16.破滅の呪い
私たちが結婚してから今日で丸半年が経った。
お義母様とフォーマルハウト様のご助言を受け、私は覚悟を決める事にした。
それは、今夜、自分からシリウス様の寝室を訪ねるということ。
シリウス様が今夜、屋敷にいらっしゃるのは確認済。
ナシラにアドバイスをもらって、女性らしさが際立つネグリジェと、魅力を高める香水も身に着けてある。
私の寝室とシリウス様の寝室を繋ぐ、開かずの扉⋯⋯ノックをしたあと、ドアノブに手をかけゆっくり回すと、扉は静かに開いた。
シリウス様は、ノックの音に気が付かなかったのか、書き物机に向かっておられた。
山積みになった書物と散乱した書類⋯⋯
暗い部屋で読書灯の明かりを頼りに、頭を抱えながら、がむしゃらにお仕事をなさる姿は、普段のシリウス様からは想像がつかない。
やっぱりお忙しかったんだ。
今まで毎晩、ずっとこんな調子だったのかしら。
「⋯⋯⋯⋯ミラなのか。どうしたんだ、こんな時間に、突然⋯⋯」
シリウス様の目は、まるで幽霊でも見たかのように、見開かれている。
やはり歓迎はされないか。
「シリウス様、お忙しいところを申し訳ありません。ですが、どうしても、きちんとお話がしたくって⋯⋯」
一歩一歩、シリウス様に近づいていくと、彼は椅子から立ち上がり、私の両肩に手を置いた。
「話とはなんだ? どうしてそんなに辛そうな顔をしている? また誰かに嫌がらせをされたか?」
心配そうに顔を覗き込まれると、何故か涙が出そうになる。
駄目よ。夜のお誘いに来たのに、湿っぽい雰囲気にしてしまっては。
頭ではそうわかっているのに。
「シリウス様⋯⋯わたくしたち、夫婦になってから半年が経ちました。わたくしは、そろそろシリウス様の温もりを知りたいです。もっと⋯⋯近づきたいんです」
勇気を振り絞って伝えたあと、左肩に置かれた手を両手で包み込むようにして、自分の頬に持っていく。
上目遣いでじっと見つめると、彼の表情はみるみる内に曇っていった。
どうしてそんな悲しそうな顔をされるの?
シリウス様は私の手をそっと振りほどき、何度か深呼吸をした後、覚悟を決めたように口を開いた。
「ミラ、すまないが、僕はこれ以上、君との関係を深めるつもりはない」
シリウス様は深刻な表情で、きっぱりと言った。
決して聞きたくなかった言葉を、シリウス様本人の口から告げられる。
「シリウス様、それはいったい、どういう意味でしょうか? 夫婦となったのに、関係を深める気がないとおっしゃるのは。だって、わたくしたち、このままじゃ、いつまで経っても⋯⋯」
「言葉の通りだ。君が何を試みようとも、僕の考えは変わらない。無駄な努力は止めた方が良い。痛々しくて見ていられない」
シリウス様は、ネグリジェ姿の私の肩にブランケットをふわりとかけた。
取り付く島もないほどの、はっきりとした拒絶。
その言葉が意味するのは、私という存在がシリウス様にとって魅力の無い、愛するに値しない妻だということ。
あまりのショックに胸が割れたように痛む。
「シリウス様、わたくしはシリウス様を愛しています。シリウス様はそうではありませんか?」
「何を言っているんだ。そんなはずがないだろう。僕は誰よりも君を想っている。僕にとって君以上に大切なものなんて存在しないんだ」
「だったら⋯⋯だったら、どうして、わたくしのことを愛してくださらないんですか? 今まで一度だって、好きだと言ってくださったことはありましたか? キスだってしてくださらないし、そんなの愛してると言えるのでしょうか? 少なくともわたくしには、そうは思えません」
思わず咎めるような言い方をしてしまう。
けど、シリウス様は何も言い返してこられなかった。
私はただ、愛されているって実感したいだけなのに。
シリウス様に妻として認められたいだけなのに。
どうしてそんな簡単な愛情表現さえもしてくださらないの?
