01.セリナと幻影と煙の魔法
魔女の所業は神か、悪魔か——
「また1つ、世界から魔法を消した」
少女はそう言うと、何のためらいもなく踵を返し、重い扉に手をかけた。
セリナは一瞬、何が起きたのかわからなかった。
だがすぐに、これは脱出のチャンスだと気づき、慌てて声を上げた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさいよ! さっき私のこと、認識してたでしょ!?」
セリナの声に、少女は振り返り、じっと見つめ返す。
その瞳は先ほどの鋭さより少しだけ柔らかく、微かに人間らしい温度を帯びていた。
* * * *
暗く湿った空気が肌にまとわりつく。
ツンと鼻をつく、古びたカビの臭いが鼻腔を満たしていた。
まぶたを開けると、少女は石造りの冷たい床の上に座らされていた。
背後で手足を縛られ、身動きが取れない。状況は一瞬で理解できた。
目の前には、片眼鏡をかけ、黒いローブを羽織ったクセ毛の男が立っていてこちらを見つめている。
だが、見覚えはない顔だった。
その姿は絵本やうわさに出てくる『魔法使い』そのものだ。
手にしたワイングラスには、淡い黄色の液体が揺れている。
「大丈夫だ……エレナ。怖かったね。パパがついているよ」
男の視線は定まらず、グラスを持つ手がわずかに震えている。
液体を一息で飲み干すと、口元から一筋こぼれ落ち、床に淡い染みを作った。
そのしぐさに、少女は生理的な嫌悪感を覚える。
呼ばれた名前は、彼女のものではない。
少女の名は――セリナ。近隣領主の娘にして、渦中の人物。
大きなリボンに、フリルとギャザーがたっぷりのワンピース。
それがセリナの『本当の姿』だった。
子供の頃から憧れていたドールのような服。
普段は使用人が選んだ地味な服ばかりで、社交会のフリフリだけが自由だった。
十六年間、不自由のない暮らしを送ってきたが、家に縛られる未来は耐えられない。
二日前、家族の制止を振り切り飛び出した――あの瞬間までは。
薄暗い林道を歩いていた時、不意に背後から布のようなものを頭に被せられ、意識が途切れた。
そして今、目の前にいるこの男。誘拐されたのは明らかだが、理由は分からない。
手がかりは、先ほど呼ばれた女性の名――『エレナ』。
人違いなのか、それとも、この男は現実ではない幻想の中で生きているのか。
まず優先すべきは状況の観察と、情報を得ること。ここで取り乱しては相手の思うつぼだ。
「あんたね、私を誰だと思ってるの? こんなことをして、ただで済むと思ってるのかしら」
挑発するように、わざと高めの声で放った言葉。しかし、男の表情は揺るがなかった。
「エレナ……悪いのはパパだ。落ち着いて、学校へ行こう」
学校――一般教養を学ぶ場。だが、貴族には縁のない場所だ。
家庭教師が当たり前の世界で、集団施設など考えられない。
だんだん、この男がセリナを娘に重ねていることがわかってきた。
だが、その娘は……少なくとも、もうそばにはいないはずだ。
その時、男の手が首筋に触れた。
冷たく、いやらしい感触に背筋が凍る。体が自然に震え、必死に抵抗した。
「私はセリナよ! 人違いしてるってば」
「まだ怒っているんだな、エレナ」
話の通じない相手なら、強硬手段もやむなし――そう覚悟を決めつつ、視線の端に立てかけられた愛用のレイピアを捉える。
腕の拘束さえ解ければ、形勢は逆転する。
剣術の家庭教師から『筋がいい』と太鼓判をもらった自信も、今こそ役に立つはずだ。
冷静に周囲を見回すが、この部屋は不自然なほど整然としており、鋭利な物は1つも見当たらない。
男の背後には、出入口らしい鉄製の扉が一枚。
虚勢を張って時間を稼ぐべきか。家を飛び出したばかりの身では、誰も自分を探してはいないだろう。
結局、この男をどうにかできるのは、当事者である自分しかいない――そう覚悟を固めかけた、その時だった。
ドンと石造りの壁がわずかに震えるほどの爆発音。外から火薬の焦げた臭いが流れ込んできた。
