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「偽りの聖女め!」と婚約破棄されたので、聖なる力の使い方をまとめて出版したら、ベストセラーになり、聖女の価値が暴落したらしいです。

作者: 四宮 あおい

 ロッシュ伯爵家令嬢、カタリナ・フォン・ロッシュの聖なる力は、実に地味であった。


 王宮の午餐会で、王太子ウォルター・フォン・フリードリヒのために淹れられた紅茶。給仕が運んでくる間に、ほんの少しだけ冷めてしまったそのカップに、カタリナがそっと手をかざす。すると、ふわりと柔らかな光が灯るように立ち上り、紅茶は再び完璧な湯気を立て始めるのだ。熱すぎず、ぬるすぎず、人が最も美味しく感じる温度に、ぴたりと。


「カタリナ、またそのようなことを。まるで子供のままごと遊びではないか」


 目の前で起きたささやかな奇跡にも、婚約者であるウォルターは眉ひとつ動かさない。むしろ、その声には侮蔑の色さえ滲んでいた。輝く金髪に、空を映したような碧眼。神々が寵愛を一身に注いで創り上げたかのような美貌を持つ彼だったが、その内面の浅薄さを隠そうともしない。


「申し訳ありません、ウォルター様。ですが、温かい紅茶は、きっとお疲れを癒してくれますわ」


「我は疲れてなどおらぬ。それよりも、もっと聖女らしいことはできぬのか。例えば、そうだな……」


 ウォルターの視線が、広間の隅に飾られた大輪の百合の花瓶に向けられる。数日前に飾られたそれは、わずかに元気をなくし、花弁の端がしおれ始めていた。


「あの花々を、咲き誇っていた頃のように蘇らせてみせよ。それくらいの奇跡、聖女を名乗るのであれば容易いことであろう?」


 その言葉に、カタリナはこくりと頷いた。彼女は、華美な装飾を好まず、いつも実用的な服装をしていた。きっちりと三つ編みにされた亜麻色の髪が、彼女の真面目な性格を表しているようだった。


 彼女は立ち上がると、花瓶の前に進み、そっと両手で包み込むようにかざした。

 澄んだ翠色の瞳を閉じ、意識を集中させる。彼女の力は、爆発的な光を放ったり、劇的な変化をもたらしたりするものではない。それは、まるで植物に水をやるように、命の根源に優しく語りかけ、本来持っている力を引き出す、慈愛に満ちた力だった。


 カタリナの指先から、陽だまりのような温かい光が溢れ、しおれていた花弁へと浸透していく。すると、くたりとしていた茎がすっくと背を伸ばし、色褪せかけていた花弁は鮮やかな純白を取り戻し、再び甘い香りを放ち始めた。それは、数日分の時間を巻き戻したかのような、穏やかで、しかし確かな奇跡だった。


「……ふん。地味なことだ。結果は同じでも、見栄えというものを考えられんのか」


 しかし、ウォルターは満足するどころか、鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。彼が求めているのは、人々の度肝を抜き、畏怖させ、自らの権威を高めるための、派手な演出なのだ。カタリナの力は、彼の虚栄心を満たすにはあまりにも静かで、ささやかすぎた。


 カタリナは、小さく胸を痛めながらも、何も言い返せなかった。彼女にとって聖なる力とは、研究対象であり、愛すべき神秘であった。なぜ紅茶は温まるのか、なぜ花は元気になるのか。その根源にある法則を解き明かし、体系化することに、彼女は何よりも喜びを感じていた。だが、その情熱を理解してくれる者は、王宮には誰もいなかった。

 澄んだ翠色の瞳が、ほんの少しだけ寂しげに伏せられる。


 そんな二人の間に、鈴を転がすような声が割り込んできた。


「まぁ、王子様! この目映いばかりのオーラ……! 天界の神々でさえ、その輝きには嫉妬なさるに違いありませんわ!」


 声の主は、ミカエラ・フォン・シュタウテ。

 最近、社交界に彗星の如く現れた子爵令嬢だ。赤みがかった豊かなウェーブヘアを揺らし、蠱惑的な紫色の瞳でウォルターを見つめている。自身のグラマラスな体型をこれでもかと強調する、胸元の大きく開いた真紅のドレスは、カタリナの装いとは対極にあった。


 ウォルターは、今までの不機嫌が嘘のように相好を崩した。


「おお、ミカエラか。よく来たな。我の輝きに気づくとは、そなたのその感性はまこと得がたいものよ」


「いいえ、わたくしだけではございませんわ。わたくしの中に宿る聖なる力が、王子様の類まれなるご神性に応えているのです」


 そう言うと、ミカエラはわざとらしく胸に手を当て、うっとりとした表情を浮かべた。そして、彼女は恭しくウォルターに近づくと、彼の指先に触れた。その瞬間、ミカエラの手のひらから眩いばかりの金色の光が迸り、広間全体を明るく照らし出した。


「おおっ!」


「なんと神々しい光だ!」


 周囲の貴族たちから、驚嘆の声が上がる。光は数秒で消えたが、その残像は人々の目に焼き付いた。ウォルターは恍惚とした表情で、自らの手を見つめている。


「素晴らしいぞ、ミカエラ! これこそが真の聖女の力だ! カタリナ、見たか! これがお前のままごと遊びとの違いだ!」


 ウォルターは勝ち誇ったようにカタリナを睨みつける。

 カタリナは、ただ黙ってその光景を見ていた。彼女の知性が、今の現象に疑問を抱いていたからだ。あの光は、聖なる力特有の温かみや生命感が感じられなかった。むしろ、魔術道具を使った際に発生する、瞬間的なエネルギーの放出光に酷似していた。聖なる力とは、本来もっと内側から湧き上がるような、穏やかなものであるはずなのに。


 しかし、誰もその不自然さには気づかない。人々は、分かりやすい奇跡に熱狂し、ミカエラを新たな聖女として崇め奉り始めた。

 ミカエラは計算された妖艶な微笑みを浮かべ、ウォルターの腕に自らの腕を絡める。そして、カタリナにだけ聞こえるように、冷たく囁いた。


「あなたのような地味な方に、王子様のお相手が務まるはずもございませんわ。身の程を知りなさい」


 その言葉は、小さな棘となってカタリナの心に突き刺さった。婚約者である自分を差し置いて、他の令嬢と親密な様子を見せるウォルター。それを咎めるどころか、称賛する周囲の貴族たち。そして、自分の信じる聖なる力をままごとと断じられ、偽りの輝きに人々が熱狂する現実。


