08. 旅立つとき(1)。
――生きてください。
「私はそう望んだはずですよ、清英」
遠目に王宮から立ち上る黒い煙を眺めながら、彼はそう零した。
悲しげな響きのあるそれは、適わないと知っていたせいかもしれない。知っていてもなお、望んでしまっただけだ。
幼い頃から優秀で、人好きもして、王子だからというわけでもなく、国民に愛されていた甥っ子は、常に努力の子だった。その努力の源はすべて真妃のためであって、兄も自分も呆れていたところもある。
それでも重い運命を背負っている真妃を任せられる、立派な男になっていた。
真実を知って、それでも彼は真妃を愛する道を選んだ。
「――って、てめぇっ! ざけんな! 感傷にふけってねぇで、この縄ときやがれ!」
更なる物思いにふけようと思っていたのに、騒がしい声で引き戻される。
振り向くと、屋敷の柱に括り付けた蒼軌がバタバタと暴れ叫んでいた。
(まってくもって、騒がしい……。)
「真妃様の目が覚めるでしょう、もう少し静かにできないんですか?」
「だったら! 縄をほどけって言ってんだよ!」
「嫌です。そうしたら、あなた。王宮にとって引き返す気でしょう」
清梁の首都となるこの街は構造が一風変わっており、王宮は深い堀と高く頑丈な石壁で囲まれていて、街とは一線を画している。そのため、戦乱の渦にある王宮内とは違って、街の中ではまだ激しい争いはみられていない。
更に外れにあるこの道場兼家は、静寂を保っている。
――騒がしい、蒼軌を除けば。
最も、街に戦火がないことで蛮族の目的は明らかになった。唯一の標的を逃さないために、かなり秘密裏に動いていたのだろう。
街が騒がしくなれば、王族が標的を逃すのは目に見えているから。
それでも、清英の動きが早かった。
今のところはあらかじめ、彼と決めていた通りに動いている。
蒼軌が真妃を連れてこの場所に逃げてくることも。
だが、ふたりボロボロの状態でたどり着いたとき、真妃は倒れてしまった。今は道場に布団を敷いて寝かせているものの――。
(仕方ないですよね……。)
今まで優しい両腕に守られ、甘やかされてきた真妃。もちろん、その心根が強いこともあって、それ故に傲慢になったり我儘になることもなく育ってきたが、それでも幸せになる、と信じていたものが目の前で壊れていく苦しみは容易くはない。
だが、真妃の姿を見られた以上はすぐに行動に移さないといけないだろう。
目の前で国民を人質にされたら、真妃は大人しく捕まる。それでは、命がけで真妃を護ってきたあらゆる者たちの想いが無になってしまう。
なんとしても、彼女には生き延びてもらわなければならない。
風が揺らぐ。
微かに届く諍いの音。
彼にも、役目がある。王と――兄と、甥に約束をした。真妃を護る代償に、せめて国民だけは王族として護る。
そのために自分はあらゆる武術を習得し、身に着けてきたのだから。
腰に据えていた剣を鞘から引き抜き、その刀身を蒼軌に向けた。
「今から縄を解きます。ですが、あなたが向かうべきは焼け落ちた王宮でも、死んだ清英さまのもとでもありません」
「なっ!」
驚きに目を見開く姿に苦笑が浮かぶ。
信じたくない現実はだれもが聞きたくはない。だが、それが許されるほどの余裕が今はない。それがどんな現実であっても、受け止め、前に進んでもらわなければ。否、受け入れられなくてもいい。ただ、後ろに下がらせることだけはできない。
「いいですか、蒼軌。蛮族の狙いは真妃です。彼女が逃げる姿を見られたというのなら、蛮族はやがて此処にたどり着きます。恐らく今は街中を探しているでしょう。清梁の国民は強い。容易く言いなりにはならないでしょうが、あまり犠牲を出したくはありません。あなたは今すぐ、真妃を背負ってでも、この国を出なさい」
「はっ、ふざけんなよ! だれが……っ!」
「それが清英の願いです」
きっぱりと言い切ると、蒼軌は言葉を失ったように、黙り込んだ。
愕然とした表情を浮かべる彼の目の前にしゃがみこみ、視線を合わせる。
「約束したのでしょう、あの子と。なにがあっても、真妃を護る。守り抜く、と」
焦ったように、蒼軌の視線が逸らされる。
「それはっ、あいつが……、清英がするべきことで、俺は……」
「清英さまの意志を継いでください。真妃にはもう、蒼軌、あなたしかいない」
ハッと彼の目が再び向けられる。
碧の瞳は戸惑いに揺れながらも、その奥に宿る強い光は、恐らくそうするしかないことを知っている。
大人しくなった蒼軌を見て、剣を閃かし、彼の縄を切る。
はらりと落ちる縄。
拘束するものがなくなっても、動こうとはしない。
「師匠は――」
「わたしはここに残ります。王族との約束ですから。必ず、国民を守ると」
「俺たちにどこへ行けと?」
「まずは、真妃の故郷――真国へ。そこで、真妃に伝承の真実を聞くように伝えてください」
すでに動き始めてしまった以上、終わらせるには、すべてを知る必要がある。
それがどんなに真妃にとってつらいものを背負わせることになろうとも――。
「伝承――?」
「ええ、あなたにも関係があります。これだけはあなたのために言っておきましょう」
自らが抱えるあらゆることを、この蒼軌には教え授けた。
普段は冷静沈着で飄々とした態度を崩さない、その胸の奥には獣が眠っている。一度目が覚めたら、彼自身制御できるかわからないだろう。あの幼い頃のように――。
だがあの時とは違って、彼にはもう真妃がいる。
「生きてください」
清英にも告げた言葉――。
真妃と彼は大陸すべての民の最後の希望になる。だからこそ、どんな絶望に追い込まれようとも、諦めることなど許されない。
それがどんな残酷な望みであっても。
「蒼軌、約束です。生きてください」
お互い、まっすぐに交わす視線。
彼の顔がくしゃりと歪む。今までどんなお仕置きをしても、見たことがなかった、今にも泣きだしそうな表情に、苦いものが浮かぶ。
「俺はもう、約束なんかしてやらねー」
恐らく清英と交わした約束を思い返しているのだろう。
彼と交わした約束が蒼軌の鎖になって、清英とともに戦うことも、王宮に戻ることも、国民たちのために、この場所に残ることも許されないのだから。
悔しそうに言いながら、立ち上がり、手についた汚れを払うように叩き合わせる。
「師匠、あんたこそ生き残れよ。俺は、必ず強くなって戻ってくる。あんな、蛮族のような連中、片手で倒せるくらいになって」
「だれに言ってるんですか。あなたが強くなるより、わたしが殲滅するほうが早いですよ」
よく言うぜ、となにかしら憑き物が落ちたように鼻で笑う姿に胸を撫で下ろす。そうして、旅立つ決心をつけた蒼軌に告げた。
「真妃には薬を飲ませてあります。今のうちに、旅立ちなさい」
蒼軌は頷く代わりに、遠く黒煙が昇る王宮に視線を向けた。
まるで別れを告げるかのように――。