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煌星のバルトラ  作者: ハル
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追憶


「初めて見た海は想像していたよりもずっと美しく広大で、まるで恋に落ちたかのように、ダレスはその光景から目が離せなかったのです。」


 ゆっくりとページをめくる女の容姿は、恐ろしいほどに整っている。艶やかな白金色の髪と、そこから覗く、薄紫の瞳はまるで宝石のように美しい。


 その隣にちょこんと座る、顔立ちが女と瓜二つの幼い少年は、星空のような印象的な瞳を輝かせて女を見上げた。


「うみ…きれい?」


「ええ、きれいよ。とってもね…」


 もう見ることは叶わない場所に思いを馳せ、焦がれるように、女は呟いた。そんな女をじっと見つめ、少年は自身のちいさな手をぎゅっと握りしめる。


「…ぼくのおてて、おおきくなったら。おそとでれるよ。」


 齢三つほどの少年は、幼いながらその瞳に確かな決意の光を宿していた。


「ユーリがね、かあさまつれてってあげるの。」


ーーーーーやくそく!


 そう言って屈託のない笑顔を向ける少年に、女は言葉を返すことはなく、ただ美しく微笑んだ。




***



 母と過ごしたある日の記憶を、ユリウスは母に寄り添うように横たわりながら反芻していた。いや、反芻というと語弊があるかもしれない。


 意識が混濁するたび、遠い日の記憶が脳裏にこびりつき、現実へと引き戻されるのだ。


 お前は行かなくてはならない。


 死ぬことなど許されない。そんな感覚で支配される。


 母への罪悪感からか、それとも生への執着がそうさせているのか。


 あの後、扉の先で倒れていた母に、ユリウスは何度も回復魔法を施した。しかし、母が息を吹き返すことはなく、それでも未練がましく回復魔法を掛け続けた結果、魔力枯渇を起こし、起き上がることもできなくなった。


 当然の結果だ。

 母の命は、地面に叩きつけられた直後、完全に途絶えていた。死んだ者は決して生き返ることはない。


 わかっていた。あの光景を目にした瞬間に理解していたはずだ。


 それでも、縋るように魔法を行使し続けたのは、それをやめた瞬間に、その現実を受け入れなければならないことへの恐怖からだったのかもしれない。


 遺体相手に回復魔法をかけ続ければ、魔力は当然すぐ底をつく。


 残り三割を切るとで軽い目眩や人によっては吐き気をもよおし、二割を切ったところで意識の混濁、そして気を失う。


 人は気絶することで無意識に自身の命を守ろうとするが、ユリウスはそのタガが外れていたようだ。


 母の死という現実を、脳が拒絶していたのだろう。一割を切ってもなお使い続けたために、おそらくこのままだと死ぬだろう。


 動けなくなってからどれぐらいの時間がたったのかもわからないが、ふと空に視線を向けると朝焼け色に染まってきていた。


 喉の渇き、吐き気、めまい、そして意識の混濁。思考も徐々に回らなくなってきた。


 死が目の前へと迫っている。だからなのだろうか、こんなにも昔のことを思い出すのは。


 母と過ごした記憶の中で、あの日の約束を何度も何度も思い出す。


 この塔から出ることはおろか、何も成せぬまま、たったひとつの約束すら守ることができない。


 なんて非力なんだろう。

 

 なんて情けないんだろう。


 今日ほど己の無力を呪わない日はなかった。


 もっと力があれば、知識があれば、母さんをこんなつめたい場所で、死なせずに済んだのに。


「なんで…っ…」


頬を涙が伝い落ちていく。


ふと横にいる母に目を向ける。凄惨な光景には似つかわしくないほど、その表情は穏やかに見えた。


「母さんは…何から解放されたかったの?」


 不自由な人生から?


 病の辛さから?


