寵愛と偏愛
少女が目の前に座ったことで、俺は改めて、図書館の中を見回すことになった。もちろん、そこにはたくさんの本が並べられた本棚が立ち並んでいるのだが、そのどこにも人はいなかったはずだ。
椅子から全てが見られるわけではないが、少なくとも、人がいる気配はなかった。いるとしたら、当たり前に聞こえてくる音も聞こえてこなかった。
そのはずだが、少女は天岐が立ち去った直後に現れた。
まさか、この図書館の中に隠れていたのか?そう考えてみたら、天岐の言っていたことの意味もようやく理解できる。
「それ以外にもう一人いるので」
司書以外に人がいるという発言で、俺は幽霊でも見えているのかと怯えたが、天岐はこの少女がいることに気づいていたとしたら、その発言にも納得できる。
もちろん、少女が潜んでいることに気づいていて、それを放置している点などは疑問でしかないが、それは一旦保留にして、問題は目の前の少女が隠れていた理由だ。
わざわざ、図書館に隠れるとは何事かと考えそうになったが、それは既に姫渕さんが答えを教えてくれていた。
「光峰未実。彼女は私が犯人候補として考え、最後の一人として追加した人物です。生徒会の副会長を務めている他、演劇部の部長として、様々な劇でヒロインを演じています」
その説明を受けながら、スマホに映った光峰の姿を見て、確かにヒロインに最適であると俺はその時に思った。
神が設計図を描き起こし、一ミリのズレもなく、精巧に作られたとしか思えないほどに、全てのパーツが綺麗に整った顔立ちは、現実感すらなくなる美しさだ。
犬山さんが可愛さの権化であるなら、光峰未実は美しさの権化というところだろう。
その光峰を犯人候補として、何故姫渕さんが挙げたのかと疑問に思ったが、その理由は非常に簡潔だった。
それを思い出した直後、俺の目の前で真剣な顔をした光峰が口を開いた。
「突然のことで申し訳ありませんが、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
その質問に俺が答えるよりも先に光峰が口を開く。
「天岐会長とどのようなお話をなさっていたのですか?」
「彼女は天岐会長のことが好きなようです」
光峰の質問と一緒に姫渕さんの声が頭の中で再生した。恥じらうように頬を赤く染め、チラリとこちらの様子を窺ってくる姿は、確かに恋する乙女のものだ。
その気持ちが自分に向いていたら、この状況も楽しめたのかもしれないが、向いていない今はいろいろと状況的に恐怖しかない。
天岐をひっそりと隠れて見守る光峰に、それに気づいていながら、一切何のリアクションも取らずに帰った天岐。
最近の高校生はこういう関係が成立しているのか?あまりに特殊な嗜好過ぎないか?
そう思いながら、俺は取り敢えず、脇に置いたビニール袋が見つからないように、テーブルの下に押しやった。これがここで見つかったら、最悪の場合は通報される。
いや、本当にどうして俺の周囲には通報される危険性しか転がっていないのだろうか?この社会は少しおかしいと俺は思う。
「あの…?」
俺が質問に答えることなく、ビニール袋をテーブルの下に隠すのに必死になっていたためか、光峰は唐突に身を乗り出し、俺の顔を覗き込むように見てきた。
突然、視界の半分以上を支配した綺麗な顔に、俺は背骨を折る勢いで仰け反り、危うく後頭部を床に打ちつけるところだった。
美人は美しさが凶器になることを理解していないから質が悪い。急に近づくタイミングと相手は選ぶべきだ。
「どうされました?」
演劇部の部長であるから、と言うわけではないと思うのだが、光峰はやけに芝居がかった口調で、不思議そうに首を傾げていた。
精緻な美しさに少女の未熟さも感じさせる愛らしさが動きで加わり、正に凶器以外の表現ができないほどの破壊力を持っているが、光峰はそこに関して無自覚のようだ。
この辺りは犬山さんと同じに思えるが、天岐は犬山さんのことが好きで、光峰は気づいても放置していた。
つまり、そういうことらしい。