 カタリナは、誰にも理解されない孤独の中で、ただ静かに佇んでいた。

 彼女の聖なる力は、誰かの心を温めることはできても、自らの凍てついた心を温める術を知らなかった。

 日に日に、ウォルターの態度は冷酷さを増し、ミカエラの存在感は増していく。

 社交界におけるカタリナの居場所は、まるで陽光に溶ける雪のように、ゆっくりと、しかし確実に失われていった。



 ~~~ 



 その日は、王太子ウォルターの生誕を祝う夜会が催される日だった。王城の薔薇の間は、この日のために招かれた親しい貴族たちで華やいでおり、きらびやかな衣装と宝石の輝きが、シャンデリアの光を反射して煌めいていた。


 カタリナは、主役であるウォルターの婚約者として、彼の隣に立つことになっていた。今日のために仕立てられたドレスは、空色の絹地に銀糸の刺繍が施された、彼女にしては華美なものだった。だが、その美しい衣装も、カタリナの沈んだ心を明るくすることはできない。隣に立つウォルターから向けられるのは、氷のように冷たい視線だけだった。

 彼の腕には、燃えるような赤いドレスをまとったミカエラが、さも当然というように寄り添っている。本来そこにいるべきカタリナを差し置いて、誰もその異常を口にはしなかった。


 和やかな歓談の声が満ちていた広間の空気が、不意に変わった。ウォルターがグラスを軽く鳴らし、皆の注目を集めたのだ。ざわめきが収まり、全ての視線が主役である王太子に注がれる。カタリナは、これから起こるであろうことを予感し、胸が締め付けられるのを感じていた。


「皆、聞いてくれ。この良き日に、皆の前ではっきりとさせておきたいことがある」


 ウォルターは、わざとらしく一度言葉を切り、侮蔑に満ちた瞳でカタリナを見据えた。その瞳の冷たさに、カタリナは息を呑む。


「長年、私の婚約者であったロッシュ伯爵令嬢、カタリナ。彼女が持つとされる聖女の力は、偽りであったことが判明した。よって、今この時をもって、カタリナとの婚約を破棄する!」


 突き刺すような宣言だった。広間は一瞬静まり返り、次の瞬間、囁きと困惑の波が広がった。

 カタリナは、頭が真っ白になり、その場に立ち尽くすことしかできなかった。婚約破棄。その言葉が、耳の中で反響していた。


「な、何を……、ウォルター様、それは、どういう……」


 ようやく絞り出した声は、か細く震えていた。ウォルターは、そんな彼女をあざ笑うかのように、言葉を続けた。


「とぼけるな! お前の力は、紅茶を温めたり、花を元気にしたりするだけの、児戯にも等しいもの! それを聖なる力と偽り、聖女の地位に居座り続けてきた! 民を導き、国を守るべき聖女が、そのような些末な力で務まるものか!」


 彼の言葉に、ミカエラが追従する。彼女はウォルターの腕の中から一歩前に進み出ると、悲劇のヒロインのように眉をひそめ、カタリナを指さした。


「わたくしには、神のお声が聞こえます。神は嘆いておられますわ……、偽りの聖女が、聖なる座を汚していると! この国に真の安寧をもたらすため、今こそ真実を明らかにせねばなりません!」


 ミカエラの言葉は、まるで聖なる託宣のように広間に響き渡り、人々の心を扇動していく。最初は戸惑っていた貴族たちも、王太子と新たな聖女の言葉に、次第にカタリナへ疑惑と非難の目を向け始めた。


「待ってください! わたくしの力は、確かに地味なものかもしれません。ですが、決して偽りでは……!」


 カタリナは必死に弁明しようとした。彼女の聖なる力は、人々の生活に寄り添う、確かな力だ。その原理も、効果も、誰よりも彼女自身が理解している。しかし、その声はウォルターの怒声によって無情に掻き消された。


「黙れ、偽りの聖女め! 見苦しい言い訳は聞きたくもないわ! 真の聖女ミカエラの奇跡を見よ! 彼女こそ、この国を導くべき光なのだ!」


 ウォルターが叫ぶと、ミカエラは待ってましたとばかりに両手を天に掲げた。彼女の体から、再び眩い金色の光が放たれる。以前よりもさらに強く、広間全体が昼間のように明るくなった。人々はその圧倒的な光の奔流に目を奪われ、感嘆の声を漏らす。

 カタリナには、その光が魔術的な触媒によって増幅された、空虚な輝きにしか見えなかったが、群衆にその真偽を見極める冷静さはなかった。


「偽りの聖女を追い出せ!」

「我々を騙していたのか!」

「国賊め!」


 誰かが叫んだのをきっかけに、非難の声は津波のようにカタリナに襲いかかった。嘲笑、罵声、冷たい視線。昨日まで敬意を払っていたはずの人々が、手のひらを返したように彼女を石もて打つ。味方はどこにもいなかった。


 カタリナは、完全に孤立無援だった。澄んだ翠色の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ、頬を伝っていく。だが、その涙に同情する者は誰一人いない。


「カタリナ・フォン・ロッシュ。その罪深き行いを鑑み、貴様には実家ロッシュ領での永久蟄居を命じる! 二度と王都の土を踏むことは許さん! 即刻、この場から立ち去れ!」


 ウォルターの最後通告が、彼女の心を完全に打ち砕いた。衛兵に両腕を掴まれ、引きずられるようにして広間から連れ出される。貴族たちの嘲笑を浴びながら、彼女はみすぼらしい馬車に押し込められた。


 ガタン、と重い音を立てて扉が閉まる。

 馬車がゆっくりと動き出し、遠ざかっていく王城と、熱狂する人々の声を背に、カタリナは膝の上で固く拳を握りしめた。屈辱、悲しみ、絶望。あらゆる感情が渦巻き、彼女の心を闇の底へと引きずり込んでいく。


 なぜ、こんなことに。


 わたくしは、ただ、人々のささやかな幸せを願っていただけなのに。


 聖なる力は、誰かを騙すためのものではないのに。


 馬車の小さな窓から見える景色は、涙で滲んで歪んでいた。これから自分を待つのは、光の射さない、孤独な蟄居生活。未来への希望は全て断たれ、彼女は深い、深い絶望の淵へと沈んでいくのだった。



 ~~~ 



 ロッシュ伯爵領は、王都の喧騒が嘘のように、穏やかで静かな場所だった。

 豊かな森と清らかな川に囲まれたその土地は、華やかさこそないものの、自然の恵みに満ちていた。

 しかし、蟄居を命じられ、失意の底に沈むカタリナにとって、その美しい風景も色褪せて見えた。


 王都を追われてからの数週間、彼女は自室に閉じこもり、抜け殻のように過ごしていた。大好きだった研究書を開く気力も、庭の花に触れる気力も湧かない。

 大衆の前で偽物と罵られ、嘲笑を浴びたあの日の光景が、悪夢のように何度も心を苛む。ウォルターの冷酷な瞳、ミカエラの勝ち誇った笑み、そして、誰も助けてはくれなかったという事実。その全てが、鉛のように重く彼女の心にのしかかっていた。


