誰がために
ーーーガシャァァン!!
何が割れたような大きな音によって、夢の底から無理やり引きずり上げられるように、ユリウスは目を開いた。
「……!」
(…今の音…まさか)
すぐに立ち上がり、迷わず母の部屋へと走り出す。
この塔には自分たちの他に誰もいない。侵入者などはありえない。だとしたら、音の主は一人しかいない。
「ジュノ!母さんの部屋だ!」
《わしが先に見てくる!》
ジュノが風のような速さでユリウスの隣を駆け抜けていった。その後を追い、階段を駆け上がる。
母の部屋は一つ上の階。距離的にはさほど離れていないはずなのに、今はそれがとても遠く感じる。
胸が苦しい。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てている。
何か、取り返しのつかないことがおきている。そんな気がしてならなかった。
なぜかわからない。しかし、嫌な予感が自分の中でどんどん大きくなっていくのを感じた。
階段を登り終えた廊下の先、セレスティアの部屋の前でジュノが硬直しているのが見えた。
「ジュノ!母さんはっ――」
駆け寄ったユリウスの目に飛び込んできたのは、砕けた色硝子。月の光を受けて、床に青や赤や金の影が歪に伸びている。
割られた窓からは満天の星空が見えた。その景色に引き寄せられるように、セレスティアは立ち尽くしている。右手に、美しい紋様が刻まれ剣を握りしめているその横顔は、息を呑むほど静謐で、美しかった。
(だめだ、止めないとーーー)
なぜかそう思った矢先の一瞬の出来事。
しかし永遠のような感覚だった。
母はこちらを振り向くこともなく、窓枠を越えた。
ユリウスの視界から、母の姿が消えた直後、肉が潰れるような鈍い音が響いた。
喉の奥でひゅっと音が鳴る。息が吸えない。
視界が揺らぎ、手足が震える。
「…っ」
(待って、母さん……うそだ……)
ユリウスは、思うように動かない体を無理やり引き摺るように、色硝子の割れた窓辺ににじり寄る。
喉はひゅうひゅうと浅く鳴り、まともに呼吸すらできていない。まるで誰かに両手で心臓を握られ、ゆっくりと潰されているようだ。
(見たくない……)
心が叫んでいた。
嫌だ、やめてくれ、それだけは耐えられないーー
震える手が、窓辺に触れた。
身体の奥にこもった熱が、その冷たさをきっかけに引いていく。
(いやだ、いやだ、いやだ……)
脳の奥で、繰り返し叫んでいる。
膝が震える。全身が痙攣しているかのように、小刻みに震えがとまらないのだ。
ユリウスは歯を食いしばり、目をぎゅっと閉じた。
もう一度、深く息を吸おうと試みたが、空気はうまく入ってこない。喉の奥でつかえる。
苦しい。それでも、揺らぐ意識の中やっとも思いで目を開けた。
眼下に、塔の真下の石畳が見える。
白い月光に照らされたその中央に、広がる鮮烈な赤。
徐々に広がる花のように、静かに、じわじわと広がっていく。
そして、その中心に――
「っ……うっ…」
喉から悲鳴とも嗚咽ともつかない音が漏れる。
世界が音を失い、風の音も、夜の虫の声も、何もかもが消えた。
血の海の中心に、不自然にねじれた四肢。
小さく見える母の体が、そこに倒れていた。
残酷な光景が、脳に焼きつく。
ーーあぁ、今見た光景は、生涯自分の中から消えることはないだろう。
感情的なものか、生理的なものかわからない涙が溢れ出す。頬をつたう感覚すらわからないまま、視界だけが歪んでいく。
「……母さん……」
誰に届くともわからない、震える声で呟いた。崩れ落ちるように、窓辺にしがみついたまま、その場にうずくまる。
「…っおぇ…」
嘔吐感が込み上げる。心が壊れていく音が、身体の内側から聞こえるようだった。
《ユーリ! 息を吸え! 落ち着け!》
ジュノの声が遠くで聞こえる。まるで水の中に沈んでいるような、くぐもった音で。
信じられない。
信じたくない。
しかし、脳にこびりついた赤が何度も蘇り、容赦なく現実を突きつけてくる。
いや、母さんは死んでない。まだ助けられる。
足をもつれさせながら、立ち上がった。そして螺旋階段を、ほとんど転がるように駆け下りる。
《ーーユーリ!!》
うしろでジュノがユリウスを呼ぶ声が聞こえた気がした。
頭が真っ白だ。
ただ、あの場所へ行かなければ。
母がいる場所へ――
その感情だけで埋め尽くされていた。
何度も、何度も、足がもつれる。それでも無理やり立ち上がった。
吸っても、吸っても、空気が思うように吸えず苦しい。
「……っか、は……っ、あ……!」
浅い呼吸が喉の奥で引っかかり、咳のように漏れる。心臓の音が耳の奥で爆音のように響いている。
「……っ母さん…」
喉がひりつく。
目の前の景色が揺れている。
涙か、めまいか、それすらわからない。
ただ、前だけを見つめ進んだ。
「おいていかないで……っ!」
手すりに体を預け、壁に背を叩きつけるようにして曲がり角を曲がる。
そして――ようやくたどり着いた中庭へ続く扉。
その扉の向こうに、母がいる。
ユリウスは震える手で扉を押し開け、飛び出した。