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煌星のバルトラ  作者: ハル
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episode2 誰がために



塔の螺旋階段を一段一段登るたび、ユリウスの胸には重苦しい感覚が広がっていた。足音が硬い石の壁に吸い込まれ、冷たく響く。


温かなスープから立ち上る湯気の温かさが、ほんのすこし気持ちをほぐしてくれるような気がした。目的の部屋へたどり着くと、扉の前で立ち止まり、ゆっくりと息を吐く。


「母さん、おはよう。今日はいい天気だよ。」


ノックの音は小さく、それに続く扉の軋みが静寂を切り裂く。部屋の奥には天蓋付きのベッドがひとつ。白いカーテンは薄く透け、そこに横たわる影がかすかに見えた。


室内はユリウスが定期的に掃除しているため塔の中では最も清潔だ。静かに歩み寄り、カーテンをそっと開く。


「母さん、具合はどう?」


いつもと同じように、ユリウスは微笑みを浮かべながら語り掛ける。ベッドに横たわるのは、やつれ果てた女性。


ユリウスと同じ白金色の髪はくすみ、頬は痩せこけ、骨ばった輪郭が際立っている。彼女の瞳は窓の外をただ見つめ、焦点の合わない瞳にユリウスの存在は映っていない。まるで、どこか遠い世界を見つめているかのようだ。


セレスティア――大切な、ユリウスにとってたった1人の家族。


ユリウスはそっと椅子を引き寄せ、トレイを膝に置くとスプーンを手に取った。スープをかき混ぜるたび、わずかに湯気が立ち上り、その香りが広がる。


「ほら、良い香りでしょ?今日は少し味を変えてみたんだ。」


スプーンをすくい、セレスティアの唇へと近づける。しかし、その唇はかすかに震えるだけで、何も受け入れようとはしなかった。


「…。」


何も言わず、ユリウスは再びスプーンを近づける。けれど、セレスティアの瞳はただ窓の外を見つめたまま。


──かつてこの瞳はもっとあたたかく、優しかった。


***


「ユリウス、ほら、こっちにおいで。」


笑い声が響く。柔らかな草の上、幼いユリウスは転びそうになりながらも母の腕の中に飛び込んだ。


すぐそばで飛び立った鳥を嬉しそうに見つめ手を振るユリウス。彼の小さな手を握りしめ、セレスティアは微笑んだ。銀の髪は風に揺れ、陽の光を受けてきらめいている。


「ユリウス、あなたもいつかあの鳥のようにここを離れる日がくるのかしら。」


彼女の声は穏やかで、優しくて、ユリウスはその声を聞いているだけで安心できた。そして彼女は、そっと囁くように言った。


「でも、どんなに広い世界に行っても、──のこと、忘れないでね。」


ユリウスはきょとんとした顔をして母を見上げる。そんなユリウスに微笑みを向け、彼の額に優しく口づけた。


***


ふと昔の楽しかった日々を思い出す。


「…母さん、あの時なんていったんだっけ。」


彼はゆっくりと息を吸い、吐く。


「…ここを出る時は、母さんも一緒だよ。時間がかかってしまったけれど、もうすぐここをでられる。明日だ。」


自分自身の決意を固めるように、ユリウスは言葉を紡いでいく。


「絶対に…絶対に成し遂げてみせるよ。だから、母さんももう少しだけ待ってて。」


ユリウスはセレスティナの手を祈るようにそっと握った。窓の外では風が木々を揺らし、揺れる影がセレスティアの頬に微かに動く光を落とす。その瞳が、かすかに揺れたように見えたが、それもただの錯覚なのかもしれない。


「…食事、ここに置いておくから。…食べてね。」


揺れ動く感情を内に秘め、ユリウスは立ち上がった。扉を開けるとユリウスを見つめるジュノがいた。ふわふわとした毛が、光を吸い込んで優しく揺れている。


「…ねぇジュノ、時々考えてたんだ。母さんは、もう生きることを望んでいないのかもしれないって。食事を摂れなくなってからは、寝た後に魔力を強制的に流し込んで、命を繋ぎ止めているけれど、それが正しいことなのか……わからない。」


ジュノは何も言わず聞いている。


「母さんを苦しみの中に閉じ込めているのは、僕自身なんじゃないかって。そう思いながら塔の研究を続けてきた。でも迷うのも今日で最後。僕は母さんに生きてて欲しい、ただそれだけなんだ。」


