知識の結晶
塔の螺旋階段を一段登るたび、ユリウスの中には、重苦しい感覚が広がっていた。
いつもそうなのだ。あの部屋に向かう時は、決まって心が沈んでいく。
温かなスープから立ち上る湯気の温かさが、ほんのすこし気持ちをほぐしてくれるような気がして、ゆっくりと息を吸い込んだ。
目的の部屋へたどり着くと、ユリウスはいつも通り笑顔を貼り付けて部屋の扉を開けた。
「母さん、おはよう。今日はいい天気になりそうだよ。」
部屋の奥には天蓋付きのベッドがひとつ。天井から垂れる白い天蓋は薄く透け、その奥に人影が見える。
室内はユリウスがほとんど毎日掃除しているため清潔だ。
塔の中には数え切れないほどの部屋がある。その全てをユリウス一人で管理することは到底不可能。
時間が惜しく、自室もおざなりになりがちだが、この部屋だけは、管理を徹底していた。
体力が落ち、1日のほとんどをベッドの上で過ごしている母に、少しでも心地よく過ごして欲しかったからだ。
ユリウスは静かに歩み寄り、天蓋をそっと開く。
「具合はどう?」
いつもと同じように語り掛ける。ベッドに横たわるのは、一人のやつれた女。
ユリウスと同じ白金色の髪はくすみ、頬は痩せこけ、骨ばった輪郭が際立っている。彼女の瞳は窓の外をただ見つめていた。
彼女の名は、セレスティア。――ユリウスにとって、たった一人の大切な家族。
ユリウスはそばにあった椅子を引き寄せ、トレイを膝に置くとスプーンを手に取った。スープをかき混ぜるたび、わずかに湯気が立ち上り、その香りが広がる。
「ほら、良い香りでしょ?今日は少し香りを変えてみたんだ。」
スプーンでスープを掬い、セレスティアの唇へと近づける。しかし、その唇は頑なに閉ざされ、何も受け入れようとはしない。
──この瞳も、以前はあたたかく、優しいものだったんだ。
***
「ユリウス、ほら、こっちにおいで。」
笑い声が響く、柔らかな草の上、幼いユリウスは転びそうになりながらも母の腕の中に飛び込んだ。
すぐそばで飛び立った鳥を嬉しそうに見つめ、手を振るユリウス。
彼の小さな手を握りしめ、セレスティアは微笑んだ。長く美しい髪は風に揺れ、陽の光を受けてきらめいていた。
セレスティアはじっとユリウスの瞳を見つめた。
「ユリウス、あなたもいつかあの鳥のようにここを離れる日がくるのかしら。」
声は穏やかで、優しくて、ユリウスはその声を聞いているだけで心が満たされた。そしてセレスティアは、そっと囁くように言った。
「でも、どんなに広い世界に行っても、──のこと、忘れないでね。」
幼いユリウスはきょとんとした顔をして母を見上げる。セレスティアは、そんなユリウスに美しい微笑みを向け、彼の額に優しく口づけを落とした。
***
ふと昔の幸せだった日々を思い出す。
「…母さん、あの時なんて言ってたんだっけ。」
うまく聞き取れなかっただけか、幼さゆえに理解できなかったのか。
セレスティアは日に日に心を病み、言葉を話すことすら出来なくなっていった。
今となっては、本当にここを出ることを望んでいるのか聞くことすら叶わない。しかしもう後戻りはできないのだ。
「…ここを出る時は、母さんも一緒だよ。時間がかかってしまったけれど、もうすぐここを出られる。明日だ。」
自分自身の決意を固めるように、ユリウスは言葉を紡いでいく。
「絶対に…絶対に明日ここを出るよ。だから、母さん。もう少しだけ待っててね。」
そう言って、セレスティナの手をそっと握り、額に当てがった。
窓の外では風が木々を揺らし、揺れる影がセレスティア顔に影を落とす。その時、瞳がかすかに揺れたように見えた気がした。
「…食事、ここに置いておくから。…食べてね。」
揺れ動く感情を内に秘め、ユリウスは立ち上がり部屋を後にする。
扉を開けると、すぐそこにジュノがいた。ふわふわとした毛が、窓から差し込む光を吸い込んで優しく揺れている。
