間を、身体を横にしてすり抜け、病室に入る。
電気はつけない。開いたブラインドの向こうから、傾いた月が水底のような光を投げかけている。
処置室から悠理が移されたのは、四階の二人部屋。といっても、もう一つのベッドには誰もいない。
啓治の友人だからと特別扱いをしているわけではない。他の入院患者の迷惑にならないように、取りあえず空いていたこの部屋へ移し、朝になってまだ入院の必要があるようなら、大部屋に移されることになっている。
「どんなよ。気分、悪うないか?」
見舞い客用の丸イスに腰掛け、ユウに問う。
「うん」
「ほうか……」
悠理は啓治に背を向けたまま、窓の外を、月を見ている。いや、目を開けているかどうかは、啓治には分からない。でもそんな気がする。
しばらくの間、部屋の中に、二人の呼吸音だけが満ちた。
「ユウ――」
「ごめんなー、ケージィ」
「何をあやまりょうんな」
「……じゃけど」
「悪いのはジンのぼけじゃ。心配すな。あんなぁ、こてんぱんにしといちゃったけぇ」
悠理の影が、くすりと揺れた。
「ジンは、ケージをぼこぼこにしてしもうたいうて言ようたよ」
そういうと、悠理はゆっくりと寝返りをうった。濡れた瞳がちらりと月を反射して、啓治の顔にすえられる。
「やっぱり。ぼこぼこじゃん」
「やかーしや。わしゃあ負けとらん。逃げたんはジンの方じゃけぇの」
「ケンカでジンに勝てるはずなあのに」
「じゃけえ、負けちょらん言うとろうが」
言いながら、啓治はがっくりと肩を落とした。
「うん……ごめんなー」
「ええよ。手加減してくれちょったみたいじゃし」
これは本当だ。あれだけ一方的にやられたわりには、骨にヒビひとつ入っていなかった。
「のう、ユウ。なんで……」
悠理は、天井を見上げた。
「赤ちゃん。ダメじゃったね」
あっさりとした口調。
「知っとったんか、腹ん中ぁ赤ん坊がおるゆうて」
「んー。生理が遅れたけぇ、検査薬で調べた」
「じゃったらなんで!?」
大声を上げかけた啓治は、慌てて言葉を飲み込む。浮かせた腰を、もう一度イスに乗せる。
「なんでシャブなんか。分かったんじゃろ?やったクスリがシャブじゃゆうて」
天井を見ていた悠理の瞳が、揺れた。
「なあ、ウチら、三人とも、お母さんおらんよなー」
「……ああ」
「ケージは、お母さんのこと、覚えちょる?」
「いや」
啓治の母親は、彼が物心ついた頃にはもう、この世にはいなかった。
「ジンもねー、覚えちょらんゆーて言ようた」
「ほうか」
「ウチのお母ちゃん、死んだ言うたけど、ほんまはねぇ、まだ生きちょるんよ」
「ふうん」
啓治には、話が見えなかった。だから取りあえず、相槌だけを入れ続ける。
「ウチはねー、お母ちゃんのこと、よー覚えちょる」
悠理はまた、啓治に背を向けた。シーツをたぐりよせ、頭にかぶる。
「いっつも怒っちょったし、いっつも、叩かれたり、抓られたりしたけぇ」
「なっ?」
「冷たい水もかけられたし、熱いお湯もかけられた。お酒の瓶で殴られたし、タバコの火も押しつけられた。あの女が家を出て行った時は、ほんまに嬉しかった」
身体を一層丸め、悠理は自分の肩を抱く。
「でもなー、お父ちゃんが言うんよ」
悠理の父親を、啓治は思い出す。
小さな町工場に勤める、人の良い、その分気の弱そうな男。ずいぶん若い時に悠理が出来たから、まだ四十になっていないはずだ。
「酒を飲むたんびに、ウチが生まれたけぇ、お母ちゃんは出て行ったんじゃ、ウチがおらんかったらよかった、ゆうて」
「そんなことなあ!生まれてきて悪いヤツなんか、一人もおらん!」
「ウチもねー、ジンの赤ちゃんが出来たゆーて分かって、ほんまに嬉しかったんよ」
啓治の言葉を聞いているのか、悠理は淡々と続ける。
「じゃけど、なんか急に、お母ちゃんのこと思い出して。ウチ、あの女の子供じゃけぇ……」
悠理の声がくぐもった。胸の奥に詰まった何かを、吐き出そうとしている。
