44.二人の宝物②
シリウス様は私の最期に立ち会う事なく、我が子の顔さえ見ることもなく、回帰してしまったと言っていた。
私が思い出せる限りでは、出血量が多かった原因は、母体と胎児を繋ぐ臓器――胎盤の異常だったのだと思う。
参考にした文献によると、それはおおよそ100件のお産に1件くらいの確率で発生するのだそう。
原因は不明。
リスク因子は幾つか挙げられているものの、私に当てはまるものは何もない。
つまり、次、また同じ事が起こるかどうかは、誰にも分からないということだ。
またあの苦痛を味わうのだとしたら、正直怖い。
でも、怖いからと言って、このまま年を重ねてしまえば、あの時、私たちの元に来てくれたあの子はどうなってしまうの?
それこそ人生に悔いが残る。
お腹の中で我が子が元気に動いていたあの感覚は、今でもはっきりと思い出せる。
シリウス様に救われたこの命を大切にしたい。
けど、あの子にも会いたい。
今まで避けてきた話し合いを、今夜シリウス様に持ちかけることにした。
夜、どう切り出そうかと迷いながら、シリウス様のベッドに入ると、横から抱きしめられた。
シリウス様は上半身を少し起こして、仰向けに寝る私の顔を眺めながら、髪を撫でる。
「君の髪は、花のように綺麗な色だ」
髪を束ですくって口づけられると、胸をくすぐられたような甘さを感じる。
「澄んだ瞳も好きだ。可愛らしい鼻も、小さな唇も、全て好きだ。ひまわりが咲いたような明るい笑顔も、誰に対しても思いやりのある優しい心も、こんな僕を一途に思ってくれる愛情深さも全て好きだ」
指の間から、髪の毛の一本一本まで、それはそれは愛おしそうに、丁寧に触れられる。
なんだか今日は、いつもよりも糖度が高い気がする。
まぶたや頬に優しくキスされたあと、唇が重なった。
感触を確かめるように触れ合ったあと、やがて熱く溶かされていく。
余韻を残したまま一度唇が離れ、息継ぎをすればまた重なり合う。
蕩けそうになりながら彼を見上げると、複雑そうな目で見下されていた。
「ミラ、何か悩んでいるのか? それとも、ロセウス戦記のことだろうか? それならば、もう少しだけ待って欲しい。どう取り入れるべきか答えが見つからないんだ」
いつもと何か様子が違う事は、シリウス様にはお見通しだったみたい。
「シリウス様、大切なお話があるんです。どうか最後まで聞いて欲しいです」
私は、シリウス様が飲んでいる薬の正体に気づいていること、そろそろ子どもが欲しいことを話した。
「今まで話し合いを避け、黙っていて申し訳なかった」
シリウス様は真摯に謝罪してくださった。
「僕は君を愛してる。だから君に触れたい。君にこの愛を伝えたい。けれども、どうしても、まだ怖いんだ。『死の引力』の有無に関わらず、もしまた君が命を落としてしまったら⋯⋯」
私が死を繰り返して来たことで、シリウス様は何度も心の傷を負ってきた。
トラウマが残り、全ての危険の排除を望む中、私の人生の充足度を鑑みて、制限を徐々に緩めてくださっている。
鳥かごに入れるのも、放し飼いにするのも、どちらも私への愛情があってのこと。
何度も苦痛を味わいながら、ようやく私を救い出せたのに、またこの命が尽きてしまう恐怖と、今も戦い続けている。
「シリウス様、不安にさせてごめんなさい。わたくしは、あなたを悲しませたいわけじゃないんです。それでも、この話をしたのは、わたくしがあの子に会いたいからなんです。あの子に会えないまま、この人生を終わらせたくないんです。きっとあの子も、再びわたくしたちの元に来られる日を待ってくれていると思うんです」
シリウス様は瞳を揺らしながら、私の声に耳を傾けてくださっている。
その表情に胸が締めつけられるけれども、最後までこの想いを伝えたい。
「シリウス様の子どもを授かれるのは、この世でたった一人、わたくしだけの権利のはずです。だから、お願いです。もう、その薬は飲まないでください」
ベッドの上で正座をし、深々と頭下げるとシリウス様は慌ててそれを阻止した。
「ミラの気持ちは痛いほど分かった。君にそこまで言って貰えるなら、男冥利に尽きる。薬が抜けきるまでは、三ヶ月ほどかかる。あの子に会いたいのは僕も同じだ」
私を抱きしめるシリウス様の腕には、苦しいくらい力がこもっていている。
葛藤はあるだろうけど、それでも私の希望を尊重してくださったんだ。
「シリウス様⋯⋯やっぱり今夜、ロセウス戦記をして欲しい気分です。駄目ですか?」
しなだれかかって甘えると、シリウス様は油の切れたブリキ人形みたいに、ゆっくりと首を回して私の顔を見た。
ギギギと音が聞こえそうなくらい、ぎこちない動きだ。
「⋯⋯⋯⋯君の望みとあらば」
シリウス様は少し考え込んだあと、私の身体を少し荒くベッドに押し倒した。
ぽすんと倒れ込んだところに馬乗りになられる。
逃げられないように顔の横に腕をつかれ、いつもより体重をかけられると、胸がときめく。
「早速分からない。次はどうしたらいいんだ?」
「キスする時に、髪をわしゃっと掴んで欲しいです。あと、首をカプッとして欲しい」
シリウス様は頷くと、まずは望み通りにキスしてくれた。
いつもより荒々しく、でも痛みは全くなく。
繊細な手つきで甘やかされながら、首筋に優しく歯を立てられると、頭がぼーっとしてくる。
うっとりとした気分になり、身体の力が抜けると、やがて素肌が重なった。
そのあまりの温かさに、涙があふれる。
「どうしたんだ? やり過ぎたか?」
心配そうに私を見下ろすシリウス様。
戸惑いながら、指で優しく涙を拭ってくださる。
「ごめんなさい。びっくりさせちゃって。幸せだなぁと思っただけです」
そして迎えた朝。
差し込む日の光が、私たちの未来を明るく照らしてくれているような気がした。