「…ねぇジュノ、母さんが話すことができなくなってから何度も考えた。母さんは、もう生きることを望んでいないのかもしれないって。食事を摂れなくなってからは、寝た後に魔力を強制的に流し込んで、命を繋ぎ止めているけれど、それが正しいことなのか……わからなくて苦しかった。」
ユリウスが震える声で吐き出した言葉を、ジュノは何も言わず聞いてくれている。
「母さんを苦しみの中に閉じ込めているのは、僕自身なんじゃないかって。そう思いながら生きてきた。ずっと。…でも、いくら考えても、悩んでも。いつも辿り着く答えは一緒なんだ。僕は母さんに生きていてほしい。一緒に生きたい。ここにいたら、僕らは孤独に死んでいくだけ。だから…」
《…そうか。……ユーリ、飯を食おう。腹が減っては何もできぬ。食って、寝て、英気を養い、明日に備えるんじゃ。》
「…そう、だね。」
ジュノのはいつもユリウスを見守っていてくれる。話を聞いてくれる。そばにいてくれる。彼の存在が、どれほど自分の支えになっていたか、きっとジュノは知らないだろう。
心の中で揺れ動く波が穏やかになっていくのを感じる。
ジュノと出会うこともなく、ひとりぼっちのままだったら、どうなっていたんだろう。孤独に耐えきれず、もしかしたら命を経っていたかもしれない。
きっと、ユリウスの心はとっく昔に壊れていたはずだ。
《ぐわっ!なんじゃ急に!》
「…ううん、なんでもない。」
ユリウスはジュノを抱き上げ、その柔らかい毛並みを力一杯抱きしめ、顔を埋めたのだった。
***
明日、塔を出るという実感が改めて湧いてきているようだ。なぜか気持ちがそわそわとして落ち着かない。
生まれてから今まで自分たちを縛ってきた場所。しかし、同時に母やジュノと過ごした大切な思い出も、全てこの場所にある。
憎らしくも、愛おしい。ある意味、自分の人生の一部とも言える。そんな場所で過ごすのもあとわずか。
――その事実に、自分でも驚くほど様々な感情が溢れ出してくる。
何度も、その日が来ることを願い続けてきたはずなのに、いざその瞬間を前にすると、足がすくむ気がした。
「…このためだけに、生きてきたんだ。」
小さな呟き。自分の声がどこか他人のもののように感じた。
夕食の支度をしながら、ふと手が止まる。テーブルに並んだ料理。
すぐそばでは、ジュノが皿に顔を突っ込み、ものすごい勢いで頬張っている。いつも通りの日常だ。しかし今日は、スープの味も香りも、どこかぼんやりと感じられた。
「これがこの場所での最後の食事になるのかな。」
ユリウスは目の前のスープをじっと見つめる。そこには、見慣れた自分の顔が写っていた。
食事を食べ終え部屋に戻ったユリウスは、荷造りを始めた。
前々から準備は進めていたものの、最終確認は必要だろう。それに、中庭にある薬草や作物たちも、いくつか持っていきたい。
乾燥させたものと、すでに煎じてあるものも、持てる限り持っていった方が良いかもしれない。
外に出たあとは拠点を見つけ、生活をしなければならないのだ。不測の事態は起こり得る。備えは多い方がいい。
部屋のいたるところに山積みになっている本も、整理しなければ。
ユリウスは部屋にある本の全てを浮遊魔法で持ち上げた。
《あそこへいくのか?》
ジュノはユリウスの肩に乗ってクワァとあくびをしている。
「うん。本を元いた場所に戻してあげないとね。」
そうしてユリウスは、本を浮遊魔法で持ち上げたまま、自室からほど近い扉を開ける。その先に広がっているのは、塔の中心を貫くように造られた、巨大な円錐型の空間だ。
中心部がぽっかりと空洞になっており、壁沿いに何層にも渡って本棚が置かれ、階ごとに分野分けされた、膨大な量の本が保管されている。
