11.アーシャと魔女と黒炎の魔法①
雨上がりのぬかるんだ地面に、点々と続く足跡を小さな影が追う。
二度の打ち損じで矢は残りわずか。弓を握る手に力が入る。
「はぁ、はぁ」と荒い息が白く濁り、体温の上昇を感じた。
木陰から獲物を覗き込み、慎重に狙いを定める。
警戒して動きを止めている、絶好のチャンス。
低い姿勢から弓を構え、矢を放つ——
しかし矢は獲物の数センチ横、大木の幹に突き刺さった。
「えぇ!? 外した!?」
慌てて木陰から飛び出すと、獲物は驚いてぬかるんだ地面を滑り降りる。
その瞬間、短い悲鳴が響いた。
昨晩仕掛けておいた罠が、鉄のはさみで確実に獲物の足を捕らえていたのだ。
「……さ、作戦通りだし。最初からここに追い込むつもりだったんだから……」
誰に言うでもなく小さく呟き、少女は獲物の血を流し、皮を剥ぐ手を止めない。
淡々と作業を進める少女は、ふと“約束”を思い出した。
「今日、荷物の日だ」
慌ててぬかるんだ道を小走りで進み、森の入口へ向かう。
そこには黒衣の女性が小石に腰かけていた。
腰まで伸びた長い黒髪が風に揺れている。
女性は少女の姿を捉えると、優しく声をかけた。
「アーシャ」
「リーヴェル、遅くなってごめん」
森の少女——アーシャが返事をすると、リーヴェルは袋を差し出す。
「今月の荷物よ。小麦が入っているから重いけど、大丈夫?」
「うん。持てる」
二人のやり取りはいつも最小限だった。
しかしリーヴェルは、ふと口を開く。
「アルテマは元気にしているの?」
その意外な問いに、アーシャは少し目を伏せ、静かに答えた。
「最近は、ちょっと調子が悪いよ」
「……そう」
アーシャの中で、確信に近い感覚が生まれる。
「リーヴェルは、もしかしてアルテマを知っているの?」
リーヴェルは微笑み、どこか遠くを見つめるように言った。
「昔ね。貴女と同じように、一緒に住んでいたのよ」
「やっぱり……そうなんだ」
短いやり取りだったが、アーシャの胸にはじんわりとした温かさが広がっていく。間接的にでも、家族が増えたような、不思議な感覚だった。
「そろそろ行くね」
アーシャが荷物を両手で抱え上げると、リーヴェルは小さく手を振って見送った。
*
森の奥には、巨木がそびえていた。樹齢の推定も困難なほどの古木で、幹には苔がびっしりと張り付き、太く張り巡らされた根は、かつて存在した民家を丸ごと飲み込んでいる。その異様な光景は、自然の力が長い年月をかけて人の営みを覆い隠してしまったことを示していた。
その根元に埋め込まれた入口の前で、アーシャは足を止めた。森の静寂に耳を澄まし、やがて片手で木製のドアを押し開ける。
ギィ、と軋む音が、湿った空気の中で長く尾を引き、やがて森に溶けていった。中に踏み込むと、乾いた薬草の香りが鼻をくすぐり、外のざわめきとは無縁の静けさが広がっていた。
奥に置かれたベッド。その上に横たわる老婆の傍へ歩み寄り、アーシャは声をかける。
「戻ったよ。起きてる? ——アルテマ」
呼びかけに応じて、老婆は細く目を開けた。痩せた身体がゆっくりと動き、軋むような動作で上体を起こし始める。アーシャが腰に手を添えて支えると、ようやくアルテマは背を丸めながらも腰掛けることができた。
「今日は早かったのね」
「リーヴェルが来る日だったから」
「そう……あの子が」
弱々しい声に、アーシャは肌掛けをそっとかけ直した。老婆の痩せた肩が小さく震えるのを見て、余計な言葉を挟むことなく、持ち帰った物資を静かに片付け始める。
ふと視線を動かすと、食卓の上には手つかずの朝食が残っていた。皿の上のパンは乾き始め、湯気を失ったスープは冷たく沈黙している。
「朝ごはん、食べなかったんだ」
「そうね。今日は少し……辛くて」
「食べないと、死んじゃうよ」
何気ない指摘。しかし、その一言にアルテマは口を閉ざし、短い沈黙ののち、静かに言葉を紡いだ。
「……アーシャ。来月で十四歳ね。約束は覚えている?」
アーシャとアルテマの約束。それは、ここで暮らし始めたときに交わした最初の約束。
「十四歳になったら、森から出ていく。だよね」
「そう。そして——二度と森に戻らないこと」