「子供が生まれたら、ウチ、叩くかもしれん。湯ぅかけるかもしれん」
「ユウがそんなことするわけなかろうが」
「ウチ、子供が邪魔じゃゆーて、ジンをおいて出て行くかもしれん」
悠理の身体が大きくふるえた。
「ユウ!」
落ち着かせようと、啓治は名を呼ぶ。
しかし悠理は掛け布団をはねのけると、上半身を起こして啓治に叫んだ。
「出て行って良かった、嬉しかったゆうて、ジンの子供に思われるかもしれんのんよ!」
悠理は、まばたきもせずに、涙を流していた。
あの夜と同じ、あの夜と違う、涙。
「ユウ――」
啓治の声が変わった。
「わりゃあ、そんなもんか」
悠理に向けて発したことがない、マジでぶちキレた声。
「わしより、ジンのクソバカぁ選んどいて、あんなぁ捨てる言うんか」
「……ケージ」
「われが、ジンと一緒にいたい言うたんは、そんなもんなんか!」
「ウチじゃって、ウチじゃってジンと離れとうない。ジンが好きじゃもんっ!!」
「なら一緒におりゃあええ!ガキつくるんが怖いんじゃったら、つくらんかったらええ!」
「……けど……」
悠理は涙を流したまま、顔をグシャリとゆがめた。俯き、シーツを握り締める。
「けど……赤ちゃん……」
肩をふるわせながら、むせび泣く。
啓治はその姿を、じっと見ていた。
悠理はよく、ちっちゃい子供を目で追いかけていた。その横には必ず、母親がいた。
母子の姿というのは、彼女にとって最初から与えられなかった、だからこそ、求めてやまない幸せの象徴なのだろう。啓治はそう思う。彼自身がそうだから。
しかし、啓治には加瀬がいた。表面上はどうあれ、加瀬は十分に母親としての役割を務めてくれていた。
そして悠理には、加瀬のような存在がない代わりに、記憶があった。
闇が深いからこそ、悠理は光を求めてもがいている。しかし、彼女にとって光とは、闇に直接つながるものなのだ。その矛盾が、彼女を苦しめている。
(なにもできない)
啓治は、泣き続ける悠理を、ただ見続けた。
仁史は、悠理のこんな姿を、知っているのだろうか。
――けーじなんかに、ユウが分かってたまるかあ
きっと、知っているのだろう。
(なにも、できないのか)
悠理に告白した時とはくらべものにならないくらいの、隔絶感がおそう。
「なあ、ユウ」
しゃくり上げる声が、洟をすする音よりも少なくなって、ようやく啓治は声を掛けた。
「わしのぉ、あと五年、いや、六年か、それぐらいすりゃあ、医者になれる」
「……うん」
啓治の言葉が耳に入ったのかどうか、悠理はとりあえず頷いた。
「それまでな、ユウ、子供つくるん待てえや」
「……え?」
悠理がやっと、顔を起こした。
月が半分隠れた窓を背景に切り取った、か細いシルエットが、とてもきれいだと啓治は思う。
「ユウの子供、わしが取り上げちゃるけぇ」
悠理の影は、じっと動かない。
「大丈夫よ。わしゃあ、外科の医者になるつもりじゃけど、産科の実習もきっちり受けるけ。医者はの、免許持っとったら、何してもええんで」
細い肩がまた震えはじめた。そして悠理はゆっくりと横たわる。
「ユウ?」
また泣き出したのかと思った。しかし悠理の口からもれているのは、クスクスという、笑いだった。
「ケージ」
「ん?」
「ケージのすけべー」
「す、すけべ言うな」
「えっちー」
「じゃけぇ、医者にそれはシャレにならんって」
啓治はほっとした。
悠理が笑ってくれていればいい。他に何もいらない。
「ケージ、まだ医者じゃないじゃん」
「じゃけぇ、医者になったら言ようろうが」
「んー。待ってあげてもええよー」
悠理はゴロリと寝返りをうった。今度は啓治の方へ身体を向け、見上げるようにしている。
(まだ、できることがあった)
「おお、待っとけや。約束で」
こんなことですべてが解決するとは思っていない。
でも――
コン。
控え目なノックに続いて、病室のドアが開かれた。
