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40.理想の妻①


 ある夏の日のこと。


 最近の私は、とある恋愛小説を読み込んでいた。

 これはいわば、貴婦人のバイブル。

 題名は『公爵家の奥様の秘密』――


 決して怪しい本ではなく、公爵夫人である健気な主人公が、あの手この手で旦那様を喜ばせるという、努力の日々の物語。


 そのテクニックは家事のやり方から、夜のお作法まで⋯⋯


 旦那様である公爵様が、感情表現豊かな御方だから、主人公も楽しそうに色々と試みているのよね。


 では、この本を私はどう活用するのか。


 夜のお作法は怪しまれない程度に小出しにするとして、今すぐ私が実践出来るものがあるのだとしたら、それは手料理だ。


 普段、このお屋敷で私たちが口にする料理は、専属の料理人たちが食材の選定から調理まで担っている。

 

 私には料理の経験はなく、プロには到底敵わないことは明らかだけど、『料理は愛情』という言葉があるように、気持ちを込めれば、それなりに美味しく出来るとも聞く。


 特に煮込み料理に関しては、この法則が当てはまるのだとも。

 

 早速、私は、厨房に向かったのだけれど⋯⋯


「申し訳ございません。若旦那様から、若奥様が火や包丁の類に触れるようなことがないようにと、厳しく言いつけられておりまして⋯⋯」


 料理長は厨房の入り口で帽子をとり、深々と頭を下げた。


 まさか、私の行動を先回りして、そんな過保護なご指示があったなんて⋯⋯

 

「そうでしたか。無理を言ってしまい、申し訳ありませんでした」


 料理長にぺこりと頭を下げ、その場は諦めて立ち去るしかなかった。



 夜。

 シリウス様のベッドの上で、二人並んで読書をしていた。

 もちろん、万が一、何を読んでいるのかバレても問題ないよう、『公爵家の奥様の秘密』とは別の本を選んだ。  


 隣で静かに本を読むシリウス様は、真剣な表情で物語と向き合っている。

 邪念だらけの妻に、伏せられた長いまつ毛や彫刻のように整ったお顔をまじまじと観察されても気がつかないくらい。


 息を呑むような展開があったのか、喉仏が上下に動いた。

 あぁ。ここ、好きだな。


 うっとりとした気分でその横顔を見つめていると、キリの良いところまで話が進んだのか、シリウス様は満足そうに本を閉じ、目をつぶった。


 私も自分が読んでいた本をそっと閉じ、ベッドの端に置く。


「シリウス様、大好き」


 あご先にキスしたあと、首筋から鎖骨まで順番に降りたあと、胸に顔を埋める。

 爽やかなマリンの香りに混ざって、シリウス様の匂いがする⋯⋯


「なんだ。甘えたくなったのか」


 片腕で抱きしめられ、優しい目で見おろされる。


「はい。私はあなたの全てか好きです。ここも好き」


 不意打ちで喉仏にちゅっと口づけると、ローブから覗く胸元から、普段はクールなお顔まで、みるみる内に赤く染まった。


「君はいったい、どこでそういうのを覚えてくるんだ」


 とても珍しい、赤面シリウス様が拝めるなんて⋯⋯

 さすが奥様の秘密のテクニックだ。


「それは内緒です。でも、なんだか美味しそうに見えて⋯⋯ここも好き」


 喉仏をパクっとしたあと、こめかみからあごまでのラインをパクパクすると、シリウス様はくすぐったそうに身じろいだ。


「君は僕を食べるのが好きなんだな。ならばこちらも遠慮なく」


 シリウス様は私のほっぺたと二の腕の内側をパクっと食べた。

 

「きゃっ、くすぐったいです」


「君も同じ事をして楽しんでいただろう」

 

 子犬のようにじゃれ合う内に、夜は更けていった。



 翌朝。

 私が目覚めると、すでにシリウス様は朝の身支度を始めておられた。


「おはよう、ミラ。今日は街に視察に行ってくる。目立たないよう一人で行くから、家の事は任せた」


 シリウス様は街の人がおしゃれで着るような、オフホワイトのシャツに、サスペンダー付きのグレーチェックのスラックスをお召しだ。


 視察ではあちこち歩き回られてお疲れになるだろうから、元気になれるよう、手料理を振る舞うチャンスかもしれない。


 昨日の夜は料理の話なんて、すっかり忘れて遊んでしまったから、まずは厨房に入るための交渉から。


「そうでしたか。お気をつけて行ってらっしゃいませ。あの、せっかくなので、手料理を作って、お帰りをお待ち出来ればと⋯⋯」

 

 恐る恐るご提案すると、シリウス様の手がぴたっと止まった。

 あぁ。これは駄目なパターンだ。


「気持ちはありがたいが必要ない。不慣れな君が、突然、そのようなことに挑戦したせいで、切り傷や火傷を負ったらどうする。それも僕が不在の時に。悔やんでも悔やみきれないだろう」

 

 シリウス様はそれで話は終わりとばかりに、再び手を動かし、シャツのボタンをとめた。

 シリウス様のお考えは分かるけれど、それじゃ何も出来ない妻になってしまう。


 お義母様だって、シリウス様が幼い頃から、時々、手料理を振る舞っておられたと聞いた。

 シリウス様だって、お義母様の作ったクリームシチューが好きだと嬉しそうに語っていたのに。


 不満なのはお見通しだったのだろうか。

 シリウス様は落ち込む私の頭にぽんと手を置いた。


「もし僕のために何かをしてくれるというのなら、これをお願い出来ないか?」


 シリウス様はネクタイを差し出した。


 学生時代、恋人の制服のネクタイを巻くというのが流行っていたから、何度か巻いて差し上げたことがあったっけ。

 手順を思い出しながら、気持ちを込めて丁寧に形を整える。

 美しいシリウス様を引き立てるよう、結び目だって美しくしないと。


 なんとか完成したので、シリウス様のお顔とともに堪能しようと見上げると、深紫の瞳が不安そうに揺れていた。


「すまない。僕はまた君を縛りつけてしまっているだろうか。けれども、君が無事に出迎えてくれることが、僕にとって、何事にも代えられない最高の幸せなんだ。自由に好きなように生きて良いと言った手前、矛盾しているが⋯⋯でも、やっぱり僕は⋯⋯」


 そう語る表情が余りにも苦しそうに見えて、息が止まりそうになる。


 違う。私はこんな顔をさせるために、料理をしたいんじゃない。

 シリウス様に喜んで欲しいという、ほんの思いつきだったのに。


「シリウス様、そんな顔をさせてごめんなさい。料理はあくまでも一つの手段なんです。シリウス様のために何かしたくて、いい妻になりたくて⋯⋯だから、またネクタイを巻かせてくださいね」


 お詫びの気持ちを込めて頬にキスすると、優しく抱きしめられた。


「あぁ。またよろしく頼む。では、行ってくる」


 シリウス様は安心したように微笑み、出かけていかれた。

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