10.後悔と決意と回収の魔女
数分前、アーシャが見たものは——
静まり返った領主邸を、アーシャは弓を構え、慎重に歩を進めた。
中庭の戦いはエリックに任せ、自分は使命を果たす。それが、唯一の友のためでもある。
長い廊下を抜けた先、ある部屋の前で足が止まった。
……微かな物音。耳を澄ませば、何かを引きずるような音が近づいてくる。
この屋敷の者ではない。今動けるのは、侵入者——あるいは術者。
アーシャは息を殺し、弓を引き絞る。
そっと扉を押し開け、間髪入れずに矢を放った。
暗がりに浮かび上がる、人影。
その輪郭を目にした瞬間、アーシャは悟った。
——寝室で見たものは陽動。敵の真の目的は、ここだ。
「……エレナ。もうすぐだよ」
その呟きを合図にしたかのように、闇からローブのシルエットが浮かび上がる。
袖口から垂れた鎖が、蛇のようにアーシャへと走った。
反射だけが先に動いた。身をひねり、かろうじて鎖を避ける。
すでに指は次の矢を弦に掛け、無意識に放っていた。
矢がフードを裂き、わずかに顔が露わになり、アーシャの目が見開かれた。
——あの時の男。煙の魔法を操っていた……!
思考が追いつくよりも早く、腹部に衝撃が走る。 「ッ……!」
鋭い痛みが鳩尾を突き抜け、視界が白く弾けた。
男の蹴りが彼女の身体を吹き飛ばし、硬い廊下に叩きつけた。
肺が空気を失い、息が詰まる。
力なく手が震え、弓が床を滑っていった。
飛びそうになる意識を必死につなぎ止める。
ゆらりと歩み寄る男の手には、一冊の本が抱えられていた。
「……やっぱり……魔法の《原本》か」
予想していたとはいえ、目の前で確認した瞬間、喉の奥が冷たくなった。
ノンマギア信仰の奥底に隠された原本——。
そんなものが存在すれば、世界の均衡を簡単に壊しかねない。
魔法を恐れ、拒絶した果てに生まれる狂信。
その裏にある「恐怖」の影を、アーシャは感じ取っていた。
「……エレナは、どこにいる?」
「死んだって」
「エレナは——生きてるッ!!!」
喉が裂けるほどの叫びとともに、男の蹴りが容赦なくアーシャの身体を突き飛ばし、背中から窓を突き破って外へ叩き出す。
ガラス片が夜空に散り、空気が凍りついたように止まった。
しかし——この時、男は気づくべきだった。
目の前の少女こそ、かつて自分の魔法を“回収”という前代未聞の方法で無効化した、その当人であることに。
* * *
「お前……お前は……あの時の!」
狼狽の色を浮かべる男に、アーシャは静かに立ち上がる。
左手に浮かび上がる白光の魔導書。そのページが勝手にめくれ、空気が低く唸りを上げた。
「……もう遅い。影武者の魔法は、もう回収した。次は——屋敷にかけられた魔法を回収する」
男の思考は一瞬、空白に沈んだ。
あれ以来、煙の魔法はなぜか使えなくなっていた。もし《フェイクルペラー》も同様に無効化されたのならば、もう二度と扱うことはできないだろう。
——退避。
結論に至ると、思考の切り替えは早かった。
習得済みの魔法の中から、生き延びるための手段を即座に選び取る。
黒雲の魔法。
屋敷を覆う結界を一度解き、自身を中心に再展開。
その隙に逃走する——それしかなかった。
「No.189《シュバルツ・ヴォルク》!」
叫ぶやいなや、濃い黒雲が周囲を満たしていく。
だが。
「No.189《シュバルツ・ヴォルク》——リュックルーフ」
アーシャの声が重なった瞬間、黒雲は白光に飲まれ、霧散し、魔導書の中へと吸い込まれていった。
「……な、なんなんだ。お前は……!」
「今のが屋敷にかけられていた魔法? ——その《原本》はどうするつもり?」
淡々としたアーシャの声に、男の背筋を冷たいものが走った。
思考が空回りする。魔法は発動すれば即座に無効化される。
これでは——詰み、なのか?