「啓ちゃん。いい加減にしんさい。休ませてあげんと」
「ん?ああ」
加瀬だった。啓治は素直に、腰を上げる。
「なあ、ユウ」
「んー?」
「お前、幸せか?」
加瀬の顔が怪訝そうにしかめられる。こんな情況でするような質問じゃない。
だけど――
「うん、幸せ」
悠理は、一瞬の迷いも見せずに答えた。
「ユウちゃん……」
「そりゃあ、悲しいこととか、ようけあるし、やれん思う時もあるけど」
廊下からの明かりに照らされた悠理が、そっと自分の腹部を押さえる。そこにはいない子を、撫で擦るように。
「でも、今はジンと一緒におれるし」
啓治の胸が、チクリと痛む。
「ケージもたまには、心配してくれるしねー」
悠理が顔を上げた。啓治がいつも見たいと願っているものを、悠理はまだ持っていた。
「ふん、ま、たまにゃあな」
(いつも、いつもな)
啓治はそっと手を伸ばして、悠理の柔らかい髪に触れる。悠理はそっと、それを見ていた。
「じゃあ、わし、去ぬるけえ。何かあったら――どんなこまぁことでもええけぇ、電話せえよ。今度こがあなことしたら、怒るけぇの」
啓治はベッドに背を向ける。
「じゃあの。おやすみ」
「んー」
病室を出た啓治の背後で、加瀬がそっとドアを閉めた。そのまま啓治の後を歩く。
「ええ子じゃね」
「……ユウか?ほうじゃろ」
加瀬はほほ笑みを浮かべて、啓治の後ろ姿を見つめた。階段を下りる二人の足音が、響く。
「加瀬さんは、どうするん。帰るんじゃったら送っちゃるけど。どうせ親父、このまま病院におるんじゃろ」
「ええよ。もう明けるけえ、ステーションに詰めとく」
「ふーん。なあ、加瀬さん」
「なんねえ」
「加瀬さんは、親父の子ぉ、産まんのんね?」
「な、急に何を言い出すんね、この子は!」
頬を染めた加瀬が、頭をはたこうと伸ばした手を、啓治はスルリとかわして笑う。
「もし、わしの弟か妹を産んでくれたら、加瀬さんのこと、オフクロいうて呼んでもええかのぉ思うて」
「――啓ちゃん」
「じゃあの、身体に気ぃつけえや、かあさん」
病院の外は、もう、夜が明けかけていた。仄かに輝く藍色の空に、もう月はない。
朝が生まれた瞬間だけに流れる、さわやかな空気を大きく吸い込んで、啓治は愛車に足を向けた。
「で、なにしょうんな、わりゃあ」
地べたに座り込んだ仁史が、運転席のドアに背を預けて、うつらうつらしている。
「こら、起きいや。風邪引くど」
踝の辺りを軽く蹴りとばすと、ようやく仁史が頭を上げる。
「ああ……けぇじぃ」
「ああ、じゃあるかぁ、なにしょうんないうて聞いとんじゃ」
「家まで帰る金がなぁけえ、送ってもらおう思うて」
「歩いて去ねぇ、あほぅ」
そういいながらも、啓治は立ち上がった仁史に車のキーを放り投げる。
「運転せぇ。誰かのせいで、あちこち痛とうてやれんけぇ」
「ごめんなぁ、けーじぃ」
啓治は助手席に潜り込むと、ドアを勢いよく閉める。仁史も慌てて運転席に乗り込んだ。
「ええよ、もう。ジンの方がよっぽど辛いいうんが分からんかった、わしが悪いんじゃけえ」
「う……お……」
「なんで泣くんな。はよう出せ」
「……お、う」
ぐずっという洟をすする音とともに、ベンツは走り出す。
窓から見える空に、もう月はない。
道端の街路樹に花はなく、舞い散る雪も、もちろんない。
それでもいい。
赤くほころぶ花も、白く輝く雪も、人の心の中にある。
そして月は――
優しく照らす――
(fin)
拙作をお読み頂き、ありがとうございます。
広島弁は、読みづらくなかったでしょうか。
このストーリーは、あなたの心に、何かを届けることができたでしょうか。
もし何かが届いたのならば、それを教えていただけると、私は涙の海で溺れても悔いはありません。
この作品を気に入っていただけた方にも、そうでない方にも、最後まで読んでくれたすべての皆様に、百万遍の感謝を。
ありがとうございました。