「な、なんだ……!? エレナ、隠れていなさい。またパパが、パパがついているから、大丈夫だ」
男が慌てて振り返る。軽い足音が、一定のリズムで近づいてくる。どうやら扉の向こうは階段らしい。
やがて、鈍い音を立てて鉄の扉が押し開かれた――。
「ここに、魔法使いがいると聞いて来たけど……」
仰天。扉の向こうから現れたのは、セリナと同じ年頃の少し小柄な少女だった。
ショートカットに整えた栗毛が活発な印象を与える一方、その瞳は獲物を狙うオオカミのように鋭く、まっすぐ男を射抜いている。
「おまえは……何者だ。ここは結界を張っていたはず……エレナは、エレナは誰にも渡さない」
「結界? ああ、あの煙のこと。吹き飛ばしたよ。街の人に聞いたけど、エレナちゃんはもう死んだんでしょ」
「何を言っている? エレナは生きている! ここにいる!」
「その子はエレナちゃんじゃないよ」
「違う! 違う! おまえは何なんだ! エレナは俺が守る! 二度と奪わせない」
叫びざま、男は腰の小さな杖を目の前の少女へ突きつけた。
「No.72《ナーベル》!」
その言葉と同時に、杖の先から黒煙が立ち上り、みるみる室内を覆っていく。
咄嗟にセリナは上体を低くし、床に伏せた。視界が暗く、鼻腔を刺す焦げた臭い。
「ふぅん。これが……煙の魔法。100番以下なんだ」
だが、少女の声は揺らがない。
「上の煙でだいたいわかっていたけど。ねえ、粉塵爆発って知ってる?」
小柄な少女は腰元のポーチから火打ち石を手に取ると、不敵な笑みを浮かべて壁に擦り、鮮やかな火花を散らす。
そして即座に鉄扉の影へと身を隠した。
この黒煙――魔法で作り出した極細の可燃性のちりだった。
次の瞬間、火花が空気を裂く。
爆炎が室内を飲み込み、一気に熱気とススの匂いが押し寄せる。
セリナは身を丸め、床に縮こまった。
爆発の威力は抑えられていたが、中心にいた男の意識を奪うには十分すぎた。
重い扉が再び擦れる音を響かせて開き、小柄な少女が顔をのぞかせる。
男が意識を失い床に倒れているのを確認すると、背負った小さなリュックから一冊の古びた本を取り出し、左手で開く。
同時に、少女の身体を黒いとんがり帽子とマントが覆い、右手には大きな杖が現れた。
「条件はそろってるね……No.72《ナーベル》――リュックルーフ」
言葉と同時に、手元の本が柔らかな光を放った。
空間に漂う黒煙は、本のページに吸い込まれるように消えていく。
魔法で生み出された煙は、ほんの一瞬で跡形もなく消え去った。
本を閉じると、身にまとっていた黒衣と杖も同時に消え、少女は軽装に戻る。
「また1つ、世界から魔法を消した」
少女はそう言うと、何のためらいもなく踵を返し、重い扉に手をかけた。
セリナは一瞬、何が起きたのかわからなかった。
だがすぐに、これは脱出のチャンスだと気づき、慌てて声を上げた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさいよ! さっき私のこと、認識してたでしょ!?」
セリナの声に、少女は振り返り、じっと見つめ返す。
その瞳は先ほどの鋭さより少しだけ柔らかく、微かに人間らしい温度を帯びていた。
「別に、見えているけど」
「見えてるなら助けなさいよ! どう見ても縛られてるでしょうが!」
「えー……めんどくさい」
「あんた、人の子か!? このまま出て行ったら後が怖いわよ」
少女は小さくため息をつくと、面倒くさそうにセリナに近づき、リュックからナイフを取り出した。
手際よく腕の拘束具を切断するとすぐに立ち上がり淡々と話す。
「足は自分で解いてね。それじゃ」
「なんて中途半端な……あんた、魔法使いなの? さっきの魔法はいったい」
「私は魔法使いじゃない。——回収の魔女」
その言葉が放たれた瞬間、セリナの背筋に、知らぬ間に緊張が走った。
ただの少女のはずなのに、どこか世界を変える力を秘めている――
そんな存在感が、言葉の端々から滲にじみ出ていた。
【リコール・ウィッチをさらに楽しむための情報】
魔法には1番から333番までの番号が振られている。