初恋1
父親同士が仲良くて、物心ついたときにはもう好きになっていた。
だからケントに会うたびに「大好き」って言った。
すると、ケントは「ありがとう」って笑ってくれる。
年上のケントは物知りで、何でもできて人気者だったから、私も誇らしかった。
周囲の人たちはケントのことを『次期侯爵様として素晴らしい』って言っていたけれど、そんなことより何もできない私に優しくて、助けてくれるところが素敵なの。
私に向けてくれる笑顔が大好きで、何度も何度も「大好き」って伝えた。
でもいつからかケントは笑わなくなって、「ありがとう」の代わりに「うん」って返事だけになって。
それで今は……。
「ケント、今日も会えたわね!」
「ああ、そうだな」
「私と踊ってくれる?」
「……この後でな」
「ありがとう、ケント。大好き!」
私が社交界デビューしてからもう三年。
一度もケントからダンスに誘われたことはないけれど、こうしてお願いすれば踊ってくれる。
だからお礼を言っただけなのに、ケントは渋い顔をした。
「アリーシャ、いい加減それはやめろよ」
「それ?」
「もう子どもじゃないんだから、馬鹿なことは言わないほうがいい。誤解されるだろ」
「誤解じゃないわ。事実だもの」
「……大人になれよ、アリーシャ」
ケントは大きくため息を吐いて離れていく。
私はもう十分に大人だわ。
毎日たくさんのデートのお誘いがあるし、お父様の許には求婚の許可を求める男性たちが列をなしているくらいなのよ?
お父様は、私が小さい頃から「お前のことを本当に愛してくれる人と結婚しなさい」って言ってくれていたから、世間の偉そうな父親と違って結婚を強要されないだけ。
夜会に出席すれば、たくさんの男性がダンスの申し込みにやってくる。
それでもケントと約束するまでは、順番をいっぱいにするわけにはいかない。
ケントが出席するだろう夜会は前もって調べているから、偶然を装って、運命を装ってアピールしているの。
この曲が終われば、今は別の女性と踊っているケントだって、私をまっすぐに見てくれるわ。
そうして待っていれば、ケントは私を迎えにきてくれた。
「――なあ、アリーシャ。そろそろ、こういうのはやめないか?」
「こういうの?」
「俺とダンスを踊るまで他のやつらからの申し込みを断ったり、俺が出席する夜会を調べたりすることだよ」
「知ってたの?」
「そりゃな。でも俺は急に欠席することだってある。それなのに、アリーシャは俺が現れるまでずっとダンスを踊らないつもりか? 不毛だよ」
「そんなことないわ」
「……もっと他の男と踊ったり、話したり、デートしたり……俺以外のやつのことを知るべきだ」
「必要ないもの」
「あのなあ……。じゃあ、正直に言うよ」
「何?」
「俺はもうアリーシャとは踊らない。だから、俺を待つことはやめてくれ」
「からかってるの?」
「本気だよ」
嘘だわ。だって、ケントは優しくて、私に意地悪なんてしないもの。
そう信じていたのに――。
「ケント、今日こそ私と踊ってくれる?」
「いや、もう他に約束があるんだ」
強引に誘えば答えてくれると思ったのに、こうして断られてばかり。
本当に本気だったの?
「ねえ、アリーシャ。あなた、そろそろ空気を読んだらどう? みっともないわよ?」
「シャーリー……」
「エリクソン卿は私と踊ってくださるの。さあ、行きましょう?」
「ああ。じゃあ、アリーシャも楽しんで」
楽しめるわけないのに、ケントは酷い。
私と同じ三年前に社交界デビューしたシャーリーはまだ未婚で、今年こそ夫を捕まえてみせるって意気込んでいたのを知っているわ。
ケントはシャーリーと結婚するつもりなの?
腕を組んで踊りの輪に加わる二人を見送っていると、親友のナルシーが近づいてきた。
「――ねえ、アリーシャ。そろそろあなたは他の男性に目を向けるべきよ。エリクソン卿は今だって別の女性と踊っているのよ?」
友人のナルシーは先月結婚したばかり。
だけど二人の間に愛はないのって、笑って教えてくれた。
貴族の義務として、家同士の話し合いで決まった結婚だからって。
「ナルシーは今……幸せ?」
「特に好きな人がいたわけでもないし、未婚のときより自由になれたから楽しいわ。後は跡継ぎを産めば、もっと好きにできるのよ?」
「そう……」
でも、幸せとは言わないのね。
お父様が言っていたように、本当に私のことを好きな人と結婚したら、幸せになれるのかしら?
私が好きでなくても?