「カタリナお嬢様、少しでも何か召し上がってください」


 年老いた侍女が心配そうに食事を運んできても、喉を通らなかった。日に日に痩せていくカタリナを、使用人たちは皆、心を痛めて見守ることしかできなかった。このまま、自分は心の光を失い、朽ち果てていくのかもしれない。そんな考えばかりが頭をよぎる。


 そんなある日の午後だった。ぼんやりと窓の外を眺めていると、領民の子供たちが外で遊んでいるのが目に入った。一人の少年が、転んで膝を擦りむいてしまったらしい。わっと泣き出す少年に、年上の少女が駆け寄り、ハンカチで土を払いながら、おぼつかない手つきでハンカチを膝に巻いてやっている。そして、まるで母親の真似事のように、その小さな手を傷口にかざし、「痛いの痛いの、飛んでいけ」と呟いていた。


 その光景を見た瞬間、カタリナの心に、忘れかけていた感情がちくりと蘇った。


 ――誰かの役に立ちたい。


 それは、彼女が聖なる力の研究を始めた、原初の気持ちだった。派手な奇跡でなくてもいい。誰かの痛みを少しでも和らげ、悲しみを喜びに変える手助けがしたい。ただ、それだけだったはずだ。


「わたくしは……、わたくしは、まだ……」


 カタリナは、ふらつく足で立ち上がると、埃をかぶっていた自分の研究机に向かった。机の上には、書きかけの研究ノートが乱雑に置かれている。彼女は、その一冊を震える手で開いた。そこには、聖なる力が人体や植物に与える影響について、緻密な観察と考察が記されていた。


「そうだわ……。わたくしが間違っていたわけじゃない。わたくしの力が、ではない。彼らの理解が、及ばなかっただけ……」


 ならば、教えてあげればいい。


 聖なる力とは、決して一部の特別な人間だけが使える魔法ではないのだと。それは、この世界の法則に則った、誰の心の中にも眠る、ささやかな光なのだと。その使い方を、その理論を、誰にでもわかるように伝えれば、きっと……。


 その瞬間、カタリナの翠色の瞳に、失われていた知性の輝きが力強く宿った。絶望の淵から、彼女の中に眠っていた研究者としての魂が、再び燃え上がったのだ。


 それからのカタリナは、人が変わったように執筆活動に没頭した。彼女がやろうとしていたのは、単なる研究論文の執筆ではなかった。聖なる力の理論と実践方法を、専門知識のない一般の人々でも理解し、実践できるように、一冊の本にまとめ上げることだった。


「聖なる力が物を温める原理は、対象物に含まれる水分子の微細な振動を、力の波動によって増幅させることにあるのですわ。これを効率よく行うためには、手のひらをこう、少し丸めるようにして……」


 彼女は、独り言を呟きながら、滑るようにペンを走らせる。そして、文章だけでは伝わりにくい部分には、自らペンを執り、たくさんの可愛らしいイラストを添えた。紅茶を温める力の使い方には、にこやかに笑うティーカップのイラストを。擦り傷を癒す方法には、絆創膏を貼った指が元気よくポーズをとるイラストを。彼女の真面目で論理的な文章と、温かみのあるイラストは、不思議な調和を生み出していた。


 数ヶ月後、その原稿は分厚い一冊の束となっていた。タイトルは、『聖なる力の理論と実践』我ながら少し堅苦しいかしら、とカタリナは苦笑した。


 そんな折、ロッシュ領に一人の珍しい訪問者が現れた。王立魔術研究所の所長にして、侯爵家の次男、クラウス・フォン・ブルクハルト。

 彼は、この地方で観測された特異な魔力反応の調査のために、領主であるロッシュ伯爵の元を訪れていたのだ。


 クラウスは、少し癖のある黒髪に、全てを見透かすようなシャープな紺碧の瞳を持つ、長身痩躯の男だった。常に黒を基調とした機能的なローブを纏い、その表情は能面のように変わることがない。

 合理性を何よりも重んじる彼は、貴族的な社交辞令や無駄話を極端に嫌った。


 気分転換にと案内された庭園は、美しく手入れされていた。その一角にあるあずまやのテーブルに、一冊のノートとインク瓶が置き忘れられているのをクラウスは見つけた。風がページをめくり、そこに綴られた流麗な文字がのぞく。


「これは?」


 彼は、許可も得ずにその原稿を手に取った。伯爵は、それが蟄居中の娘の気晴らしの産物だと、少し恥ずかしそうに説明した。クラウスは無言でページをめくり始める。


「なるほど、宗教哲学の書か……、いや、違うな」


 彼の目が、あるページでぴたりと止まった。そこには、聖なる力による浄化作用を、化学式にも似た独自の理論式で解説した部分があった。常識では説明のつかない奇跡を、極めて論理的かつ体系的に分析しようと試みている。その発想の斬新さに、クラウスの紺碧の瞳が、かすかに見開かれた。


「非合理的だ。だが、実に独創的だ……」


 ページをめくる手が速くなる。理論の深さ、考察の鋭さ。著者が途方もない観察眼と知性の持ち主であることが、文章の端々から伝わってくる。そして、その高度な理論が展開されるすぐ隣に、ふと現れる、力の抜けた可愛らしいイラスト。シチューの鍋をかき混ぜる妖精、眠っている猫のお腹を優しく撫でる手……。その学術的な内容と、あまりにも不釣り合いなイラストのギャップに、彼の表情筋が、ほんのわずかに、緩んだ。


「興味深い。実に興味深い」


 無表情だったクラウスの目に、少年のような純粋な好奇心の輝きが宿った。


「伯爵、この原稿の著者にお会いしたい」


 クラウスの唐突な申し出に、伯爵は戸惑った。しかし、王立魔術研究所長の言葉を無下にもできず、彼はカタリナの部屋へとクラウスを案内した。


 扉を開けると、カタリナはまさに執筆の真っ最中だった。三つ編みからほつれた髪が頬にかかっているのも気にせず、一心不乱にペンを走らせている。クラウスは、その真摯な横顔と、彼女が紡ぎ出す非凡な理論とを結びつけ、静かな感嘆を覚えていた。