諦めの影が心をかすめた、その時。
首筋にぶら下げていた小さな角笛へ、反射的に手が伸びた。
肺の限りを込めて吹き鳴らす。
ピ――――――ッ。
甲高い音が闇を裂き、耳をつんざく。
突然の衝撃に、セリナも、エリックも反射的に耳を塞いだ。
その隙を逃さず、月明かりを遮る巨大な影が翼を広げる。
——怪鳥。
鉤爪のような趾が男の身体を掴み上げ、そのまま夜空へと連れ去った。
「待て! 屋敷にかけた魔法を教えろ!」
アーシャが中庭を駆けるも、耳を裂く羽音は遠ざかっていくばかりだった。
男は胸中でほっと息をついた。
得体の知れない少女にここまで恐怖したのは、いったい何十年ぶりだろう。
怪鳥の足をよじ登り、その背に乗ると御者と目が合う。
「お得意さん、初回サービスでお安くしておきますんで」
軽口と同時に、怪鳥が大きく揺れた。
「……っ、なんだ? いまの衝撃は」
顔を上げた男の視界に、月を背にして箒に跨る影が浮かび上がる。
黒髪が夜風を裂き、しなやかな軌道で迫る。
「魔法使い……!」
直感が告げた。あれはただの魔法使いではない。
伝説に語られる“復活の魔女”——アルテマ。しかし、今彼の眼前にいるのは、リーヴェルという名の生きた現実だった。
「私から逃げ切れると思って?」
リーヴェルの声が夜空に響く。
男は即座に袖から鎖を垂らした。
相手があの少女でないのなら、まだ勝ち筋はある。
「——No.299《エアシュタルレン》!」
雲が凝固し、氷の刃となって振り注ぐ。
「やるわね——No.202《フェーゲフォイヤー》」
リーヴェルの詠唱とともに灼熱の煉獄が広がり、炎が一瞬で空気を爆ぜさせ、氷の雲を蒸発させる。
「……雲を蒸発させた、だと?」
男は目を剥き、息を詰める。
「そういう知識も、魔法使いには必要なのよ。師が——教えてくれたわ」
その言葉に、男の胸に戦慄が走った。
「まさか……師とは……」
「《マギア・ヘプタ》が一人、リーヴェルよ。以後よろしくね」
対峙する相手は、復活の魔女《直系七人の弟子——マギア・ヘプタ》。
男の冷静さはさらに欠けていく。
――クッソがああああ!
男は懐から煙玉を取り出すと、持っていたすべてを放り投げた。
御者の男の胸倉を掴み、煙に乗じて怪鳥を急上昇させる。
一瞬の出来事で、リーヴェルも反応が遅れた。
気が付いた時には、怪鳥は雲の遥か上空へと上昇していた。
「魔法使いの割には、原始的な方法で逃げたわね……」
中庭では、アーシャが膝をつき、胸を上下させながら息を整えていた。
砕けた窓ガラスが淡い月光にきらめき、空気は戦闘の熱気と静寂に包まれていた。
「屋敷の魔法が解除されていない……失敗した」
「アーシャ……」
セリナが優しく背中をさすり、落ち着かせる。
「やはり、屋敷の中はまるで時間が止まったような……」
エリックが屋敷から出てくる。
両親の様子を確認していたが、状況は硬直していることが分かった。
「私のせいだ。連続の回収は、警戒を強めるリスクがあったのに」
「アーシャ、一人で後悔するな。さっきの魔法はなんなんだ? 君はノンマギアじゃなかったのか」
エリックが腕を組んでアーシャを見下ろすが、その視線は彼女を警戒もしていた。
「私は魔法使いじゃない」
一呼吸おいて、彼女は小さく付け加えた。
「でも、魔法を”回収”することはできる。回収の魔女だから」
「回収の魔女……? わからない。順を追って話してくれないか」
「私の仕事は世界から魔法を消し去ること」
「消し去るって。この魔法文化の根付いた世界で?」
「もう10個以上、世界から消したよ」
「そんな常識を逸脱したこと……ありえるのか」
アーシャの眼が夜空を見据える。
「頼まれたんだ。”復活の魔女”アルテマに」