あの夜から、ケントは本当に踊ってくれなくなっていた。
出席すると聞いていた夜会に現れないこともしばしばで、姿を見せても私を避けているみたい。
どうにか話しかけても、すぐに打ち切られて、踊りに誘っても先ほどのように断られてしまう。
周囲の人たちは私たちのことをどうしたのかと噂して、ついに私が振られたんだと笑ってるみたい。
それから、誰がケントの花嫁になるかって予想してる。
その候補から私は脱落してしまったのね。
ええ、本当はわかっていたわ。
ケントは優しいから、今までやんわりと望みがないことを伝えてくれていたのに、私がまったく聞き入れなかっただけ。
ケントとはもうひと月以上もまともに話していない。
もうすぐシーズンが終われば、もっと会う機会も減るのかな。
今まではシーズンオフのときには侯爵領に遊びに行って、ケントと少しでも一緒に過ごせるよう頑張っていたけど。
考えてみれば、最近のケントはお友達のお屋敷に出かけてしまっていることも多かったわね。
避けられていたのに、気付かなかったなんて、自分のおめでたさに笑える。
「――アリーシャ、会わせたい人がいるの」
「お母様?」
ナルシーと一緒に会場の隅で話しながら、踊るケントを目で追っていると、お母様が若い男性を伴ってやってきた。
お母様から男性を紹介されるのは初めてで緊張する。
お母様もケントを諦めさせようとしているのかも。
そう不安に思いながら男性に目をやると、どこか見覚えがある気がした。
「アリーシャ、彼に会うのは久しぶりでしょう? ナルシー、彼は知り合いの息子さんでハリスン・ウォルター卿よ。ハリスン、この子がアリーシャよ。少しは大人っぽくなったでしょう? こちらはアリーシャの友人のナルシー・ヨイセン子爵夫人」
「ハリスン・ウォルターです。どうぞハリスンとお呼びください」
「初めまして、ハリスン」
「ハリスン・ウォルター……?」
お母様の紹介で挨拶してくれたハリスに、ナルシーはにこやかに挨拶を返した。
私は曖昧に答えただけだったけれど、ぼんやりしている間にハリスと踊ることになってしまった。
それはお母様だけじゃなく、ナルシーの後押しもあったから。
「……アリーシャ? 僕を覚えている?」
「ええ、ハリス。あまりに変わっているから……名前まで変わっているから驚いただけよ」
「名前は変わったわけじゃないよ。少し省いたんだ」
「でも肝心のストックトンと名乗らないなんて」
「問題かな?」
「少しね。でも、騒がれたくないんでしょう? あなたがシーズン中に顔を出したってなると、奪い合いの大騒ぎになるでしょうから」
「そんな……俺、食べられちゃう?」
「パクリとね」
大げさに脅せば、ハリスもわざとらしく震えてみせる。
そんな自分たちがおかしくて二人で笑った。
彼はハリスン・ウォルター・ストックトン。
たぶん他にも名前があるはずだけれど、私はよく知らない。
小さい頃から彼のことはハリスとしか呼んでいなかったから。
「王都は久しぶりだから、様子見に来たんだ」
「おば様も一緒なの?」
「ああ。だけど、夜会はあまり好きじゃないらしい」
「何となくわかるわ」
私ももう疲れてしまった。
この二年は何をしていたんだろうって思ってしまう。
未婚の女性にとっての社交シーズンは夫を探す大切な場所。
私には探す必要はないと――もう夫は決まっているんだとばっかり思っていたから、ケントと踊るため、そしてナルシーのような友人とおしゃべりを楽しむ場所だった。
だけど、友人のほとんどは結婚してしまったし、ケントとはもう踊れない。
本当に何をしているのかしら。
「ねえ、アリーシャ。シーズンが終わったら、久しぶりに家に遊びに来ないか?」
「ストックトンに?」
「ああ。もうずいぶん長い間、来ていないだろう?」
「……そうね」
辺境伯であるストックトンの領地は遠いけど自然が多くて美しくて、とても素敵な場所。
社交界デビューする前には何度か訪れていたけれど、ここ数年はケントと少しでも過ごしたいがためにエリクソン領に訪れてばかりだったのよね。
残りは自領地にお友達を招いて過ごしていただけ。
「母さんも喜ぶよ。息子ばかりでむさ苦しいって、よく嘆いているから」
「おば様らしいわね」
踊りながらくすくす笑っていたら、視線を感じた。
そちらに目を向ければ、ケントがふいっと顔を逸らす。
私を見ていたのかしら。
少しくらいは私を気にしてくれてる?