「カタリナ・フォン・ロッシュ嬢、だね。私はクラウス・フォン・ブルクハルト。君の論文、いや、この書物を読ませてもらった」


 クラウスは、感情の乗らない冷静な口調で言った。カタリナは驚いて顔を上げ、彼の持つノートを見て、ほんのりと耳を赤くした。


「これは……、その、わたくしの拙い書き物ですの。お見苦しいものを……」


「拙い? これが? 君は自分の書いたものの価値を理解していないのか」


 クラウスは、ずかずかと彼女の机に歩み寄ると、原稿の一節を指さした。


「ここの記述、聖性エネルギーと魔素の干渉作用についての仮説。これは、これまでの定説を覆しかねない、画期的な視点だ。実に論理的だ」


 彼は、カタリナの聖なる力に関する深い知見を、次々と的確に指摘し、賞賛した。

 誰も理解してくれなかった、ままごと遊びとまで言われた自分の研究が、初めて他者に、それも王国の最高頭脳と称される人物に認められた。

 カタリナの翠色の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。


「素晴らしい。この知識は、埋もれさせてはならない」


 クラウスは断言した。


「カタリナ嬢。この本を、出版してみるのはどうかな? 私が全面的に協力する」


 その言葉は、カタリナにとって、絶望の闇に差し込んだ、一筋の力強い光だった。



 ~~~ 



 クラウスの申し出は、カタリナにとって予想外のものであり、当初は戸惑いの方が大きかった。

 偽りの聖女として王都を追われた自分が本を出版するなんて、とんでもないことだと思った。誰が読んでくれるというのか。むしろ、再び嘲笑の的になるだけではないか。


 そんな彼女の不安を、クラウスは彼らしい合理的な言葉で一蹴した。


「懸念は理解できる。だが、君の研究の価値は、君個人の評判とは切り離して考えるべきだ。これは、人類にとって有益な知識だ。それを世に出すことに、何の躊躇が必要だ?」


 彼の揺るぎない紺碧の瞳に見つめられ、カタリナは反論の言葉を失った。さらにクラウスは、一つの提案をする。


「ただし、タイトルは変更した方が合理的だ。『聖なる力の理論と実践』では、専門家しか手に取らないだろう。ターゲット層を明確にすべきだ」


 クラウスが提示した新しいタイトル案は、『初心者でもわかる! 聖なる力の正しい使い方』という、親しみやすいものだった。

 彼は、カタリナの描いた可愛らしいイラストこそが、この本の最大の強みになると見抜いていたのだ。


 クラウスの後ろ盾は絶大だった。王立魔術研究所の所長として、彼は王都最大の出版社に話を通し、異例の速さで出版の準備が進められた。著者名は「カタリナ」というファーストネームだけが記された。


 出版直後、案の定、神殿関係者や保守的な貴族層からは、冷笑と批判の声が上がった。

「聖なる力を安売りする愚かな本」「偽りの聖女の戯言」

 と、彼らは口を揃えてこき下ろした。

 特に、王太子ウォルターと聖女ミカエラは、この本を「神への冒涜だ」と公然と非難し、不買を呼びかけた。


 しかし、事態は彼らの予想もしない方向へと転がり始める。


 最初に本を手に取ったのは、知的好奇心の強い学者や、魔術師たちだった。

 彼らは、カタリナの構築した理論の独創性と論理性に舌を巻き、その評価を仲間内で広め始めた。やがて、その評判は一般の民衆へと伝わっていく。


 きっかけは、ささいなことだった。


 王都の下町でパン屋を営む女性が、半信半疑で本に書かれた通りに聖なる力を使ってみた。長年使い込んで焦げ付きが取れなくなっていた大鍋に、本のイラストを真似て手をかざし、浄化の力を集中させる。すると、今まで何をしても落ちなかった頑固な焦げ付きが、ぽろりと剥がれ落ちたのだ。


「すごいわ! あの本、本物よ!」


 彼女の体験談は、瞬く間に井戸端会議の話題を独占した。


「うちの亭主の腰痛が、本に書いてあった癒やしの力で楽になったんだ!」

「子供が作った擦り傷が、いつもよりずっと早く治ったわ。血もすぐに止まって」

「しおれかけた野菜が、シャキッとしたのよ! これで無駄にしなくて済むわ」


 次々と報告される成功体験。カタリナの記したささやかな奇跡は、人々の日常生活に密着した、実践的なものばかりだった。

 高価な薬や、神殿への多額のお布施をせずとも、自分たちの手で生活を少しだけ豊かにできる。その事実は、民衆にとって福音以外の何物でもなかった。


 口コミは燎原の火のように広がり、『初心者でもわかる! 聖なる力の正しい使い方』は、当初の冷評を覆して爆発的なベストセラーとなった。

 出版社は増刷に次ぐ増刷で、嬉しい悲鳴を上げる。王都の書店では、入荷するそばから本が売り切れていく。

 いつしか、「一家に一冊、カタリナ」が合言葉のようになっていた。


 この社会現象は、王国の権力構造に静かだが、決定的な変化をもたらした。


 これまで奇跡は、神殿に所属する神官や、聖女と呼ばれる特別な存在が独占するものであり、その権威の源泉だった。人々は病や不幸に見舞われると、神殿に駆け込み、多額の寄進や布施と引き換えに、癒やしや浄化の儀式を執り行ってもらっていた。


 だが、今や人々は自分自身で、あるいは家族や隣人と協力して、日常の小さな問題を解決できるようになったのだ。

 神殿を訪れる人々の数は激減し、それに伴い、神殿の収入も大幅に落ち込んだ。神官たちの尊大な説教に、人々は内心で「そんなこと、本を読めば自分でもできる」と考えるようになっていた。


 最も大きな打撃を受けたのは、他ならぬ聖女ミカエラだった。


 彼女の売りであった、派手な光を放つ奇跡。人々は当初、その神々しさに熱狂したが、カタリナの本が普及するにつれて、冷静な目でそれを見るようになった。


「あの光、確かに綺麗だけど、何か役に立つの?」


「カタリナ様の本によれば、真の聖なる力は生命に直接作用する穏やかなものだそうだ」


「ミカエラ様の奇跡では、鍋の焦げ付きは取れないものねえ」


 民衆の視線は、熱狂から好奇へ、そして冷ややかなものへと変わっていった。

 ミカエラがどんなに派手な光を放ってみせても、以前のように感嘆の声は上がらず、むしろ「またやっている」というような、醒めた空気が流れるだけだった。

 彼女の権威は、メッキが剥がれるように失墜していった。


 価値が暴落したのは、聖女だけではない。聖女の婚約者という立場を利用して権威を高めようとしていたウォルター王子もまた、その当てが外れる形となった。

 彼がいくらミカエラの素晴らしさを喧伝しても、民衆の心は離れていくばかり。むしろ、真の貢献者であるカタリナを追放した張本人として、彼への批判の声が日増しに高まっていた。


 カタリナの書いた一冊の本。それは、聖職者と聖女が独占してきた奇跡の価値を根底から覆し、大暴落させた。神殿とミカエラの権威は地に堕ち、王国の力関係は、静かに、しかし確実に、新たな局面を迎えようとしていた。


 一方、その渦中にいるカタリナ本人は、ロッシュ領で続編の執筆に没頭していた。

 彼女の元には、クラウスを通じて、読者からの感謝の手紙や、新たな質問が山のように届けられていた。その一つ一つに丁寧に目を通し、返事を書くことが、彼女の新たな日課となっていた。

 自分の知識が、誰かの役に立っている。その事実が、彼女の心を何よりも温かく満たしていた。



