19.予見の賢者
新しく来てくれたカナリアのことは、クレールと名付けることにした。
異国の言葉で光という意味で、この子の綺麗な羽根のイメージに合うと思ったから。
アモルの代わりという言い方をされると、反発心が芽生えたけれども、この子だって私の元に来てくれた大切な存在。
しっかり可愛がってあげたいとは思う。
二週間ほど経過し、少しずつこの家に慣れてきたクレールと戯れていると、ノックの音がして扉が開いた。
「ミラ、入っても構わないか?」
かつての開かずの扉から入って来られたのは、シリウス様。
恐らく、最近始まった毎朝の『治療』のために訪ねてこられたのだろう。
「はい。どうぞ」
ベッドの上に脚を伸ばした状態で座ると、シリウス様もベッドに登って来られて、私のことを後ろから抱きしめた。
シリウス様の調べによると、荒んだ心は、夫婦の触れ合いによって安定するのだと書かれた書物があったのだとか。
「どうだ? 嫌な感じはしないか?」
「はい。特には。ただ、体温が高くて、筋肉でゴツゴツしているからか、背もたれとしては、そんなに心地よくありませんね」
悪態をつきながらも、思い切り体重を預ける。
「そうか。それは悪かったな」
シリウス様は笑って受け止めてくれた。
何よ、今さらと思うけれど、ほんの少し力を貰えるような気もする。
「退屈なので読書をしても?」
「あぁ。好きに過ごしてくれ」
お言葉に甘えて、読みかけの本を手に取った。
それは、旅人の少年と相棒の犬の物語。
二人は直接言葉を交わせなくても、数々の苦難を共に乗り越え、絆を深めていく。
言葉というのは、相手に思いを伝える方法がたくさんある内の一つでしかないはずなのよね。
短時間で多くの情報を伝達出来る便利な手段だから、ついつい頼りがちだけど、『目は口ほどに物を言う』なんてことわざもある。
滑り台をすべるように、するりとシリウス様の腕を抜け出し、彼の太ももを枕にして仰向けになる。
「突然どうしたんだ? 体勢が辛くなってきたか?」
私の顔を覗き込む彼は優しい目をしていた。
横髪が垂れて彼の頬にかかるのを、手を伸ばして耳に掛け直す。
「ねぇ、シリウス様。もしも、わたくしの心が元通りに回復したら⋯⋯きっとわたくしは、こうやってあなたに触れられるのが嬉しくなるでしょうし、こうしてもらえない時に、また絶望することになると思うんです。だから正直いやなんです」
シリウス様がおっしゃる『呪いにかかった状態』で、心が壊れたままだと、ふとした瞬間に消えてしまいたくなることだってあるし、突然激しい悲しみに襲われて、耐え難い苦痛を感じるときもある。
けれども、これ以上、心が傷つかないようにするための防御反応なのか、全体的に感情が鈍っている今の方が、ある意味、気楽でもある。
治療なんて必要なのだろうか。
「今まで君への想いを伝える努力を怠ってしまったことは、本当に申し訳なかった。これからは僕に許された方法で、君への想いと誠意を見せる。決して失望させないように努力する。僕は君と、この先の未来を生きていきたいんだ。また君の笑顔が見たいんだ」
シリウス様は私の髪を撫でながら、目に涙を浮かべた。
今まで私は、自分の常識をものさしにして、シリウス様の愛情を測っては絶望していた。
けれども、ここ最近のシリウス様からは、確かな愛情を感じられる。
だから、一度きちんと話を聞いてあげたい。
出来ることならば、信じてあげたい。
「泣かないで、シリウス様。あなたはいったい、何と戦っているんですか? 何があなたをそんなに苦しめているんですか?」
私の問いかけに、シリウス様の手の動きが止まった。
なんと返事をしようか迷っているのか、瞳が揺れている。
「こんな事、普通は信じられないだろうが⋯⋯僕は何度もこの人生を繰り返している。君を失う度に、記憶を失い、時間が巻き戻る⋯⋯僕は君の命を奪う何かと戦っている」
シリウス様は、少しためらいながらも、ぽつりぽつりと語り始めた。
「最初の人生は、まさしく順風満帆だった。皆に祝福されながら夫婦となり、僕たちの間には、いつだって笑顔が絶えず、満たされていた⋯⋯けれども、君の命が尽きてしまったんだ。僕たちの大切な宝物を産み落とすのと同時に」