《…そうか。今日はもう休もう、ユーリ。明日に備えてな。》


「うん。」


ジュノは、ただその優しい瞳でユリウスを見守る。その瞳を見つめていると心の中で揺れ動く波が穏やかになっていくのを感じた。



***



セレスティアの部屋を後にしたユリウスは、無意識に足を速めていた。塔の中にひっそりと響く足音が、彼の胸の中で鳴る鼓動と重なり、普段感じないような高鳴りを覚えた。息を吐いても、手に取った道具がいつもより重く感じられる。明日、塔を出ると言う実感が改めて湧いてきているようだ。


明日ここを出る。――その事実に、自分でも驚くほど重い感情が溢れ出してくる。何度も、その日が来ることを願い続けてきたはずなのに、いざその瞬間を前にすると、足がすくむ。


「…このためだけに、生きてきたんだ。」


ユリウスは小さく呟き、自分の声がどこか他人のもののように感じた。長い間、塔の中で一人、入念に準備し、学び、待ち続けてきた。外の世界を夢見て、全てを捧げてきた。なのに、その決断がこんなにも怖い。


夕食の支度をしながら、ふと手が止まる。テーブルに並んだ料理。すぐそばでジュノがさらに顔を突っ込み、ものすごい勢いで頬張っている。いつも通りの光景。しかし今日は、スープの香りすら、まるで遠くから聞こえてくる音のようにぼんやりと感じられた。


「これがこの場所での最後の食事になるのかな。」


ユリウスは食事を見つめる。塔で過ごしてきた日々、その全てを背負って明日、外に踏み出すことを決めた。しかしその一歩を踏み出すことで、何を失い、何を得るのか、まったく予測がつかない。世界が広がることを、心のどこかで恐れている自分がいた。


食事を食べながらも、ユリウスはどこか落ち着かない。手が震え、口に運ぶスプーンの感触さえ普段よりも感じることができなかった。


夕食を食べ終え部屋に戻る。いたるところに山積みになっている本。机の上を埋め尽くし、壁にも至るところにユリウスが魔術式や、薬学を書き記した羊皮紙が貼られている。そのひとつひとつが、ユリウスの生きてきた証のようにも感じる。


「長い…本当に長い道のりだった…。」


とても自然にこぼれ出た言葉。しかしなにか違和感を感じた。


(長い…)


なぜかその言葉にひっかかった。なぜかはわからない。事実ユリウスは物心ついた頃からずっとこの日を夢見てきたのだ。しかし、何か違和感があった。


いや、些事に思考を割いている場合ではないなと思いなおし、ユリウスは本の山にそっと触れる。


長年この塔で積み重ねてきたもの。その知識が、力が、外の世界でどれほど通用するのかわからない。


いままではただ、明日を生きること、ここを出ることだけを考えて生きてきた。自分の未来がこんなにも不確かに感じられるのははじめてのことだった。


夜の風が窓を通り抜け、ユリウスの頬をかすめる。その冷たさが、ほんの少しだけ彼を落ち着けてくれる。


「そろそろ寝よう。」


ユリウスは布団に身を沈め、まぶたを閉じた。

浮かぶのは、かつての母の笑顔。あの柔らかな微笑みが翳ったのは、いつからだっただろう。


明日、外に出る。

そのとき母に伝えたい言葉がいくつも浮かぶ。


塔を出たそのとき、自分はどんな顔をしているだろう。


そんなことを思いながら、ユリウスはそっと目を閉じた。

そして静かに、夢へと沈んでいった。


***


ガシャァァン!!


鋭くて、乾いた音だった。

夢の底から無理やり引きずり上げられるように、ユリウスは目を覚ました


「……!」


(…今の音…まさか)


すぐに立ち上がり、迷わず母の部屋へと走り出す。

この塔には他に誰もいない。

侵入者などありえない。

だとしたら、音の主は一人しかいない。


そして――

母の寝台の周りには、割れるものなんてなかったはずだ。


「ジュノ、来て!母さんの部屋だ!」


《ユーリ!わしが先に見る!》


ジュノが駆け抜けていった。

ユリウスもその後を追い、階段を駆け上がる。


胸が苦しい。

何かが起きている。

何か、取り返しのつかないことが。


嫌な予感が自分の中でどんどん大きくなっていくのを感じた。


階段を駆け上がると、部屋の前でジュノが硬直しているのが見えた。


「ジュノ!母さんはっ――」


目に飛び込んできたのは、砕けた色硝子。

月の光を歪に受けて、床に青や赤や金の色を落としている。


割られた窓からは満天の星空が見えた。その景色に引き寄せられるように、セレスティアは立ち尽くしている。右手には、壁に飾られていた装飾剣が握られていた。


その横顔は、息を呑むほど静謐で、美しい。


(動かなきゃ、止めなきゃ――)