 ~~~ 



 王宮の空気は、重く淀んでいた。かつては称賛と羨望の眼差しを一身に浴びていたウォルターとミカエラは今、貴族たちの囁き声と、民衆の冷ややかな視線に晒されていた。


『初心者でもわかる! 聖なる力の正しい使い方』の爆発的なヒットは、二人の足元を根こそぎ揺るがしていた。

 ミカエラの奇跡は、今や大道芸以下の扱いだ。彼女が広場でどんなに派手な光を放とうと、人々は遠巻きに眺めるだけで、以前のような熱狂も、ましてや感謝も捧げられることはない。むしろ「そんな無駄なエネルギーがあるなら、広場の噴水の苔でも浄化してくださればいいのに」などと、陰口を叩かれる始末だった。


「どうしてですの!? わたくしの力が、あんな地味な女のままごと以下の扱いだなんて!」


 ミカエラは、自室で高価な花瓶を床に叩きつけて叫んだ。計算された妖艶な微笑みはもはやなく、その顔には焦りと嫉妬が醜く浮かび上がっている。彼女のプライドはズタズタに引き裂かれていた。


 ウォルターもまた、苛立ちを隠せずにいた。

 聖女ミカエラの後援者として権威を高めるという彼の目論見は、完全に崩れ去った。それどころか、有能なカタリナを追放し、見栄えだけのミカエラを寵愛した愚かな王子として、彼の評価は地に落ちていた。忠誠を誓っていたはずの側近たちも、最近ではどこか距離を置き、腫れ物に触るかのような態度を取る。


「くそっ……! あの女、カタリナめ……! 我をここまでコケにするとは!」


 ウォルターは、執務室で拳を机に叩きつけた。

 このままでは、王位継承すら危うくなりかねない。父である国王の視線も、日増しに冷たくなっているのを感じていた。

 何とかして、この状況を覆さなければならない。失われた権威を、民衆の信頼を取り戻す、起死回生の一手が必要だった。


「ウォルター様……」


 涙で目の周りを赤くしたミカエラが、ウォルターの腕に縋り付いた。


「このままでは、わたくしたちは本当に笑い者になってしまいますわ。もっと……、もっとすごい奇跡を見せつければ、あの愚かな民衆も、再びわたくしたちの前にひれ伏すはずです!」


 その言葉は、藁にもすがりたいウォルターにとって、悪魔の囁きのように甘く響いた。


「もっとすごい奇跡……、だと?」


「ええ。カタリナの本に書いてあるような、ちまちまとしたおままごとではない、天変地異すら起こすような、真の神の御業を!」


 ミカエラの瞳に、狂信的な光が宿る。彼女の浅はかな発想は、ウォルターの心を強く捉えた。

 そうだ、それしかない。人々がこれまで見たこともないような、圧倒的なスケールの奇跡を演出し、カタリナの評価など吹き飛ばしてくれる。


「何か手はないのか、ミカエラ。そのような大規模な奇跡を起こす方法が」


「ございますわ……」


 ミカエラは、蠱惑的に微笑んだ。彼女は以前、王家の宝物庫で、古文書の片隅に不気味な記述があるのを見つけていたのだ。


「王家の宝物庫の最奥に、古代の魔道具が眠っていると聞きました。『天候を操り、神の雷を呼ぶ』と伝えられる、伝説の魔道具……『天穹の宝玉』が」


 その名を聞いて、ウォルターは息を呑んだ。それは、王家の歴史の中でも、その強大すぎる力ゆえに、使用を固く禁じられてきた禁断の遺物だった。下手に起動すれば、国を滅ぼしかねない危険な代物だと伝えられている。


「しかし、それはあまりにも危険すぎる……」


 わずかな理性が警告を発したが、ミカエラの甘い声がそれを打ち消した。


「あら、王子様。お忘れですの? わたくしこそが神に選ばれた本物の聖女。そして、あなた様は、神に愛された次代の王。わたくしたち二人が力を合わせれば、どのような禁断の力であろうと、完全に制御できるに決まっておりますわ。これは、わたくしたちに与えられた試練であり、栄光への道なのです」


 その言葉は、ウォルターの虚栄心を巧みにくすぐった。


 ――神に愛された次代の王。


 その響きに、彼は完全に理性を失った。自分ならできる。自分にこそ、この魔道具を操る資格がある。


 その日の深夜、二人は人目を忍んで、王家の宝物庫の最奥へと足を踏み入れた。

 埃をかぶった数多の宝物の間を抜け、厳重に封印された扉の前に立つ。ウォルターが王家の血筋にのみ反応する鍵を使って封印を解くと、重々しい音を立てて石の扉が開かれた。


 その中央に、それは安置されていた。巨大な青い水晶が、鈍い光を放っている。それが『天穹の宝玉』だった。周囲には、その使い方や危険性について記されたであろう、分厚い書物が置かれていた。


「これですわ、ウォルター様!」


 ミカエラは興奮したように声を上げた。

 ウォルターもまた、その禍々しくも美しい輝きに魅入られていた。

 二人は、傍らに置かれた書物を手に取った。しかし、古代語でびっしりと書かれたその内容は、複雑怪奇で、彼らの乏しい知識ではほとんど理解することができなかった。


「ちっ、何が書いてあるのか、さっぱりわからんな」


 ウォルターは、数ページめくっただけで、面倒くさそうに本を放り投げた。


「まぁ、ウォルター様。難しいことはわからなくても大丈夫ですわ。要するに、ここにわたくしの聖なる力と、王子様の王家の魔力を注ぎ込めば、起動するということですのよ」


 ミカエラは、自分たちの都合のいいように、極めて楽観的に解釈した。制御方法や、停止手順、暴走した場合の危険性などが記された重要なページには、目もくれずに。


「よし、やろう。ミカエラ」


 ウォルターは決断した。二人は水晶の両側に立つと、互いに頷き合った。そして、目を閉じ、それぞれの力を『天穹の宝玉』へと注ぎ込み始めた。

 ミカエラは、いつものように見掛け倒しの聖なる力を、ウォルターは王家に伝わる膨大な魔力を。


 すると、水晶は眩い光を放ち始めた。最初は制御できているかのように見えた。青い光は天を目指して伸び、王城の尖塔を突き抜け、王都の上空に美しいオーロラのような光のカーテンを描き出した。


「やった……! やりましたわ、ウォルター様!」


「見たか! これが我々の真の力だ!」


 二人は歓喜の声を上げた。これで民衆も、我々の偉大さを思い知るだろう。そう確信した、その時だった。


 地響きのような不気味な音が、水晶から鳴り響き始めた。光のカーテンは、徐々にその色を美しい青から、禍々しい紫黒色へと変えていく。制御されているはずだったエネルギーが、奔流となって溢れ出し、宝物庫の壁を激しく打ち付け始めた。