冷えた空気が一層重く感じられる。アーシャは視線を落とし、迷いを隠せぬ声で返す。
「こんな状態のアルテマを置いていけないよ。やっぱり、私——」
言いかけた瞬間、アルテマが強い口調で遮った。
「ダメよ。それは約束でしょう?」
「そうかもしれないけど……私がいなくなったら、どうやって暮らすの」
「私の生活なんて、どうにでもなるわ。あなたが来る前は、一人で暮らしていたのだから」
その言葉にアーシャは唇を噛んだ。安心させるための方便だとわかっていても、胸の奥に重苦しい不安が広がる。
「リーヴェルは、アルテマと一緒に暮らしてたんでしょ?」
「あの子が話したのね……。ええ。昔のことよ。あの子も、あなたと同じように巣立っていった」
「でも、リーヴェルは森の入口までは来てる」
「それは間違いないわ。でもね——私は、あの子が出ていってから、一度も会ってはいないの。あの子は優しいから、今でも心配してくれるのね。アーシャ。あなたは違う。もっと自由に生きるべきなの」
「自由……わからないよ」
老婆の瞳に映るのは、かつての自分の姿か、それとも未来を託す弟子の影か。アーシャは答えを見出せないまま、ただその言葉を胸に沈めるしかなかった。
彼女がアルテマと過ごせる時間は、残りわずかに迫っていた。
*
三週間が過ぎた。
その間もアルテマの衰えは目に見えて進み、頬はこけ、声には張りがなくなっていった。
その夜もまた、アーシャは粗末な食材を刻み、鍋の火を見守っていた。ぱちりと小さく薪が爆ぜ、湯気とともに香草の匂いが部屋に広がる。ようやく下ごしらえが一段落したところで、背後から呼びかけられた。
「アーシャ。話があるの」
突然の声音に、アーシャは手を止めた。まな板の上には切り揃えられた根菜が残っている。振り返ると、ベッドに凭れたアルテマが、いつになく真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
「どうしたの?」
問いかけに、老婆はゆっくりと息を吐き、言葉を選ぶように告げる。
「……ずっと悩んでいたわ。あなたの自由にしたいと思う反面、あなたを縛ってしまうことに心を痛めることになる」
「なんの話をしているの」
唐突すぎる言葉に、アーシャの理解は追いつかない。眉を寄せる少女を見て、アルテマは「順を追って話すわね」と前置きし、やがて静かに続けた。
「アーシャ。この世界には魔法が存在するの」
アーシャは思わず唇を歪めた。
「……ついにボケた?」
冗談めかして返すも、その声にはかすかな怯えが混じっていた。
「違うの。——No.6《フリーゲン》」
アルテマが口にした途端、床に落ちていた枝がふわりと浮き上がった。
「——!?」
枝が重力を無視して宙を舞う光景に、アーシャの目が見開かれる。これまで本の中にしかないと思っていた「魔法」が、今この目の前で現実となっていたからだ。
「私は魔法の研究をしてきたの。かつてこの世界には本当に魔法が存在していた。でも、なぜか歴史からは消えてしまったの」
アルテマの声は、悔恨を含みながらも揺るぎがない。
「魔法が、存在していた?」
「ええ。私はずっと信じていたの。魔法は人間の生活を豊かにするものだと。だからわずかに残された文献を頼りに研究を続け、八十年前……ついに魔法をこの世界に復活させることに成功したの」
「アルテマが、魔法をこの世界に復活させたの」
「”復活の魔女”なんて呼ばれたわ。私は《魔導書》という形で魔法を残し、人々の手に渡らせた。最初は嬉しかったのよ。これでみんなが不安や苦労から解放されると信じていたから」
「でも……ちがった?」
アーシャの問いに、アルテマは目を閉じて首を振る。
「そうね。気づくまでに数十年もかかってしまった。私が生涯をかけて復活させた魔法は三百三十三。人や国の要望に応えて次々と復活させたその魔法が、私に富と権力をもたらした。……きっと麻痺していたのね。ほとんどの魔法は、地方領主や国家の権力の象徴へと堕していった」
「ひどい……。アルテマは、みんなのために魔法を復活させたのに」
「本当にひどいのは、私のほうよ」
老婆の声は震えていた。
「気づいたときには、すでに遅かった。私の生み出した魔法で——国がひとつ滅んだのだから」