黒髪の悪魔と僕の「時間」
周りの大人たちは、ひどくつまらなそうに見えた。少なくとも僕には。学校は限られた人間しかいない。
この小さな世界は、安全で正しくて、そしてひどく退屈だ。
それは唐突に僕の前に現れた。
中二の初夏。
放課後の図書室の扉を開いた時、背筋をそっと冷たい風が撫でた。ちょっと気味悪さを感じながらも教室に入る。そこには1人の少女が、机の上で寝転がっていた。
図書室の広々とした机に、白い手足をのびのびと伸ばして寝転ぶその姿は、まるで猫のようだ。
日差しの降り注ぐ図書室には、僕と彼女しかいない。
魔が差した。というのはこの事だと思う。僕は彼女に近づいて、顔を覗き込んだ。その瞬間、彼女の瞼が開き、真っ黒な瞳と目が合ってしまった。僕は声も出せずに後ろにのけぞる。
「へえ。君、その扉開けられたんだ」
彼女はゆらりと起き上がり、僕を見る。井戸の底を覗いたような暗い瞳から目が離せない。
「ねえ、君はどんな本が好き?」
彼女は机に腰掛けたまま頬杖をつき、僕に微笑みかけてきた。
「え…本はあまり読まないかな…」
掠れたか細い声で答えると、彼女は明らかに不服そうな顔をした。
「なんだ、文学少年じゃないのかね。それは非常に残念だ。何が残念って、君は賢そうなのに学ぶ機会を失っている。それがもったいないと言えるんだよ。」
とりあえず、何か失礼なことを言われているな。
「学ぶ機会は他にもたくさんあるだろう。そういう君こそ、本ばかりで他の学ぶ機会を失っているんじゃないの?」 僕はさっきよりもしっかりとした声で言い返した。彼女の底知れぬ暗い瞳が、わずかに輝いた。
「ふふ。ちゃんと喋れるじゃないか。そうだよ。私はひとりぼっちだから、本しか対話する相手がいないんだ。」「……いつも1人でここにいるの?」
「そうさ。ずっとひとりぼっち。」
「それは自分の意思?」
彼女は眉毛を八の字にして笑った。
「君は言葉はなかなか切れ味があるね。そうだよ。なんせ私は天使だからね。君のような迷える子羊の元に現れるのさ」
適当な言葉ではぐらかされているとすぐ分かった。いや、分かったつもりになっていた。
この日以降、僕が図書室の扉を開けると、彼女だけがいるようになった。彼女といる間、誰も部屋には来ないし、いつも彼女1人しかいない。彼女のいるこの空間では、僕と君しか存在できない。
人ではないのだろうと実感した。
人ならざる者との交流は、最初は少し怖かったけど、なぜか逃げたいとは思わなかった。彼女と話しているのは不思議と心地よく、そして刺激に満ち溢れていたから。
「私はね、人間を食べてみたいんだよ。」
彼女は黒く長い髪を指に巻き付けながら言ってきた。
「それは物理的に?カニバリズムの話?それとも手玉に取りたいとかの精神的な話?」
「そうだねぇ……精神的なのはもう飽きたよ。だから物理的な話の方が興味があるね。」
「あなた……天使を自称するわりに随分不道徳ですね。カニバリズムについては、僕は否定的かな。と言うより受け入れられない。」
「まあ天使にも色々いるのさ。堕天使だって元は天界にいたんだから。そうかい。君は良心が痛むからそう言っているのか、道徳教育の賜物か。まあどっちでもいいか。」
「あなたは僕の、例えば僕の心臓を食べたいと思うんですか」
僕の質問に、彼女は不適な笑みを浮かべて答えた。
「もちろん。いや、食べたいよりも私のものにしたい。うん。その方が正しいね」
「悪魔ですね」
僕も笑いながら彼女に言った。
「いやいや、私は天使だよ。こんなに可愛いのに、悪魔なわけなかろう」
「じゃあ、あなたは可愛い悪魔です」
僕の言葉に、一瞬目をぱちくりとさせる。その表情がやけに可愛いと思った。
「そんなことを言う人間は初めてだよ」
向かいに座る彼女の表情は、やっぱり眉を八の字にして笑っていた。僕はなぜか彼女の顔を見て、この人に心臓をあげたいとぼんやり思ってしまった。
人ならざる者との出会いから1年。僕は受験生になった。