それならひょっとして、この後ダンスに誘ってくれるかも。
その期待も虚しく、ケントは他の女性とばかり踊っていた。
未婚女性とも何人かと。
でも私を誘うことも、近づくこともなくて、本当に私には望みがないんだと、はっきりしてしまった。
(初恋は実らないって、おば様が言っていたのだったかしら……)
何年か前に聞いた言葉。
他にも時々、恋愛小説で出てくる言葉。
そんなことないって、ずっと自分に言い聞かせていたけれど、そろそろ認めるべきなのかも。
おば様は二度目の恋でとても幸せになれたって言っていたわ。
確かに、おじ様がおば様のことを熱愛しているのが、子どもだった私にもわかったくらいだもの。
「ねえ、ハリス。おば様とおじ様は相変わらず仲良しなの?」
「うんざりするくらいね。今回も本当は父さんも来たがったんだ」
「何か問題でもあったの?」
「いや。単に新しく開墾する土地の監督のために残らざるを得なかったんだよ」
「そうなのね」
「まあ、せっかく王都に来たんだから、シーズンが終わるまでは滞在する予定なんだ。それまでは一緒に遊ぼう」
「いいわよ」
最近また増えてきた求婚者をかわすためにも、ハリスの提案は魅力的だった。
それ以上に、子どもの頃と変わらず接することのできるハリスと過ごすのは楽しそうでわくわくする。
次の日からは、ハリスをいろいろな場所に案内した。
まずは定番の公園で散歩をしたり、観劇に行ったり、夜会にも一緒に出席したわ。
すると、私たちが付き合っているとか、結婚間近なんて噂があっという間に流れ出したみたい。
それがおかしくてハリスと笑い、その誤解を解かないでいることにした。
そして、いよいよ今シーズン最後の夜会。
顔だけ出して早めに帰ろうと、ハリスとは決めていた。
明日にはもうストックトンに向けて発つから。
そこでハリスが飲み物を取りに行ってくれているとき、久しぶりにケントが話しかけてきてびっくり。
「アリーシャ。今度はいつうちに来る予定なんだ?」
「……いいえ。行かないわ」
「来ないって? でも父さんも楽しみにしてるはずだ。毎年来てるんだから」
どうしてケントはこんなに残酷なのかしら。
大好きな人に相手にされないのに、それどころか別の人と結婚するかもしれないのに、その姿を見てろってこと?
本当に不毛ね。
「おじ様にはもう伝えているわ。また来シーズン会えることを楽しみにしてくださるって」
「本当に?」
「ええ」
お屋敷でも話題には出たかもしれないけれど、きっとケントは興味がなくて聞き逃していたんじゃないかしら。
おじ様はとても残念がってくれていたから。――もう侯爵領に遊びに行くことはないと思うと伝えたときに。
「たぶん、この先お邪魔することはないと思うわ。ほら、お互い結婚したら……色々とあるでしょう?」
「本当に結婚するのか?」
「え、ええ……」
私だっていつまでも報われない恋をするつもりはないわ。
お父様の言う、愛される幸せを感じたいもの。
「……アリーシャ、明日訪問してもいいか?」
「え……いえ。ごめんなさい。明日にはハリスの領地に向けて出発するの。あ、でもお父様は数日遅れて出発する予定だから、お父様に用事があるなら――」
「いや。……大丈夫だ」
「そう? もしよければ遊びに来る? ハリスに頼めば――」
「必要ない!」
「ケント?」
「ごめん。その……とにかく楽しんで」
「ええ、ありがとう」
いつも冷静なケントが怒ったように言うなんて。
どうしたのかと心配になる。
そういえば、今日はいつもと様子が違うわ。
ひょっとして結婚が決まったとかの報告を言おうとして、言い出せないとか。
「私、もう行かないとハリスが待ってるから。さよなら、ケント」
「アリーシャ、待ってくれ!」
「ご、ごめんなさい」
ケントが結婚したなんてニュースはすぐに入ってくるのはわかってる。
だけど、本人からは聞きたくない。
明日が出発でよかった。少しでもニュースを知るのが遅くなるから。
ケントに見られているのはわかったけれど、振り返ることはしなかった。
ちょうどハリスが戻ってきてくれたから、飲み物を受け取って一気に飲み干す。
「アリーシャ? 大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ねえ、ハリス。もう帰りましょう」
「それはいいけど……」
ハリスはちらりと私の後ろに視線を向けてから頷いた。
何があったのかはわからなくても、私の気持ちは察してくれたみたい。
今はハリスの存在がありがたくて、その腕にぎゅっと掴まって歩き始めた。