10. 旅立つとき(3)。
ぐっと、身体を持ち上げて、どうにか崖の上に登る。地に足を下ろせたことに息をつき、慌てて下を覗き見た。
ぶら下がっている蒼軌に手を伸ばす。
「蒼軌! つかまって!」
「ばかか。おまえが俺を引き上げられるわけねぇだろう!」
眉を顰め、呆れたように言われた言葉が胸を突き刺す。
確かに、蒼軌の体重を支えられるだけの力が自分にあるとは思わない。それに、無理だと感じた瞬間、彼はきっと躊躇いなく手を放してしまう。
「じゃあっ、どうすればいいの?!」
蒼軌が掴まっているツタはすぐにでも切れてしまいそうで、たぶんもう保たない。それがわかっているのに、蒼軌は首を振る。
「――っ、いいから、この先に真国との境目にある村がある。とりあえず、おまえはそこに向かえっ」
「やだっ、蒼軌を置いて行けるわけないでしょ! お願いっ、手を伸ばして!」
彼の言葉を拒絶して、精一杯身体を乗り出して、手を伸ばす。
――がらりっ!
身体を支えている瓦礫が崩れ落ちていくのを感じる。これ以上乗り出せば落ちてしまう。
「真妃!」
――いやっ!
「やめろっ!」
「いやよ!早く手をつかんで! 私を落としたくないなら、どうにかしたってあがってきてよ! 私はもうだれかを置いていくなんていやっ!」
愛する清君を、愛してくれた清梁の王や王妃を、真妃を守ってくれる国民を、師匠を置いてきた。今の真妃はなにもできないことを身を持って知ったから、とても惨めで、情けなくて――。
それなのに、大切な幼なじみ――親友まで失ったら、もう。
(ちがう! わたしは失いたくなんてないっ!)
「落ちるなら一緒よ! わたしは諦めない! だからっ、蒼軌も諦めないで!」
手を掴みたい。伸ばされる手を、なにもできないと諦めたくないっ!
ピシッ! ピシ、ピシィッ!!
真妃の声をかき消すように蒼軌が掴んでいるツタの数本が重みに耐えきれずに切れてしまう。蒼軌がほんの少し手のひらを開くとパラパラと切れたツタが落ちていった。たちまち、真妃は血の気が引くのを感じる。
「蒼軌!」
下を見下ろしていた蒼軌が、頭上の真妃の顔に視線を投げる。いつも余裕に満ちた明るい碧の瞳からはなんの感情も読みとれない。それがまるで諦めでもあるかのように感じられて、真妃は負けじとその瞳を見つめ返す。
彼が諦めた時点で、真妃は本気で後を追って飛び込むつもりでいる。
その想いを少しでも伝えたくて、かろうじて登ったはずの崖縁から身を乗り出す。
見つめ合ったのは数秒ーー想いが伝わったのか、小さな舌打ちが聞こえた後、彼は足で岩壁を蹴りつけ、揺れるツタの反動でいちばん真妃の手に近づいた瞬間を狙って、わずか一瞬、握っていたツタにぐっと力を込め、反対の空いている手を伸ばし飛びついた。
ピシピシィッ!!
盛大にツタが切れる音が聞こえたが、真妃は気にしている場合じゃなくなった。
ぐっと片腕にかかった負担に、息を呑む。
――重い!
半端じゃない!
今まで重いものといったら、剣舞で扱う剣くらいしか持ったことないのに。急にしっかりと鍛えきった青年男性ひとりの体重をひとりで、しかも片手一本で支えるなんて到底ムリ!