相変わらず彼女と会うものの、ただ話していたあの頃と違い、2人で勉強をして過ごすようになっていた。と言っても、彼女には受験なんてものはない。それでも、僕の使っている問題集をいつの間にか用意していて、一緒に勉強していた。
決めたページを解き終わるまで、無言で過ごす。どちらかが先に終わったら、相手が終わるまで本を読んで待っている。ただそれだけの時間が、とても心地よかった。
夏の、目がチカチカする日差しが差し込み、紙をめくる音と、シャーペンを走らせる音で図書室は満たされている。
僕は問題を解き終わり、隣にいる彼女をチラッと確かめた。まだペンを握るその手が、日差しを浴びてうっすらと透けている。
僕は読みかけの本を手に取り、彼女が解き終わるのを待った。
彼女の選んだ本だけど、これがまた天使の階級や歴史についての本ときて参ってしまう。
君はいつまでも天使を自称するんだね。そう思うと、なんだかおかしくなってしまって、声を押し殺して笑った。
鬱蒼と茂っていた青葉が色付き、地面を彩り、そしてその色が褪せる。
僕は受験番号を握りしめて、数字の羅列の前に佇んでいた。深く息を吸い、そして吐く。僕は彼女の待つ図書室へ向かう。
扉を開けると、いつものように机の上に座って、彼女は待っていた。
「お、来たね少年」
彼女は微笑んで駆け寄ってきた。
「あのっ」
「あーあー待つんだ君。私が先に話さなくちゃいけない。」
結果を報告しようと開いた僕の口を、彼女は素早く塞ぐ。そして、やっぱりあの八の字眉で笑った。
「君とは今日でお別れだ。」
分かっていた。なんとなく。彼女が別れを意識していることを。
「卒業式までは……会えると思っていました」
覚悟していたはずなのに、振り絞ったひと言は情けないものだった。
「私は悪魔だからね。非情なんだよ。」
「天使って譲らなかったくせに、悪魔ぶるんですね」
「ふふ。人生には狡猾さも必要さ」
「悪魔なら、取引してくださいよ」
「取引?」
僕は彼女の手を取り、僕の胸に当てた。
「僕の心臓をあげます。だから…だから僕にあなたの時間をください。」
彼女は最初驚いたように目を見開いた。そして、僕の胸にある手とは反対の手で、僕の頭を優しく撫でる。
「君は本当に可愛いんだから。いいんだよ、私は君から多くのものをもらった。対価なんてものは要らないよ。いや、もう受け取れない」
僕が何かわからないでいると、彼女はとても満足そうに微笑む。
「君は私に時間という対価をたくさん払ったじゃないか。友達や家族と過ごすべき時間を、私に捧げた。いいかい、時間は貴重なものだ。過ぎた時間は戻らない。」
彼女は、僕の手をそっと退けた。
「私にとって君との時間は十分な対価だ。ありがとう。卒業までの時間は、私とではなく、君の大切な人と過ごしなさい」
俯いた彼女の真っ黒な長い髪が、僕の前で揺れる。
「そんな、随分自分勝手な。僕の意思は聞いてくれないの?」
黒髪が、ゆっくりと上下に揺れる。彼女の顔は見えない。
僕は、彼女の髪に手を伸ばしかけて、その手を引いた。
「わかりました。僕は僕の人生を歩みます。でも、これだけは言わせてください。僕はあなたとの時間を選んだことを後悔していません。」
彼女は何も言わず、ただ佇んでいた。その姿は、今までで一番小さくて、そして僅かに震えているように見えた。
「じゃあ……行きますね。今までありがとうございました。」
僕は唇を噛み締めながら、そっと彼女に背を向けて、図書室の扉へ向かう。いつもより重い扉を動かし、廊下に出る。
「大好きだよ!!」
彼女の大きな声に、思わず振り向いた。そこには、涙を浮かべながらも、満面の笑みを浮かべて大きく手を振る彼女がいた。
なんだ。君も泣いてるじゃないか。
「僕も!僕も大好き!!」
僕が言い切った瞬間、冷たい風が吹き、扉が勝手にピシャッと閉まった。
廊下には春の訪れのような、暖かい日差しが差し込み、小鳥たちの鳴き声が響く。
「可愛い悪魔だなあ」
僕は彼女のように、眉を八の字にして苦笑いした。そして、僕は図書室に背を向けて歩き始めたのだ。