錬金術、精霊学、魔法理論、歴史、呪術、生物学……その全てが、世界中から集められた知識の結晶だ。
本を抱えたまま、ユリウスは無言で足を進める。空洞の縁に設置された細い台座へと片手をかざして魔素を流すと、柔らかく白く光る魔道具が反応し、空中から足場が出現した。
《しかし、相変わらずすごい数じゃの。……ここにある本全てを読み終えたとはにわかには信じられん。》
ぐるりと辺りを見回しながらジュノが言った。
「ジュノと出会うまでは、一人だったから…本を読んでる間は、孤独を忘れられたんだ。読みたびに世界が広がって、楽しかった。…でも、一番熱心に読んだのは薬草学と、魔法に関する本。その二つは、それこそ全て頭に入ってる。必死だったからね。」
日に日に表情を失っていくセレスティアをなんとかしたくて学んだ二つだ。
《……そういえば、文字は誰に教わったんじゃ?》
「母さんだよ。僕が小さい頃は、よく読み聞かせをしてくれたんだ。大陸言語を基盤に、本で調べながら他の言語も覚えていったんだ。」
そんな話をしながら、ユリウスは移動用魔導具の足場に乗ると、ゆっくりと上昇をはじめた。
この塔の中心部は、100階まで存在している。もしこの移動用魔道具がなければ、ユリウスがここにある本をすべて読み切ることは不可能だったかもそれない。
足場に乗り上昇を続けたまま、各階に本を戻していく。一回一回降りて戻していくよりも、この方が効率がいいのだ。
最上部までたどり着いたユリウスは、ジュノを抱き上げ、隅にある階段を登った。
最上部までたどり着いたユリウスは、ジュノを軽く抱き上げると、隅に設けられた狭い階段を上っていった。
その先にある小さな扉を押し開けた先――そこは、塔の最上階すら越えた場所。屋根の上、空と最も近い場所だった。
風がふわりと髪を撫で、裾を揺らす。
目の前に広がっていたのは、遮るものひとつない、美しく、どこまでも続いていく景色。
眼下に広がる森の木々が、風に合わせて波のようにうねり、陽光を受けて葉のひとつひとつが煌めいている。
ユリウスの背後、塔の尖塔に嵌め込まれた色ガラスの窓が日の光に照らされ、赤や青、金や翠の光が宝石のように辺りに反射する。
眼下に見える、塔の周りをぐるりと囲む外壁。その向こう側――本の中でしか知ることの叶わない、世界の輪郭が見えるようだった。
ここの景色が、ユリウスは大好きだった。
腕の中で小さく動いたジュノの柔らかな毛をそっと撫でる。
「……信じられる?明日自分の足で、あのずっと広がっていく世界を自由に歩くことができるなんて。ずっと、恋焦がれてきたあの世界をーー」
本でしか見たことのない世界を、母と一緒に、自分の足で歩けたらなどんなに素敵なことだろうと、何度考えたかわからない。幼い頃は、そんな叶わぬ夢に想いを馳せるだけでも十分幸せだった。
しかし、日に日に弱っていく母を見て、このままではいけないと、この場所を出るための術を必死に模索するようになっていったのだ。
朝から晩まで本を読み耽り、魔術を高める訓練も文字通り血を吐くまで毎日続けてきた。魔力枯渇まで魔力を使い切り、意識を失ってはまた限界まで使い続ける。そうすることで最大魔力量の増幅を行ったのだ。
決して楽な道ではなかったと思う。それでも続けて来れたのは、母を助けたかったから。
「…本当に長かったな…。」
とても自然にこぼれ出た言葉。しかしなにか違和感を感じた。
(長い…)
なぜかその言葉にひっかかった。なぜかはわからない。事実ユリウスは物心ついた頃からずっとこの日を夢見てきたのだ。しかし、何か違和感があった。
ユリウスは今年で15歳。しかし不思議とそれ以上の年月を、この場所で過ごしたような感覚を抱く。
「長い…?」
《ユリウス、どうかしたか?》
「……いや、何でもない。」
塔の上空、高く高く昇る雲を見上げながら、ユリウスはそっと息を吸い込んだ。