「それとも、僕…から…?」


母が死んでしまった今、もう生きる意味がない。母のいない世界で、自分だけ笑うことなんかできない。生きていてはいけない。そう思った、


思考も鈍くなり、徐々に瞼が重くなっていくのを感じる。自分ももうすぐ母と同じ場所へ行くのだろう。


「ごめんね。」


掠れて、音にもならないような声。


その贖罪の言葉は、救えなかった母へのものか、1人ぼっちにしてしまうジュノへのものか、それとも…


ユリウスの口元が悔しげに歪み、そのままゆっくりと瞼を閉じた。





***





 ユリウスは物心ついた頃にはこの塔で暮らしていた。


 裏門のそのすぐそばに、横に長い小窓のような隙間があり、毎日一度が二度ほど、そこに食事が置かれている。


 硬い黒パンに、野菜の切れ端が浮いたスープ。それに水差し。毎日ほとんど同じもので、時折りぐちゃぐちゃの残飯なようなものが皿に盛られていることもあったが、生きるため、食べられるものはなんでも食べた。


 食事を運んできているのは何者なのか、彼らがどこからやってきて、どこへ帰っていくのか、こちらからは何も見えない。時折人の気配がするだけだ。


 よく母とその場所まで手を繋いで歩いた。


 庭園に咲く草花を愛でながら、時折たわいの無い話をしながら、母の優しい手に引かれゆっくりと歩く。そんな優しい時間がユリウスは好きだった。


 一人分の食事がのったトレーを母が持ち、暖かい日にはそばにある一階のテラスでたべる。もちろんそれだけではとても足りない。


 だから、庭園に生えている野草や干し肉を調理して食い繋いだ。


 母は、武器や魔法の扱いがうまかった。だからまだ動くことができていた頃は、庭園にやってくる小動物や鳥を狩り、干し肉などの備蓄食にしていたのだ。


 ユリウスにも、母はたくさんのことを教えてくれた。五つくらいの頃、気になってに聞いてみたことがある。


「ねぇ、母さんはどうして剣や弓が上手なの?」


「小さな頃からたくさん練習したからよ。」


「なぜたくさん練習したの?」


 ユリウスの純粋な問い。しかし母は言葉を詰まらせた。


「‥‥母さんにはね、それしかなかったの。そしてそれが、みんなが幸せになる道だと信じて疑わなかった。」


 そう言った母の瞳が揺れる。遠くを見つめて、何かに思いを馳せているような、何かに深く後悔しているような、そんな表情だった。


「うまくいかなかった…?」


 異変を感じ、ユリウスは気遣うように母の手をそっと握る。


「そうね。うまくいかなかった。…ぜんぶ。何もかも。私は……」


 自分の何気ない質問が、母の心の琴線に触れてしまったと気づいた時にはもう遅かった。呼吸がどんどん浅くなり、やがて嗚咽しながらうずくまる。ユリウスは慌てて母の背中をさすった。


「母さん!?大丈夫だよ!心配しないで、僕がそばにいるよ。大丈夫だから…!息を吸って!」


 母は、昔のことを思い出し、パニックに陥っているようだった。どうにか安心させてあげたくて、そばに寄り添い必死に声をかけ続ける。


「わたしがっ…全部私のせいで、私が死ぬべきだったのに!!ごめんなさいっ…ごめんなさい…!お母様!」


 そう泣き叫びながら顔を両手で覆い膝から崩れ落ちる。しかし直後、バッと顔をあげ、ユリウスの肩をがしりと掴んだ。あまりの強さに、痛みで顔が歪む。


「…母さん?」


 母は血走った瞳でユリウスの顔を覗き込んでいる。掴まれた両肩は母の爪が食い込み、血が滲んでいた。


「ユリウス、私を海に連れて行ってくれるって約束したわよね。故郷に連れて行ってくれるって。そうでしょう?ねぇ!!」


 優しい母の変貌に衝撃をうけ言葉が詰まり何も答えることができずにいた。その間にも肩口はどんどん血で滲んでいく。


 痛みや恐怖心より、不安感が自身の中で大きくなっていくのを感じていた。


 このまま母の心は壊れてしまうのではないか。まるで別人のような姿に、今まで母がひとり抱えてきた孤独や苦しみ、自責の念や何かに対する深い憎しみが垣間見えいつのまにか涙が溢れた。


