第60話 悪夢
ピー ピー
電子音だけが、部屋にこだましていた。
「──────恋花」
浅い呼吸が、三上の耳を掠める。その血走った目が、三上を見つめている。
「違う……私のせいじゃない……」
他の誰でもない。三上をベッドの上に押し倒していたのは恋花である。その瞳は三上に留まっているはずだが、焦点があっていない。
「翔真だって言ってくれた……」
「恋花、っ……!!」
包帯に包まれた指が、三上の首に食い込む。ブツブツと何か言いながら、恋花は三上の首を絞め始めていた。
「健護は、私のせいで死んだんじゃない…!」
「あ、く……」
大きく見開かれた目に見つめられながら、三上は苦痛に顔を歪めた。息が出来ない。視界が狭まっていく。無意識にばたつかせる足すらも、のしかかった恋花の身体のせいで上手く動かない。
「私のせいじゃない…私のせいじゃない…」
ピー ピー
荒い呼吸と電子音だけが、妙に耳に残っていた。
「っ──────助、け」
「シ、キ」
「……!!」
電子音に紛れて聞こえた、か細い声。それを合図に、恋花は三上から勢いよく手を離した。直後、三上は反射的に、かつ急速に呼吸を開始し、激しく咳き込み始める。
「っ!がはっ!ごっ、ごほっ!」
「……え?私、何を──────」
右腕に走った激痛に驚く恋花。その脳裏には、数秒前から今に至るまでの記憶が駆け巡っていた。
ピー ピー
耳に残る電子音が、彼女を駆り立てる。罪悪と後悔の念を。
「あ、ああ……四季、違うの!私、私…!」
「ごほっ…恋花ぁ…!」
不信と蔑み。
そのどちらもを宿らせた瞳が、恋花を射抜く。悪い夢を見ているのだ。これは現実ではない。恋花は今目の前にある全てから逃避しようと、自分に言い聞かせていた。だが、これは現実であるのだと、ここから逃がすまいと、包帯まみれの腕から流れてくる痛みが、彼女を掴んで離さない。
「なんで?私、四季を守るためにここに…今度こそ、守るために…なのに…!」
「っ、オレは、恋花の弟の代わりに、ここに来たんじゃない!!」
伸ばされた腕から逃げるように、三上はベッドを飛び出し、部屋から駆け出して行った。
「待って!!──────義牙!四季を捕まえてっ!!」
叫ぶが、義牙は三上を追おうとしなかった。主人を憐れむような目で、何も言わず、首を横に振るのみ。恋花の行き場をなくした手は、何も無い虚を掴むしかなく…。
「……違う。違うの……四季……」
ピー ピー
やかましく鳴る音。耳を塞いでも、耳から離れることはなかった。
〜〜〜〜〜〜
息を切らして走る。
一刻も早く離れたかった。
あの場にい続ければ、オレはどうなるか分からなかった。
「はっ……はっ……!」
何も考えたくなかった。
必死に手足を動かした。
何も考えなくてよくなるように、ただ走ることだけを考えていた。
『健護は、私のせいで死んだんじゃない…!』
悪い夢を見ているようだった。
本当に、本当に、恋花はオレを見ていなかった。オレのことを、三上四季として見ていなかった。
「はっ……はは!ははは!!」
どうして?いつから?考えないようにしていても、恋花への不信感は募るばかり。
いつの間にかオレは、病院から遠く離れた、いつもの街中へと出ていた。足を止め、息を切らして項垂れるオレに、周りの人々は視線を向けるが、すぐ何も無かったかのように目線を外していく。
「なんだよ……オレ、情けないな……」
こんな時、翔真だったら。
『翔真だって言ってくれた……』
『そこから解放してくれたのが翔真だったんだ』
きっと、恋花を救っていた。
翔真の代わりになると息巻いていたオレは、誰にもなれていなかった。翔真が救ったはずの彼女のことを、蹴落とすようなマネを、オレはしてしまった。それが分かっているというのに……。
『シキ!はやくこいよ!』
『シキくん、呼んではるで』
『シキ様ぁっ!待ってください!』
相も変わらず流れてくる、存在しないはずの記憶に戸惑う。
「オレは、オレは、誰なんだよ……!」
何を成せた。何に成れた。気にするのは自分のことばかり。こんなんじゃ、オレは誰にも──────
「あれ?四季じゃん。病院行ってきたんじゃねぇの?」
「……飾音」
顔を上げると、飾音が目を丸くしてこちらを見ていた。
「シロはどうだった?」
「ああ、やっぱりまだ、目を覚ましてなかった…」
「ん?どうした、ただ事じゃねぇって顔してっけど」
「……いや、何にも」
「何にもってことはねぇだろーがよ……元気出せよ。シロはすぐ目ぇ覚ますって!」
「うん、ありがとう」
笑いかけながら、飾音はオレの肩を叩いてくれる。彼女なりの精一杯の気遣いなのだろう。でも、そんな真心さえも、今のオレにはどうでもよかった。早く家に帰って、眠りたい。何も考えないようにしたい。その一心で、オレはそこから逃げ出そうとした。
「あっ、おいちょっと待ってくれ」
そんなオレを、飾音は呼び止めた。
「あー……あのさ、今朝聞こうとして、聞かなかったことなんだけどよ」
そのまま、飾音は気まずそうに話を切り出していく。
「四季……お前さ、今までの人生の中でよ、“時枝”って名字を聞いたことねぇか?」
「時、枝…?」
「会った時からよ…ちょっと怪しいと思っててな…」
「…なに、それ。どういうこと」
「あ、いや悪ぃ、気にするな。本当にちょっとだけでもいい。親戚とかでよ、そういう名字の人いなかったか?親戚とかじゃなくても、周りの人とかでもいいんだけどよ」
「……今までの、人生」
記憶を、探る。
オレは三上四季。18歳。
幼馴染の名は高澄翔真。
彼とは、家が近いこともあってか、生まれたころから両親共々の付き合いで、中学までは毎日のように顔を合わせていた。中学までというのは、高校を上がった辺りでオレが遠くの方へと引っ越したから。こんな時代なので、スマートなフォン的な何かで連絡は取れるものだが、直接会うことはまずなく。徐々に翔真とは疎遠になって…。
「オレは」
三上四季。18歳。
オレのことである。
「オレは」
三上四季。18歳。
「──────。」
「四季?どうした」
「分からない」
「そっかぁ……まぁ、そうだよな。忘れてくれ、そんな重要なことじゃねぇから」
それじゃあ、と言って、飾音はどこかへ消えていく。1人、取り残されるオレ。
「オレは、三上四季」
独り言ちる。
どこで、いつ生まれ、何をしていた。
三上四季、18歳。何度、口に出してみても──────それ以前のことが思い出せなかった。
オレは、誰なんだ。
ゾワリとした悪寒が、止まず背を走り続けていた。




