15. 伝承(3)
水面に映る顔が流れて歪んでいく。
歪んだ面に浮かぶ憎しみが過去のものか、今現在のものか黄麒にはわからずにいる。
胸にくすぶる想いはたったひとつ。
(――どうして置いていったんだ。)
ずっと一緒にいる、傍にいると、約束したのに。
彼女は心配ないと笑って。
あの女は悲しげに微笑んで、ふたりとも姿を消してしまった。僕ひとりを置いて――。僕の気持ちを残したまま。
無造作に手のひらを川面に突っ込む。
パシャリ。
はねる音と同時に歪んでいた顔が弾けて消えた。
「バカばっかり!」
叫んでしまえば、さっきまでの感情の揺さぶりはいったんは止まる。代わりに現れるのは決意。もう二度と、同じことは繰り返さない。
誰のことも、信じない。
「――なにしてんだ、おまえ」
不意にかけられた声に、慌てて振り向く。
蒼い髪に翠の双眸。岩の上に軽やかに立つ姿は、神依が「蒼き守神」と呼ぶ男。間違いなければ、黄麒が二番目に嫌う奴。
「別に。話は終わったの?」
「さぁ。なーんかイヤな方向に進んでたから、抜け出してきた」
あっけらかんとした口調で返ってきた言葉に呆れてしまう。
(なんだよ、それは!)
あまりにも身勝手な言葉だ。けれど、その飄々とした言いぐさは、彼の知っているはずの男に似ている。
『――あんな奴のどこに惚れたのさ?』
『力が抜けちゃうところ。みんな、がんばれがんばれって言うでしょ。私もね、がんばってるんだよ。でも時々、がんばりすぎて大切なことが見えなくなっちゃう。そんなとき、彼は力を抜けって言ってくれるから。がんばらなくていい。ありのままの私でいけばいいって思わせてくれるの。そうするとね、大切なことを見失わずに、私はがんばれるの』
なんだ、それ。
あのとき、そう思ったことは覚えてる。
単純、けど。あのときは確かに誰もが彼女ががんばることを望んでいた。がんばれ、がんばれ。あともう少しだ、がんばれ。
誰もが――いや、あの男以外は――彼女の本当の気持ちを見ようとしていなかった。
優しく微笑んでいた彼女の顔。あの男のことを話すときの、それまで見たことがない微笑みに、見惚れずにはいられなかった。
「俺の顔になんかついてンのか?」
唐突に覗き込んでくる双眸に、我に返って後ろに下がる。
「ちっ、近づくな!」
「見つめてきたのはおまえだろ。ひでぇな」
「気持ちわりぃこというなよっ、俺はおまえみたいな奴だいっ嫌いなんだよ!」
どんっと胸を突き飛ばせば、たいした衝撃でもないように肩をすくめて数歩距離をとられた。
「へぇへぇ」
バカにしたような言い方に聞こえて、睨みつける。
――やっぱり自分には彼女の気持ちはわからない!
「まぁいい。で。おまえに聞きたいことがあってさ」
不意に真面目な顔になってしゃがみこむ。それまでのふざけた雰囲気とは違って、戸惑う。
男は手を伸ばし、まるで川面に映る顔を見られたくないかのように、水面を揺らす。
「真国が滅んだのはほんとうか?」
「ああ」
「王も王子も殺されたって?」
「そうだよ、王妃様の目の前で。俺も見た。あの男ーー大国の王と言ってた」
「黒い髪に赤い目をした男か?」
あのおぞましい男。
存在しないはずの、存在してはいけないはずの男だった。狂気に落ちた、今もなお落ち続けている男。
そうだ、と頷くと水面を揺らしていた手が止まった。手を握りしめ、水面に打ち付ける。
「っ!」
悔しさが滲む表情に驚く。
(――この男でもこんな顔をするのか。)
いつも余裕のある態度で、真面目な姿なんて欠片も見せずに、それなのに彼女の心を捕らえた男。
『そう見せてるだけだよ。本当はとても情の深い人。だからこそ、傷つきやすいの』
同時にそれは彼の強さの根底だとも言っていた。
確かにあの男はだれもよりも強かった。何の力もない自分にはその強さが憧れだった。その強さがあってもなお。
護れなかったじゃないか。
(信じるものか……!)