「な、なんだこれは!? ミカエラ、止めろ!」


「む、無理ですわ! わたくしの力では、もう……!」


 ミカエラの顔から血の気が引く。

 注ぎ込まれた二人の力は、魔道具を起動させる引き金にはなったが、それを制御するにはあまりにも未熟で、アンバランスだった。暴走した『天穹の宝玉』は、彼らの制御を完全に離れ、邪悪なエネルギーを凄まじい勢いで吸い上げ、増幅し始めた。


 王都の上空に広がっていた光のカーテンは、今や巨大な邪悪な瘴気の渦へと変貌していた。その渦の中心が、まるで裂けた口のように開き、空が不気味な紫色に染まっていく。


 二人の浅はかな計画は、最悪の形で暴走を始めた。

 それは、もはや奇跡の演出などという生易しいものではない。王都そのものを飲み込もうとする、未曾有の厄災の始まりだった。



 ~~~ 



 暴走した古代の魔道具『天穹の宝玉』が生み出した瘴気の渦は、王都の上空を完全に覆い尽くしていた。

 禍々しい紫黒色の渦は、不気味な唸りを上げながらゆっくりと回転し、その中心からは、まるで膿が滴るように、邪悪なエネルギーが地上へと降り注ぎ始めた。日中でも空は闇に閉ざされ、王都は不吉な宵闇に包まれたかのようだった。


「な、なんなんだ、あれは……」


「空が……、空が裂けている……!」


 王都の民衆は、空を見上げて恐怖に慄いた。美しい都の光景は一変し、終末を思わせる光景が広がっていた。そして、人々の絶望をさらに深いものにする出来事が起こる。


 瘴気の渦から、黒い影が次々と地上へと降下し始めたのだ。それは、この世ならざるもの――、魔物であった。鋭い鉤爪を持つガーゴイルが、建物の屋根に次々と降り立ち、不気味な咆哮を上げる。粘液質の体を持つスライムが、地面を汚しながら這い回り、知能の低いゴブリンの群れが、棍棒を振り回して街路を走り始めた。


 平和な王都は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。悲鳴、怒号、建物の崩れる音。騎士団がすぐに出動したが、突如として現れた無数の魔物を前に、防戦一方を強いられる。魔物は瘴気の中から、尽きることなく湧き出てくるのだ。


 この惨状を引き起こした張本人であるウォルターとミカエラは、王城の一室で、窓の外に広がる地獄絵図を前に、ただ震えていることしかできなかった。


「ひぃ……! な、なんで、こんなことに……」


 ミカエラは腰を抜かし、床にへたり込んでいた。彼女の顔は恐怖で真っ白になり、いつもは計算され尽くしたその瞳は、焦点が合わずに虚空を彷徨っている。


「我のせいではない……! 我は、ただ、少し力を示そうとしただけで……! そうだ、あの魔道具が悪いのだ! 我は悪くない!」


 ウォルターは、現実から逃避するように、責任転嫁の言葉をぶつぶつと呟いていた。

 国を守るべき王太子も、神に選ばれたはずの聖女も、自らが引き起こした未曾有の危機を前に、何の役にも立たない無力な存在でしかなかった。彼らの権威は、暴走する魔力の前では塵芥にも等しかった。


 この王都の危機を知らせる一報は、早馬によって、ロッシュ伯爵領にも届けられた。知らせをもたらした使者は、恐怖で顔を引きつらせながら、王都の惨状を語った。


「王都上空に巨大な瘴気の渦が……! そこから魔物が無限に湧き出し、街は壊滅状態にあります! 騎士団も苦戦しており、このままでは王都が……、王都が陥落してしまいます!」


 その報告を聞いたカタリナの顔から、血の気が引いた。瘴気の渦、魔物の召喚。彼女は、自らの研究知識から、それが極めて危険な魔力汚染現象であることを即座に理解した。通常の手段では、浄化することは不可能に近い。


「なぜ、そんなものが……」


 彼女は、原因がウォルターとミカエラの愚行にあることまでは知らなかったが、このまま放置すれば、王都だけでなく、国全体が取り返しのつかない事態に陥ることを直感した。憎いウォルター、自分を貶めた人々。だが、彼らが住む王都には、罪のない多くの民衆も暮らしている。パン屋の女将さん、腰痛に悩む老人、怪我をした子供たち。自分の本を読んでくれた、名も知らぬたくさんの人々の顔が、彼女の脳裏に浮かんだ。


「……わたくしが、行かなければ」


 カタリナは、静かに、しかし固い決意を込めて呟いた。

 その言葉に、報告の場に同席していたクラウスが、鋭い紺碧の瞳を彼女に向けた。彼は、王都からの第一報が入った時点から、冷静に状況を分析し、思考を巡らせていた。


「待て、カタリナ。まさか一人で行くつもりではあるまいな? 瘴気の渦は、並大抵の聖なる力で浄化できる規模ではない。それは無謀というものだ」


 彼の声はいつも通り冷静だったが、その奥にはカタリナを案じる響きが滲んでいた。


「無謀かもしれません。でも、わたくしの本を読んでくれた人たちが、今も苦しんでいますの。それに……、わたくしの知識と力なら、あるいは、何かできることがあるかもしれない」


「……あるいは、ではない。君にしかできないことがある」


 クラウスは、静かに肯定した。そして、彼は立ち上がると、カタリナに向かって言った。


「君がそう決断すると信じていた。そして、君を一人で行かせるつもりもない。そのための準備だ」


 その言葉に、カタリナは驚いて彼を見つめた。クラウスは、いつもの無表情のまま、言葉を続ける。


「この事態を予測していたわけではない。だが、君の知識と力が、いつか大きな役割を果たす日が来るだろうとは考えていた」


 彼は、研究室の奥から、いくつかのケースを持ち出してきた。その中には、カタリナがこれまで稼いだ、莫大な本の収益で購入された、最新鋭の魔道具の数々が収められていた。


「これは、君の聖なる力を数十倍に増幅する『増幅の宝珠』こっちは、広範囲に君の声を届けるための『拡声の魔道具』そして、これが瘴気の高濃度汚染から術者を守る『浄化のローブ』だ。すべて、君の研究理論を応用し、私が改良を加えた特注品だ」


 クラウスは、淡々と、しかし誇らしげに説明した。彼は、カタリナの才能を誰よりも信じ、彼女がその力を最大限に発揮できる日のために、陰で準備を整えてくれていたのだ。


「クラウス様……」


 カタリナの胸に、温かいものが込み上げてくる。自分は一人ではない。自分の価値を理解し、支えてくれる人が、すぐそばにいる。その事実が、彼女に何よりも強い勇気を与えた。


「ありがとうございます、クラウス様。あなたがいれば、百人力ですわ」


 カタリナは、心からの笑顔で言った。彼女の表情は固い決意に満ちていた。


「当然だ。さあ、行こう。王都が我々を待っている」


 クラウスは、カタリナと共に、王都へと向かうための最速の馬車に乗り込んだ。揺れる馬車の中で、二人の間に会話は少なかった。だが、その視線は固く交わされ、揺るぎない信頼と絆で結ばれていた。