沈黙されたままということは、肯定しているのと同じことじゃない。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯君は、泣くほど僕に抱かれたいのか?」
シリウス様は、痛々しいものを見るような目で私を見つめる。
そっと涙を拭う手つきは、哀れな人を慰めるみたいで⋯⋯
その言葉を聞いて、私の中の何かがぷつりと切れた。
「シリウス様、突然押しかけて、馬鹿なことを言って、お手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。わたくし、もう疲れてしまいました。あなたといると自分がとんでもなく惨めに思えて、寂しくて虚しくて⋯⋯もう、あなたに愛して欲しいなんて言いません。あなたへの想いも今日で断ち切りますから。あなたはわたくしと結婚して、いったい何がしたかったんですか? わたくしってそんなに価値のない人間ですか? こんな毎日が続くくらいなら、いっそ、このまま消えてしまいたいです」
満たされない心が悲鳴をあげている。
今までぐっと堪えて、飲み込み続けて来たものが抑えきれなくて、涙も、発せられる言葉も、コントロールが失われる。
「ミラ、違うんだ。僕だって君にこの気持ちを伝えたいんだ。けれども制約があって、言葉には出せないんだ。僕はただ君を守りたくて」
辛そうなシリウス様の言葉に、余計に胸がえぐられる。
愛情表現が出来ないのは、あくまでも自分のせいではないとでも言うの?
もっとマシな言い訳をしてくださればいいのに。
私を愛してくれないシリウス様が憎い。
愛する人に愛してもらえない自分が憎い。
この世界の全てが憎い。
醜い憎しみの感情に支配されると、身体を黒いモヤが包み込み、首を絞められているみたいに苦しくなった。
「うぅ⋯⋯はぁ⋯⋯あぁ⋯⋯くっ⋯⋯」
そのまま床にしゃがみ込む。
どうしよう。息が出来ない。
「ミラ! どうしたんだ? しっかりするんだ!」
シリウス様は慌てた様子で私の肩を抱く。
苦しさで首をかきむしる私の手を握ると、目を見開きながらつぶやいた。
「首に紋様が浮かび上がっている。これは⋯⋯魔女の呪いなのか? あの日だ。恐らく狼の魔物に襲われた時に呪いをかけられたんだ。僕はいつも君が誰かに殺害されるのか、事故に遭うのかと思っていた。そうか、全てはこの呪いが原因だったのか。ミラ、いつもいつも、苦しい想いをさせてすまなかった。もっと早く記憶を取り戻せていたら⋯⋯」
シリウス様が何の話をしているのか、私にはよくわからなかった。
ただ分かることは、シリウス様が辛そうにしているということ。
「ミラ、死なないでくれ。僕の前からいなくならないでくれ。君は僕の全てなんだ。頼む。僕はなんだってするから⋯⋯⋯⋯」
大好きだった彼の紫色の瞳から、涙が止めどなく溢れてくる。
泣いているシリウス様なんて、初めて見たかもしれない。
その涙に触れると、ほんの少しだけ首元の締めつけが和らいだような気がする。
でも、騙されてはいけない。
今の今まで大切にしてくれなかったくせに。
本当はどうでも良いと思ってるくせに。
徐々に意識が薄れていく中、黒髪黒眼の女性の幻が見えた。
『お願い。彼を信じてあげて。終わらない苦しみから救い出してあげて』
美しい女性は、こちらに手を伸ばしながら、必死に訴えかけてくる。
夢に魔女が出てくるのは二回目だけど、顔立ちが少し違うから、彼女は慈愛の魔女シェダルなんだろうか。
正直、今の私に彼を信じる勇気はもう残されていない。
けど、決して彼が苦しむ姿が見たいわけではない。
私がどうにかできるのなら、救い出してあげたい。
差し出された魔女の手を握った瞬間、私の意識はぷつりと途切れた。