06.宴と兄と開錠の魔法②
<エリックサイド>
黒煙の結界はゆっくりと、しかし確実にエリックの視界を奪っていった。
「……ほとんど何も見えないな。感覚だけで屋敷まで行けるか……」
顎に手を当てて考えながらも、脚は自然と前へ出ていた。だが数歩進んで、もう一人の存在を思い出す。
振り返ると、アーシャが黒煙を指先で潰したり、鼻先で匂いを確かめたりしていた。奇妙な仕草に眉をひそめつつも、声をかけずにはいられなかった。
「アーシャ、ひとまず俺のそばに来い。何が起こるかわからん」
「結界魔法だけなら問題ないよ。攻撃を仕掛ける様子もないし、術者はまだ私たちを認識していないはず。……範囲はどのくらいだと思う?」
あまりに冷静な声音に、エリックは言葉を失った。
「ノンマギアにしては魔法の分析がやけに的確だな。本当にノンマギアなのか」
「言ったでしょ。魔法とは“縁”があるって。……で、範囲は?」
「結界は大抵、円形に展開される。俺たちとセリナを分断したなら……屋敷を中心に湖のほとりまで、そこまでだろう」
「なるほど。エリックは魔法に詳しいんだね」
「昔は何も知らなかったさ。だが領主として父の跡を継ぐ以上、社会に出れば必要な知識になる」
アーシャが小さく頷く。
「セリナは徹底的にノンマギアだったから、エリックもそうだと思った」
その言葉に、エリックは一瞬だけ口をつぐみ、黒煙の奥を見やった。
「……あの子は本当に特別だった」
「そうだろうね」
二人は屋敷の方向へ雑木林を抜けていく。視界に制限があれば、ただの雑草すら踏み越えるのに苦労した。
やがて木々の切れ間に出る。黒煙は雑木林だけを覆い、屋敷の周りは月明かりに照らされて静まり返っていた。
「……この様子だと、中の者たちは異変に気づいていないかもしれん。狙いは屋敷……父さんか」
エリックが低く分析する。だが立ち止まっている暇はなかった。
「屋敷に何があるの?」
アーシャの声は鋭く、ためらいがなかった。結界が屋敷を中心に展開されている以上、理由を探るのは当然だ。
エリックは口を閉ざし、しばし夜空を仰ぐ。答えるべきかどうか迷う沈黙が落ちる。
「……心当たりはある。しかし、部外者が知るはずのないものだ」
アーシャの目が細められる。
「もしかして……魔法の原本?」
エリックは一瞬だけ視線をそらし、答えを濁すように肩をすくめた。
「どうだろうな。とにかく屋敷に入る。アーシャ、お前はどこかで隠れていろ。巻き込みたくはない」
そう言いかけて、弓を構えるアーシャと目が合う。彼女の瞳は、既に戦う者のものだった。
「相手が魔法使いなら、隠れても無駄。……それに私は、見過ごせないんだ」
短く息を吐き、弓を握る手に力を込める。
「私には、使命がある」
決意の火の灯った瞳に、エリックは圧倒された。
「そうか。よくわからないが……セリナの話からすると、アーシャはこの結界を無効化できるのか?」
「魔法の正体さえわかればね。そのためには術者に会わないと」
「どうやら目的は同じらしい。なら裏口から屋敷に入って武器庫のカギを回収する。俺が丸腰なのと、アーシャの矢を補充する。いいな?」
「それでいこう」
アーシャが矢筒を覗くと、残りは三本しかなかった。
「相手が三人以上だとちょっと厄介だね。……まあ、四人目はエリックに任せるよ」
「気軽に言ってくれるな。だが、その自信は嫌いじゃない」
屋敷の壁に背を預け、エリックは窓越しに中をうかがった。沈黙が支配しており、普段と変わらぬ静けさすら漂っている。
勝手口のドアノブをゆっくり回す。だが――動かない。
「……鍵が、かかっている」
「当たり前じゃないの?」
「俺が外に出たのはこの勝手口だ。閉めて出た覚えはない。……誰かが後から施錠した?」
「それか術者が出入りに使ったか、だね。田舎屋敷にしちゃ用心深い」
エリックは苦い顔をした。
「平和ボケしていたな。仕方ない……No.38《アウフシュリーセン》」
ドアノブに触れ、低く呟く。微かな青光が鍵穴を走り、一瞬甲高い音が鳴り響く。
二人同時に息を呑む――が、すぐに「カチャ」と解錠の音。
「……ふう。成功だ」
エリックが額の汗を拭った。
「へえ。開錠の魔法……ノンマギアじゃなかったんだ」
アーシャが皮肉っぽく笑う。
「必要なんだよ、外の世界じゃな」
「なるほど。セリナの家族はみんな秘密主義ってことね」
ドアを開け、恐る恐る中を覗くと静まり返ったまま。誰かが騒いでいる様子もない。
エリックが無言で合図すると、アーシャが外を確認しながら扉を閉めた。
「しかし……魔法というのは、つくづく便利だな。登場以来、人類のほとんどがアルテミアに移行したのも納得だ。鍵まで開けられるとは」
「よく鍵をなくす人だったからね」
「……なんの話だ?」
「なんでもない。それより、武器庫はどこ? 開錠の魔法があるなら鍵の回収フェーズを飛ばして武器の補充を優先しよう」
アーシャが目を細めて水を向けると、エリックは廊下の先を見据えた。
「武器庫はこの先だ。……魔法が使えるとわかるや否や、その気になるか。いや、俺でも同じだな」
エリックを先頭に警戒を強めながら、二人は武器庫の前へとたどり着いた。
「No.38《アウフシュリューセン》」
呟くと同時に、軽い音を立てて錠が外れる。アーシャは素早く矢筒に矢を補充し、エリックは迷いなく片手剣を腰へ差した。
「……屋敷が静かすぎる」
アーシャがぽつりとつぶやいたのを、エリックが拾う。
「誰も異変に気付いていないか、または——」
「もう手遅れなのか」
冷え切った現実を口にするアーシャの瞳に、エリックは不思議と頼もしさすら感じた。
「とにかく先を急ごう。父の寝室にこのまま向かう」
「その方がいいね。術者の目的はわからないけど、“最悪の事態”は防がないと」
静寂に押しつぶされるように、二人は暗い廊下を踏み出した。