「……いつ追っ手が来るかわからないだろ。用事が済んだらさっさとあの女と一緒に出ていけよ!」
これ以上向き合ってると余計なことを思い出しそうで、村に向かって踵を返す。
「待てよ。もうひとつ。若い連中がいない理由だ。この村に何が起こってる?」
ぎくりと身体が強ばるのがわかる。
「おまえの態度だと真妃と何か関係がありそうだな」
「――狩り、だよ」
ばばあは、黙ってろと口を酸っぱくして言っていたが頷いた覚えはない。
少しは罪悪感に苦しめばいい。
わきあがってくる苛立ちに突き動かされるように、口を開く。
「大国は真国の王族を殺害し、清梁も攻めた。王女捜索にこの村にも蛮族がやってきて、滅茶苦茶にしていったのさ。王妃様は幸い、ばばあの術で隠し通せたけど。その後、蛮族相手にただでさえ疲弊していた村に賊が現れた。理由はわからないけど、賊は若い男たちを捕まえてどこかに連れて行ったんだ」
まるで、狩りをするかのように。
村の男たちを打ちのめし、嗤いながら。そうして気紛れに若い女たちを餌食にしていった。女たちは絶望し、死を選ぶ。救えたとしても、深い傷を負ってしまう。狂気に落ちた者もいる。村は次第に廃れていった。
真国に護られていた頃は、とても明るい活気に溢れた村だったのに。住人は首都付近の街に比べれば少ないけれど、神依であるばばあがいたことで若い者たちが働いて、それなりに発展していたところだった。
滅びるのは、ほんの一瞬。
「で。おまえはこの村が滅んだのは真妃のせいだって逆恨みしてンわけだ」
訳知り顔でうなずく男に苛立ちが増す。
「じゃあ、だれのせいだって?」
「さぁて。世界中のうまくいかないことがぜんぶ誰かのせいなら人間なんてすぐに滅ぶだろうな」
「っ、だれもそこまで!」
「まぁ、確かにあいつのせいだ。あいつが産まれなきゃ。神子の生まれ変わりじゃなかったら。真国に産まれてこなければ。逃げなければ。大国に行ってれば」
「だからっ、僕はそこまで言ってないっ!」
叫んで振り向く。男を睨みつけようとして、射抜くような視線とかち合う。視線だけで、まるでナイフを首元に突きつけられるような威圧感を覚え、思わず息を呑む。
「今の言い方を真妃にしてみろ。あいつはそう思うさ。あいつが大国に捕まって、それで過去を変えられるなら俺だってすべてあいつのせいにして、差し出すね。だが、過去はどうしたって変えられねぇんだよ。起こったことも、死んだ奴も生き返るわけじゃない」
――どうしたって過去は変えられない。
(そんなことわかってる!)
握りしめた拳が震える。
「おまえに何がわかるんだ!」
護る力がない。僕にできるのはただ傍にいることだけだったのに。
それさえもできなくて。
「おまえ……」
驚いたように瞠目する男に、ハッと我に返る。
(ちがう――!)
過去と現在が混濁している自分に気づいて、慌てて男から逃げ出そうとした。すぐに肩を掴まれる。
「おまえ、なにか変だぞ……っ!」
追求されそうになった瞬間、風の流れに混じって馬の嘶きが聞こえてきた。
聞き覚えのあるそれに、身体が竦む。
「あれは……」
「賊だ。賊の乗ってる馬だ。あいつら、また村に……!」
「真妃!」
ほんの一瞬。
男はまるで風でもあるかのように横を通り過ぎ、村に向かって走り出す。
あっという間に引き離されていく背中を見ながら重なる過去に、首を振った。