そう実感しながらも、それでも。
それでも、この手の先にあるものは諦めていいものじゃない。
「……蒼軌っ、早く!」
「っ、わかってる!」
助かる、と決めた蒼軌の生存本能は高かった。
つかまった真妃の手を支点に、もう片方の手でどうにかつかめるところを探す。ほんのわずか指先をひっかけ、爪が剥がれても力を込め、少しづつ這い上がる。
あと少し――、ようやく両手で彼の腕をつかむことができるところまでくると、真妃が引っ張り上げる力を借りて、崖上まで飛び上がることができた。
(……助かった。)
心の底からそう思って、一息ついて崖下をのぞき込んでる蒼軌を見る。
「おぉ、けっこう険しい崖だったんだなぁ。いや、俺マジでがんばったじゃん。こんなたけー崖途中までは真妃背負って一人で登ったん……って真妃?!」
暢気に感想を口にしているけれど、その手はもうボロボロ。爪先は剥がれ落ち、何本も血が流れてる。頭からも額も、こめかみからも、青あざや擦り傷が何カ所もあって。ムリに力を使ったせいか、腕が小刻みにふるえてるのもわかる。
「真妃、なんで泣いてんだよ? 俺もおまえも無事だろ、なんで泣く必要が――」
「蒼軌……」
「あ?――っわ!」
溢れてくる感情を抑えきれずに思わず、抱きつく。
「諦めないで!」
「は……?」
「生きることを諦めたりしないで! 私を守るために命を捨てるなんてのはイヤ! 私も一緒にがんばる! できないこともたくさんあるし、蒼軌の足手まといにもなると思うけど、なんでもする! だから一人で私のためにって自分の命を捨てるなんてもう考えないで!」
怖かった。
崖に落ちる、とか助からないとか、そういうことじゃなくて。いつも感情豊かな蒼軌の瞳がなにも写さず、ただ真妃を見上げたあの瞬間。
脳裏に浮かんだのは屋上で、真妃たちを見て微笑んだ、あの清君の瞳。
まるで覚悟を決めたように。
あのときだって、手を伸ばしたかった。蒼軌にしたように、一緒に落ちてでも。いま叫んでいる言葉はぜんぶ、本当は清君に言いたかった。
真妃の想いも聞いてほしかった。聞いてほしかったのに、いちばん言いたい人が、いない。
「――ごめん」
不意に背中に回される腕に気づく。同時に耳元で囁くように言われた。普段の蒼軌からはけして、聞けるような言葉じゃない。
蒼軌も真妃の本音がどこにあるのか気づいたのかもしれない。だからこそ、背中に回る腕は優しく身体を包み込み、耳元で真摯な声が紡がれる。
「ごめん、真妃。もうひとりにしない。一緒に生きる、なにがあっても」
「約束して」
「あー…おれ、もう約束は……」
言いにくそうにしている蒼軌の首に更にぎゅっと抱きつく。
約束してくれるまで放さない!
そう意志が伝わったのか、しばらくの沈黙のあと、深いため息が聞こえてきた。
ぽんぽん、と背中を叩かれる。
「……わかった。おまえと交わす最後の約束だ。あとはもう聞いてやらねーからな」
だからもう、離れろ。おにーさん、そろそろ限界、と呟く声も聞こえたけれど、約束に頷いてくれたことがただ嬉しくて、彼から距離をとり、じっと見上げる。
「ほんとうに?」
「俺は約束したことは破ったことねーよ」
それは知ってる。だからこそ、蒼軌との約束は大切なものだし、彼はそう容易く約束したりしない。
ほっと胸を撫でおろし、ようやく身体中から力が抜けるのを感じた。ぺたりと地面に座り込んだ真妃に、手が差し伸べられる。
「おまえ、なにへたり込んでんの。こんなところでゆっくりしてられるわけないだろ。ほら、行くぞ」
「――え?」
「え、じゃねぇよ。今言ったばっかりだろ、一緒にがんばる、なんでもするって。ほら、さっさと立て、歩け、前に進めっ!」
気遣いの欠片もない言葉。
(それは……確かにそう言ったけど!)
はっきりいって、真妃の身体も相当ボロボロで、蒼軌と同じように爪は割れ、ところどころ血が流れ、手の甲もいくつも傷がついている。彼を引き上げようとした腕も肩もズキズキと痛んでいて、唯一額や頭に怪我がないのは身を挺して蒼軌が守ってくれたからだが――それでも、体力的に悲鳴をあげてるのに。
けれど、彼が言うとおりこの場所にいたってどうしようもない。今は一刻も早く真国までたどり着かないといけない。
一息ついて、真妃は差し出された蒼軌の手に手のひらを重ねた。
全身に力を入れて立ち上がる前に、ぐっと彼の力によって立ち上がらされる。驚く間もなく、そのまま手のひらに白い布が巻きつけられた。
「応急措置だが、師匠からもらった傷薬に浸した布だから巻いとけ。ゆっくり休憩できるところまで行けたら、治療しようぜ」
(いつのまに……!)
そのまま顔を見ることなく、蒼軌は背中を向けて歩き出す。それに気づいて、慌てて追いかける。
「待って、蒼軌のは? 蒼軌も怪我を!」
「あのなぁ、俺はこんなの日常茶飯事で、薬が必要なやわな体してねぇの。こんなんで使ってたら、師匠にお仕置きされっちまうからなぁ」
普段の余裕が垣間見える口調に、懐かしさが胸を過る。
――まだ、失っていない。守れるかもしれない。
わきあがってくる熱い想いに、真妃は心の中で誓う。
(清君、わたし――助けるから! 真国に戻って、必ず!)
じくじくとした痛みを感じながらも、手のひらを握りしめて、先を行く蒼軌のもとに急いだ。