 ~~~ 



 カタリナとクラウスが王都に到着した時、そこは既に戦場と化していた。

 建物のあちこちから黒煙が上がり、魔物の咆哮と人々の悲鳴が混じり合っている。

 騎士団は奮戦しているものの、無限に湧き出る魔物の前に疲弊し、防衛線は徐々に後退を余儀なくされていた。空に渦巻く巨大な瘴気の渦は、見ているだけで精神を蝕むような邪悪な圧力を放っている。


「ひどい……」


 カタリナは、馬車から降り立つと、その惨状に言葉を失った。しかし、感傷に浸っている時間はない。彼女はクラウスから渡された『拡声の魔道具』を手に取ると、大きく息を吸い込んだ。


「王都の皆さん! 聞こえますか! わたくしはカタリナです!」


 魔道具によって増幅された彼女の声は、驚くほどクリアに、そして力強く、混乱の巷に響き渡った。その声に、魔物と戦っていた兵士たちも、恐怖に怯えていた民衆も、一斉に動きを止めて耳を澄ませた。


「カタリナ……? まさか、あの本の……」


「追放されたはずの、ロッシュ嬢か?」


 戸惑いの声が上がる中、カタリナは言葉を続ける。その声には、かつての弱々しさは微塵もなく、確かな知識に裏打ちされた自信と、人々を救いたいという強い意志が満ちていた。


「皆さん、落ち着いて聞いてください! 『初心者でもわかる!聖なる力の正しい使い方』を読んだ方はいらっしゃいますね!? 今こそ、その力を使う時です!」


 その言葉に、人々ははっとした。そうだ、自分たちには、あの本で学んだ力がある。


「本の78ページを思い出してください! 小規模防御結界の構築法です! 聖なる力は、一人では小さくても、大勢で心を合わせれば、巨大な壁となります! 兵士の方々は人々を守るように円陣を組み、民衆の皆さんは、その内側から兵士たちを支えるように、力を注いでください!」


 彼女の指示は、驚くほど具体的で的確だった。

 人々は、最初は戸惑いながらも、藁にもすがる思いで彼女の言葉に従い始めた。騎士や兵士たちが、民衆を守るように盾を構えて円陣を組む。その背後で、商人、主婦、職人、老人、果ては子供たちまでが、本で学んだ通りに手をかざし、祈りを込めて、なけなしの聖なる力を兵士たちへと注ぎ始めた。


 すると、奇跡が起きた。


 一人一人の力は、蝋燭の灯火のようにささやかだった。しかし、その無数の光が一つに集まった時、それは太陽のように輝く巨大な光のドームへと姿を変えたのだ。


「おお……!」


「結界だ! 魔物の攻撃が、届かない!」


 光のドームは、襲いかかってくる魔物の爪や牙を、ことごとく弾き返した。絶望的な状況の中で、初めて安全な場所が確保されたのだ。人々は見事な連携で防御結界を構築し、魔物の侵攻を完全に食い止めることに成功した。それは、カタリナの理論が、人々の手によって証明された瞬間だった。


「素晴らしい……! 皆さんなら、できると信じておりましたわ!」


 カタリナは、拡声の魔道具を通して、心からの賞賛を送った。人々は、自分たちの力で危機を乗り越えたという事実に、勇気と自信を取り戻し始めていた。


「カタリナ、準備ができた」


 民衆が結界で時間を稼いでいる間に、クラウスは王城の中央広場で、複雑な魔術式の構築を完了していた。地面には、チョークで描かれた巨大で精密な幾何学模様が広がっている。


「あとは、君の力が必要だ」


 カタリナは、クラウスのもとへ駆け寄った。彼女は、『浄化のローブ』を身に纏い、その手には『増幅の宝珠』が握られている。


「クラウス様、これは……?」


「私の魔術理論と、君の聖なる力の理論を融合させた、対瘴気用超広域浄化術式だ」


 クラウスは冷静に説明する。


「この術式は、膨大なエネルギーを必要とする。だが、ただ力を注ぐだけでは暴走する危険がある。そこで、君が聖なる力を集束させ、コアとなる純粋なエネルギー体を作り出す。私がこの術式でそのエネルギーを安定させ、指向性を持たせて増幅し、瘴気の渦の中心核に直接叩き込む」


 それは、二人の知識と信頼がなければ決して成り立たない、究極の共同作業だった。


「わかりましたわ。やりましょう!」


 カタリナは、術式の中心に立つと、深く瞳を閉じた。彼女は、自分の中にある全ての聖なる力を、そして、結界を維持している民衆から寄せられる感謝と希望の力をも、その一身に集め始めた。


 彼女の体が、内側から発光するように、温かく、そして力強い光を放ち始める。『増幅の宝珠』がその光を受けて眩い輝きを放ち、カタリナの周囲には、凝縮された聖なるエネルギーが渦巻き始めた。


「すごいエネルギー量だ……! カタリナ、耐えろ!」


 クラウスは、額に汗を滲ませながら、術式の制御に全神経を集中させる。彼は、カタリナが生み出した純粋なエネルギーの奔流を、巧みに魔術式へと誘導し、その性質を「浄化」という一点に特化させていく。


「今だ! 放て!」


 クラウスの叫び声と同時に、カタリナは集束させた全ての力を、天に向かって一気に解放した!


 術式の中心から、天を貫くほどの巨大な純白の光の柱が立ち上った。それは、ミカエラが見せた虚飾の光とは全く違う、生命の息吹と慈愛に満ちた、真の聖なる光だった。光の奔流は、空を覆う禍々しい紫黒色の瘴気の渦に、真っ直ぐに突き刺さる。


 光と闇が激しく衝突し、空全体が激しく明滅する。世界から音が消え、ただ圧倒的な光景だけが広がった。


 やがて、光が収まった時、人々は息を呑んだ。


 あれほど邪悪な気を放っていた瘴気の渦は、跡形もなく消え去っていた。まるで嵐の後のように、澄み渡った青空が広がっている。瘴気が消えたことで、魔物たちもまた、その体を維持できずに塵となって消滅していった。


 人々は、静まり返った広場の中心に立つカタリナを見つめていた。その小さな体に、どれほどの力が秘められていたのか。誰もが畏敬と感謝の念を込めて、彼女の名を呼び始めた。