なぜかそう思った矢先。

きっと一瞬の出来事。

しかし永遠のように感じた。


母は振り向くことなく、窓枠を越えた。


ユリウスの前から母の姿が消えた直後、

石畳を打つ、肉が潰れるような鈍い音が響く。


喉がひゅっと鳴る。息ができない。

震える手足。視界がゆらぐ。


「…っ」


(待って、母さん……うそだ……)


ユリウスは、思うように動かない体を無理やり動かすように、色硝子の割れた窓辺ににじり寄る。

喉はひゅうひゅうと浅く鳴り、まともに息ができない。

胸が圧迫されている。

まるで誰かに両手で心臓を握られ、ゆっくりと潰されているようだった。


(見たくない……)


心が叫んでいた。

嫌だ、やめてくれ、それだけは――

けれど、目を背けることは許されなかった。


この現実を、確かめなければいけない。

たとえ心が砕けても、この目で。


震える手が、窓辺に触れた。

石の縁は冷たく、ざらついていて、指先にひっかかる感触があった。身体の奥にこもった熱が、その冷たさをきっかけに引いていく。


(やめて、やめて、やめて……)


脳の奥で、繰り返し叫んでいる。


膝が震える。

全身が痙攣しているかのように、小刻みに震えがとまらないのだ。

自分の呼吸音も、遠くから聞こえるようだ。


時間の流れが歪んでいく。

一秒ごとに、心が刻まれていくような感覚だ。


歯を食いしばり、目をぎゅっと閉じた。


(母さんが……そこにいる……)


もう一度、深く息を吸おうとしたが空気はうまく入ってこない。喉の奥でつっかえ、咳にもならず、ただ喉がぎゅっと縮んで声も出せない。


それでも――

ユリウスは、恐る恐る目を開けた。


視界の底に、塔の真下の石畳が見える。

白い月光に照らされたその中央に、広がる鮮烈な赤。

徐々に広がる花のように、静かに、じわじわと広がっていく。


その中心に――


「っ……!」


喉から悲鳴とも嗚咽ともつかない音が漏れた。

心臓が一度、止まったような気がした。


一瞬だけ、世界が音を失う。

風の音も、夜の虫の声も、何もかもが消えた。


血の海の中心に、白い影。

不自然にねじれた四肢。

小さく見える母の体が、そこに倒れていた。


目を、逸らせなかった。


逸らしたくても、逸らせなかった。

その景色が、瞼の裏に焼きついた。

あぁ、この光景は、脳に焼き付けられたかのように、二度と自分の中から消えないだろう。


感情的なものか、生理的なものかわからない涙が溢れ出す。頬をつたうという感覚すらわからないまま、視界だけが歪んでいく。


「……母さん……」


誰に届くともわからない声で呟いた。崩れ落ちるように、窓辺にしがみついたまま、その場にうずくまる。


心が壊れていく音が、身体の内側から聞こえるようだった。


≪ユーリ! 息を吸え! 落ち着け!≫


ジュノの声が聞こえる。けれど遠い。

まるで水の中に沈んでいるような、くぐもった音。


(嘘だ、こんなの……母さんが、死ぬなんて……)


信じられない。

信じたくない。


でも目の前の景色は、容赦なく現実を突きつけてくる。

歯を食いしばり、足をもつれさせながら、ユリウスは立ち上がった。そして螺旋階段を、ほとんど転がるように駆け下りる。


≪ユーリ!≫


うしろでジュノがユリウスを呼ぶ声が聞こえた気がした。


頭が真っ白だ。

思考が追いつかない。


ただ、あの場所へ行かなければ。

母がいる場所へ――

その感情だけで埋め尽くされていた。


何度も、何度も、足がもつれる。

それでも手すりを掴んで無理やり立ち上がった。


身体がついてこない。

息ができない。

吸っても、吸っても、空気が入ってこない。


「……っか、は……っ、あ……!」


浅い呼吸が喉の奥で引っかかり、咳のように漏れる。

胸が痛い。

鼓動が早すぎて、耳の奥で爆音のように響いている。


脳は悲鳴を上げているのに、足は勝手に動いている。

ただ前へ。


「……ま、って……っ母さん……」


喉がひりつく。

言葉にならない声が漏れるたび、涙と唾が一緒に喉を焼く。


階段は終わらない。

螺旋が永遠に続くように思えた。


目の前の景色が揺れている。

涙か、めまいか、それすらわからない。

ただ、足元だけを見つめて、必死に、必死に――


「おいていかないで……っ!」


手すりに体を預け、壁に背を叩きつけるようにして曲がり角を曲がる。


そして――ようやくたどり着いた玄関の前。

扉の向こうに、母がいる。


ユリウスは震える手で扉を押し開け、夜の闇へと飛び出していった。


世界は静かだった。

冷たい夜風が、ユリウスの髪をそっと撫でた。



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