シリウス様のおっしゃる通りだ。
そんな、まるで小説みたいな話、普通は誰が信じるというのか。
けれども、彼が私を騙したり、からかおうとしているなんてそぶりは、微塵も感じられなかった。
「赤子の産声が聞こえる中、産婆が僕に君が亡くなった事を知らせに来た。君の最期の姿も、我が子の顔も見ることなく、気づいたら人生をやり直していた。一度目の人生を思い出したのは、今回と全く同じ状況下で、君にプロポーズした時だ」
一度目の人生では、私はシリウス様を置いて先に死んでしまったんだ。
私たちの元に来てくれた子どもを抱かせてあげることもできずに⋯⋯
シリウス様が私にプロポーズしてくださったあの日、シリウス様はこれまでの人生を思い出してしまった。
だから苦しそうにしていたんだ。
「二度目の人生以降、僕は君を抱くことを止めた。子どもを持たずとも、幸せに暮らせると信じていた。けれども、二度目の人生も君は二十歳で亡くなってしまった。どうやら僕が、君が亡くなったことを認知した段階で時間が巻き戻るようだから、正確な死因や状況を知ることは、一度たりとも叶わなかった。だから、手当たり次第に、君を危険から遠ざけることしかできなかった」
それが私を閉じ込め、必要以上に過保護になってしまった理由⋯⋯
「ただ、二度目の回帰の時に、慈愛の魔女が夢に出てきた事があったんだ。こちらの問いかけには答えてもらえなかったが、そこから幾度となく繰り返す人生の中で、わかった事がある。僕が回帰しているのは、三人の賢者と慈愛の魔女の権能が関わっているということだ。また、この強力な力を行使できる代わりに、失ったものがあると」
シリウス様は、言いづらそうにしながら、私の手をぎゅっと握った。
「それが、記憶を取り戻した後の状態で、君か僕、どちらかの唇がお互いの身体のどこかに触れてはいけないということと、特定の言葉を発せられないことだ。その瞬間に時が巻き戻ってしまうから」
私は今まで彼に何度も、愛していると言って欲しいと、キスして欲しいと要求して来た。
いつも何故か若くして命を落としてしまう私を救うため、シリウス様はずっと一人で戦ってくださっていたというのに。
私はなんて残酷な事をしてしまったんだろう。
仮に彼が事情を全て説明してくれていたとしても、以前までの私だったら、その言葉を信じられなかったと思う。
私はシリウス様に感謝するべきだったのに。
「ごめんなさい。シリウス様、わたくしは何も知らずに酷いことを言いました」
握られた手をぎゅっと握り返すと、彼は首を横に振った。
「君は何も知らなかったのだから当然だ。今まで暗い話ばかりして来たが、この人生でいくつか進歩も見られる。まず、ようやく君の死因が魔女の呪いであると特定出来たことだ。呪いについて、フォーマルハウトとアルキオーネ嬢の協力を得て調べたところ、『死の引力』という類のものらしい。被術者の心身に死を思わせる程の負担がかかった時に発動するようだ。呪いを解く方法については不明だが、確実に前に進んでいる」
私は今までの人生で、魔女の呪いで繰り返し命を落としていたということ?
何故、私がそのような目に⋯⋯
「次に、アルキオーネ嬢も賢者の一人であることを、僕に告白してきたことだ。彼女も君の唇に触れたことで、繰り返す人生の断片的な記憶を思い出したらしい」
破滅の魔女の話も加味すれば、シリウス様が予見の賢者の生まれ変わりのような存在なのだと予測できる。
そして、アルキオーネ様も三人の賢者の一人だったと。
恐らく記憶を取り戻されたのは、私が狼の魔物に襲われた日の夜だろう。
それでシリウス様とアルキオーネ様は、二人きりで話をされていたのね。
二人は協力してくださっていたのに、私は⋯⋯
「では、結婚式の直後の外出から戻られた際に、一緒に馬車に乗っておられたのもアルキオーネ様ですか?」
「いや。実は、その事も今回の人生で初めて起きた出来事の一つだ。急だがこれから彼に会いに行こう。君は僕を叱るかもしれないが、こういうことは早い方が良い」
シリウス様は私の手を引いて立ち上がった。