31.全ての記憶
私の部屋を訪ねてくださったのは、憧れのシリウス様⋯⋯
「こんな夜更けにすまない。もう休んでいたか? それとも誰かと過ごしているのを邪魔したか?」
急いで戻って来られたのか、肩で息をしながら申し訳なさそうに眉を下げている。
「いえ、今は一人です。庭園の方から聞こえてくる音楽に耳を傾けていました。よろしければ一緒にいかがですか?」
本来ならば、こんな時間に男性を部屋に招き入れるなんて、褒められた事ではない。
それでも、私はやらないといけないんだから。
「あぁ。それでは少しだけ失礼する」
シリウス様は意外にもすんなりと私の誘いに乗ってくださった。
プロキオン様に邪魔されないよう、急いでドアを閉め、鍵をかける。
「フォーマルハウト様に言われて来てくださったのですよね?」
フォーマルハウト様はなんといって誘導してくださったんだろう。
話を合わせないと不審に思われる。
「フォーマルハウト? 今日は会話していないが⋯⋯彼も僕に用事があったのだろうか」
「え? では、戻られて真っすぐここに来てくださったのでしょうか」
お部屋に戻ればフォーマルハウト様に出くわしているはず。
会えなかったということはフォーマルハウト様の身に何かが⋯⋯
「そうだ。急な呼び出しで王都に出向いていたが、終わり次第急いで戻ってきた。そして、そのまま君の部屋を訪ねたというわけだ。これを返したくて」
シリウス様はカバンから一冊の本を取り出した。
この本を返すために、わざわざ訪ねて来てくださったの?
用事が終わった直後、こんな時間に慌てて?
今日ほど特別な夜に、メリディアナ王女殿下の元ではなく、私の元に?
「幼い頃から多くの時間を共有した男女は、結ばれるのがセオリーなのだろうか」
シリウス様は本のページをめくりながら、静かな声で言った。
その表情に陰りがあるように見えるのは、この部屋の明かりが消えているからだろうか。
「そうですね。恋愛小説でも定番の設定かと思います。現実にも幼い頃からともに過ごし、互いの多くを知った上で惹かれあった男女が結婚する例は、枚挙にいとまがありませんから」
「僕にとってのメリディアナ王女殿下は⋯⋯幼い頃から仕え守るべき貴い存在で、それは騎士として生きる以上、生涯変わらない。僕は恐らくこの国で最も幸せな男なのだろう。殿下の寵愛を受けることが、アルデバラン公爵家の跡取りとしての責務であり、僕にとってもこの上ない幸せのはずだ。それでも何故か僕の心は悲鳴を上げている。それはどうしてだと思う?」
シリウス様は切なげな表情でこちらを見つめながら、私の手をとり、ご自分の胸に当てた。
シャツ越しに温かな体温が伝わってきて心臓が暴れ出す。
「君を見ていると胸が苦しくなると同時に、満たされるような不思議な感覚がする。君にもっと近づきたい。君に触れたい。花が咲いたような君の明るい笑顔を自分にも向けて欲しい⋯⋯そんな望みが尽きないんだ。君はこの感情になんと名前をつける? 僕は⋯⋯⋯⋯これが恋だと思う」
私は夢を見ているんだろうか。
この御方に愛されたいという深層心理が、自分に都合のいい幻を見せているんだ。
だって、こんなこと、現実ならあり得ない話で⋯⋯
「シリウス様⋯⋯」
愛しいその名前を呼ぶと、切羽詰まったように抱きしめられた。
「今夜は他の誰でもない君と過ごしたくて、ここに来た。人は僕の事を愚かだと罵るかも知れない。それでもこれが僕の心に付き従った結果なんだ。ミラ嬢、僕の想いを受け止めてくれないか」
耳元で聞こえる掠れた声に、耳が熱をもって溶け落ちてしまいそう。
「わたくしの心は、もとよりシリウス様のものです。あなたに愛して頂けるのなら、もう、どうなっても構わないです」
言い終わるより先に唇を奪われた。
いつも落ち着いていらっしゃるシリウス様からは想像もつかないほどの早急なキス。
壊れそうなくらい強く抱きしめられると、求められている実感が湧く。
このままこの御方に全てを捧げたい。
ずっとこうしていられたら、どれだけ幸せなことか⋯⋯
情熱的なキスが終わり唇が離れた瞬間、目の前のシリウス様は目を見開き固まっていた。
それと同時に私の頭の中に映像が流れ込んでくる。
大勢の招待客に見守られる中、挙げた幸せな結婚式と誓いのキス。
大きく膨れたお腹をさすってくれる温かな手。
生きてくれと懇願しながら涙を流すシリウス様。
黄色いカナリアと陶芸家の少年⋯⋯
これは何?
昔に見た夢の記憶?
何かの本で読んだ情景と現実が混ぜこぜになっている?
いや、それにしては肌に触れた感触や香りまでもが鮮明で⋯⋯
「シリウス様、わたくし、思い出したような気がします。繰り返しの人生の記憶を、あなたと過ごした日々を」
「ミラ、僕も今、全てを思い出した。僕に課せられた使命も、変わらぬ誓いも。何度も怖い目に遭わせてすまなかった。君に残されている記憶も、辛く恐ろしいものばかりだろう?」
シリウス様は慰めるように頭を撫でてくださる。
大好きな人の温かい手に心が落ち着く。
「死の直前の記憶もあるのですが、不思議と怖くはありません。あなたに愛してもらえたという、温かな記憶ばかりです。シリウス様、ありがとう。ずっと一人で辛かったですね」
お返しに頭を撫でると、シリウス様は手の平でご自身の目元を覆い隠した。
「ミラ、ありがとう。ずっと苦しかった。辛かった。けれども、君さえ笑顔でいてくれるなら、僕は何度だって立ち上がれる。生きててくれてありがとう」
その声は小刻みに震えていた。
元々は人前で泣くことなんて決してなかった、強く気高いシリウス様の涙を、私は何度も見てきた。
それだけ追い込まれて苦しんで、それでも諦めずに運命を変えようと立ち向かってくれたんだ。
「シリウス様、大好きです。愛しています。本当は今すぐキスしたいくらいです。シリウス様が言葉に出せない分、私が言いますね。世界一愛しています」
「ありがとう。僕も君と全く同じ気持ちだ。いや、この気持ちは君にだって負けはしない。ありがとう」
私を救うために一人で戦ってきたシリウス様。
今までの人生での私は、彼に寄り添うことができなかった。
けれども今回は違う。
ようやく彼と本当の意味で心を通わすことが出来た夜だった。