「カタリナ様……!」


「真の聖女様だ……!」


 その声は、やがて王都全体を包む大きな歓声へと変わっていった。



 ~~~ 



 王都を未曾有の危機から救った後、事態は急速に収束へと向かった。

 暴走した魔道具の騒動と、それに伴う魔物の出現が、ウォルター王太子とミカエラ子爵令嬢の愚かな計画によるものであったことは、すぐに白日の下に晒された。


 国王は激怒し、そして深く嘆いた。次期国王たるべき息子が、私的な虚栄心のために国を滅ぼしかけたという事実に。王国の権威を守るためにも、厳しい処断が下されることとなった。


 王城で開かれた臨時議会において、ウォルターは王位継承権を剥奪され、廃嫡が決定した。彼は辺境の修道院への幽閉を命じられ、二度と政治の表舞台に戻ることは許されなかった。全ての権力と栄光を失った彼は、ただ呆然と、その判決を受け入れるしかなかった。


 共犯者であるミカエラは、さらに厳しい裁きを受けた。貴族の身分を剥奪されて平民に落とされ、その上で、国を危機に陥れた大罪人として、北方の鉱山での終身強制労働という罰が与えられた。彼女が得意とした見せかけの奇跡は、もはや誰の心も動かすことはなく、ただただ冷たい侮蔑の視線を浴びながら、馬車に乗せられていった。


 一方で、カタリナに対する人々の評価は、天を衝く勢いで高まっていた。国を救った真の聖女、救国の英雄として、王都中の人々から熱烈な称賛と感謝を浴びることになった。

 国王自らが彼女の元を訪れ、これまでの非礼を詫び、再び聖女として、そして望むならば王族に連なる者として、最高の地位と名誉を与えることを約束した。


 しかし、カタリナは、その申し出を、穏やかに、しかしはっきりと断った。


「陛下、お言葉は大変光栄に存じます。ですが、わたくしは聖女の地位に戻るつもりはございませんの」


 彼女の言葉に、国王も周囲の者たちも驚きを隠せない。


「わたくしが本当にやりたいことは、特別な地位から奇跡を与えることではありません。人々が、自らの力で、自らの手で幸福を掴むための、ほんの少しの手助けをすることなのです。今回の事件で、わたくしは確信いたしました。力は、誰か一人が独占するものではなく、皆で分かち合い、協力し合うことで、何倍にも大きくなるのだと」


 彼女の翠色の瞳は、未来を見据えて力強く輝いていた。


「つきましては、わたくしがこれまで得た資金を元に、新たな研究所と教育機関を設立したいと考えております。そこでは、聖なる力だけでなく、魔術や薬学、様々な知識を、身分に関係なく誰もが学べるようにしたいのです。人々が正しい知識を身につけることこそが、この国を本当に豊かにする道だと、わたくしは信じておりますわ」


 その壮大で、しかし慈愛に満ちた計画に、誰もが心を打たれた。彼女はもはや、誰かに与えられた聖女という役割を演じるのではなく、自らの意志で未来を切り拓こうとしていた。


 国王は、彼女の崇高な志に深く感銘を受け、その計画への全面的な協力を約束した。


 数日後、王都の喧騒も少しずつ落ち着きを取り戻し始めた頃、カタリナはクラウスと共に、新設される研究所の予定地である、小高い丘の上に立っていた。夕日が王都の街並みを茜色に染め上げている。


「本当に良かったのかい? 王族に連なるという名誉を、あっさりと捨てて」


 クラウスが、いつもの冷静な口調で尋ねた。


「ええ。わたくしには、あのような華やかな場所は似合いませんもの。それよりも、こうして新しい理論について考えたり、インクで指を汚しながら本を書いたりしている方が、ずっと性に合っておりますの」


 カタリナは、楽しそうに笑った。その笑顔は、かつてのようなどこか寂しげなものではなく、心からの喜びに満ちていた。


 しばらくの沈黙の後、クラウスが不意に口を開いた。彼の声は、いつもより少しだけ、硬いように感じられた。


「カタリナ嬢」


「はい、クラウス様」


「君がこれから歩む道は、決して平坦ではないだろう。新しい試みには、必ず抵抗や困難が伴う。それは非合理的な感情論かもしれないし、予期せぬ障害かもしれない」


 彼は一度言葉を切り、真っ直ぐにカタリナの瞳を見つめた。その真摯な紺碧の瞳に、カタリナは少しだけ鼓動が速くなるのを感じた。


「だから、提案がある。君の隣に、私を置くという選択肢はどうだろうか」


「え……?」


「君の研究を、そして君自身の人生を、最も近くで支えたい。君の閃きを論理で補強し、君が道に迷えば合理的な解決策を提示する。それは、私の知識と能力を最も有効に活用できる方法であり……、そして何より、私の偽らざる感情だ。君のいる未来を共に観測したい。これ以上に、私の知的好奇心と……、心を掻き立てる対象は、他に存在しない」


 それは彼らしい、どこまでも理知的で、それでいて不器用な愛の告白だった。普段は感情を見せない彼の言葉の端々から、誠実で、深い愛情がひしひしと伝わってくる。


 カタリナは、驚きに目を見開いた後、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。嬉しい時や照れた時にほんのり赤くなる耳は、今、夕日の色も相まって、可愛らしい薔薇色に染まっていた。


「それは……、わたくしにとっても、最も合理的で、そして、最も幸福な選択ですわ」


 彼女は、そっとクラウスの手に自分の手を重ねた。


「わたくしも、あなたの隣で、これからの未来を歩んでいきたいですの、クラウス様」


 クラウスは、その小さな手を、力強く、しかし優しく握り返した。彼の能面のような表情が、ほんのわずかに、本当にわずかに、柔らかな笑みの形に緩んだのを、カタリナは見逃さなかった。


 偽りの聖女と蔑まれた令嬢は、その軛を自らの力で断ち切り、真実の愛と、自らの手で拓くべき道を見つけた。彼女が記した一冊の本は、これからも人々の生活を照らし続け、そして彼女の隣には、その価値を誰よりも早く見出し、彼女の全てを愛した稀代の魔術師が、常に寄り添い続けるだろう。


 二人が見つめる先には、希望に満ちた、どこまでも広がる未来が待っていた。

 読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!


 感想や誤字報告など、皆さんのお言葉が何よりの励みになります。どんなものでも気軽にリアクション頂ければとても嬉しいです! よろしくお願いします!


20250706 幾つかの細かな表現の変更、誤字修正を行いました。

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― 新着の感想 ―
ミカエラ、ピカピカ光るしか能がないなんてホタルみたいだなと思ってしまいました^^;
王子は廃嫡の修道院行きで済むかな? 王太子のやらかしで王都陥落寸前まで被害が出たのでは現王家への信頼が根こそぎ無くなるよね。 よくて王子の公開処刑。 最悪革命が起きて現王族は皆殺しでカタリナを新女王に…
教会や政治などの権力に打撃を与える本とか、禁書指定されて燃やされ、持っているだけで処罰、出版関係者は処刑されたりするのが史実的にはよくある話ですけどね。 この世界の宗教はそこまでする力が無かったのか…
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