 ユリウスの涙をみてハッとしたような表情になったセレスティナは、我に帰った様子でユリウスから手を離し、ユリウスの血が滲んだ指先を呆然と見つめていた。


「…なんてこと…ユーリ、ご、ごめんなさ…」


「母さん、大丈夫、大丈夫だよ。今日はきっと疲れてたんだ。部屋に戻って、ゆっくり休もう。」


 そう言ってそっと母の手を引いて塔の中へと歩みを進めた。


 それから少しずつ。


 母は壊れていったんだ。





***







《…ーーーリ!ユーリ!!》




 聞き慣れた声に意識が浮上する。目を開けると、ジュノが心配そうにこちらを覗き込んでいた。


《ユーリ!よかった、目を覚ましたか!》


「…ジュノ。」


 まだぼんやりとする頭で、辺りをゆっくりと見回すと、馴染みのある壁紙が目に入る。


《まっったくおぬしは!!無茶をしおって!あやうく死ぬところだったのだぞ!?》


 ジュノは、怒りが抑えきれない様子で毛を逆撫でている。よく見ると、ジュノは全身ボロボロだった。泥だらけで、全身至る所に引っ掻いたような切り傷が無数にできている。そばのカゴには土まみれの雑草の山。よく見ると魔力回復効果のある薬草がところどころに見える。


 この結界の中では魔物はある程度制限を受ける。魔力枯渇を起こしたユリウスを見て、ジュノはおそらく自身の魔力を分け与えてくれたが、制限を受けた状態の魔力量では補えなかった。


 記憶を辿り、草木をかき分け、必死に魔力回復のありそうな植物を森で根こそぎ摘み取り、手当たり次第に口に詰め込み魔力を補いながら、ユリウスに魔力を流し込んでくれたのだろう。


 ーーー意識を失う前、いったい自分は何を考えていた?


 こんなに自分を大事に思ってくれる存在を残して、平気で死を受け入れたことに、今更気づいた。


 今までずっと、一緒にいてくれた、支えてくれたジュノを裏切るような行為だ。


「…」


 ジュノの口元は、おそらく薬草を無理やり詰め込んだせいで切り傷ができ、ところどころ毛が血で固まっている。


 そんな姿を見て、後悔や罪悪感、いろんな感情が胸の中でうずまき言葉が詰まってでてこない。


《…死にたかったのかもしれんがな、ユリウス、お主はかつて、わしに夢を見せたのじゃ。》


「…夢」


《そう、夢じゃ。…共に見ようと誓った夢じゃ。それを果たさず、ひとり先に死ぬことなど、絶対に許さぬぞ。…っわしをひとりにして!おぬしだけ逝こうというのか!!》


ジュノのいう『夢』


塔の屋根の上、そこから見える景色の先を夢見ながら、語り合った。


ーーこの景色の先を見に行こう。いっしょに。


そう約束した。

しかし、ずきりと痛んだ頭の中に、別の微かな記憶の断片が蘇る。


ーーーわしを、ーーーれ。


あの時、ジュノはなんといっていたのだったか。いや、これは、いつの記憶だ?


《この広い世界を、お主と共に見て歩きたい。


まだ知らぬ地平線の向こう、見たことのない星空、知らない風の匂いを感じてみたい。


夢を歩むのも、そして終わらせるのも、ユリウス…わしにはお主しかおらぬのじゃ。》


ジュノの声は痛々しく震えている。


自然に手が伸びた。ジュノの体温を感じるようにぎゅっと両手で抱き抱える。


「…ごめんっ、ごめんね。もう絶対にこんなことしないよ。君をひとりにしない。…ごめん…っ…」


頬を伝った涙が、頬を流れ落ちていった。


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