「いやいや、別に何も!えーと…さっき何を話していたかだっけ?何でそんなことを?」
正直に答えると通報の危機や、犬山さんの命の危機があるので、その辺りを答えることは申し訳ないができない。
ここはお茶を濁せるだけ濁して、そのお茶をぶっかけて逃走することにしよう。
そう考えた俺の前で光峰が身を捩り始めた。赤く染まった頬を隠すように両手で覆い、視線を軽く俺から逸らす仕草は、恥じらう乙女そのものだ。
「何でと言われましても…それはもちろん…私が天岐会長をお慕いしているからです」
はい、知っています。それこそが光峰を犯人候補の一人に姫渕さんが推薦した理由なのだから、知らないはずがない。
問題は光峰の気持ちではなく、光峰の行動の方だ。
天岐が好きなことは分かったが、それで天岐が何を話していたのか気になるのなら、本人に直接聞けばいいことだ。
いや、そもそも、俺と天岐が何かを話していたとして、それを光峰が知る理由は特にないように思える。
仮にこれが恋人同士だとしても、その相手の友人との会話まで把握する人はいないはずだ。
それが今は知ろうとしている。そこまで踏み込む必要があるのかと俺は思った。
「えっと…さっきの子が好きなんだ?」
「はい…それはもう…私の全てを捧げたいほどに」
俺も全てを捧げられてみたい。天岐に殺意が懐くほどに強くそう思ったが、それは本題から離れることだ。
俺はここで光峰が犬山さんに呪いをかけたかどうか判断する必要がある。
そのために、何だか既に怪しさしか醸し出されていないものに飛び込む必要があった。
俺、これが終わったら、自転車を取りに行くんだ―――
「俺とさっきの子が何を話していたとか聞く必要がある?さっきの子のことなら、君の方が知っているだろうし」
「そんなことは関係ありません!」
光峰がテーブルを強く叩きながら立ち上がり、静かな図書館をその音が響き渡った。この音を聞いても裏にいるという司書が出てくる気配はなく、俺は何となく、あの司書も光峰のことを知っているのかと思った。
「私がどれだけ会長のことを知っていても、知らない会長はそこにいるのです。貴方と話した会長を私は隣で見たわけではありません。その瞬間の会長を知らないのに、会長のことを好きと自信を持って言えるはずもありません」
興奮した様子で呼吸を荒げながら、力説する光峰に俺は何も言えなかった。言葉が出てこないとかではない。
単純に怖かった。光峰の愛情が明らかに常識の範囲から超えていることに指摘することも恐ろしかった。
だって、全てを知る必要などないはずだ。知らない瞬間の相手は多くあるはずで、他の誰かよりも多くその人を知れていたら、それだけで近くなったと言えるはずだ。
それは相手との付き合い方で自然となっていくもので、それを自分から必要以上に作り出す必要はない。
それこそ、それは世間でストーカーと呼ばれるようになる。
まさか、天岐の部屋にこっそりと忍び込み、盗聴器を仕掛けていたり、隠しカメラを忍ばせていたりしないだろうな?と俺は不安になった。
そこもできれば追及したいところだが、藪を下手につついて、本当に蛇が飛び出してきた時に俺は対処ができない。対処をしたくない。
場合によっては呪いよりも先に死ぬ運命がガードレールよりも的確に転がっているかもしれない。
ここはこれ以上の追及をやめて、大人しく、犬山さんの方に話を転がすべきだと俺は思った。
だが、問題はそこだった。どうやって、犬山さんの話を切り出すのか、俺は全く考えていなかった。
少し悩んでから、取り敢えず、ジャブ的な質問をぶつけて、反応を窺ってみようかと俺は考える。これで何かが分かるとは思えないが、最初の一手としては悪くないだろう。
「もしも、さっきの子に君以外の好きな子がいたら、どうするの?」
「殺しますね」
「…………え?」
「殺しますね」
笑顔で正解が飛んできた。これは間違いなく黒だろうと俺じゃなくても思う正解の言葉だ。
これは光峰で確定なのか?そう考えた瞬間、光峰がテーブルの上に身を乗り出し、俺の腕を掴んできた。
「え…?もしかして、会長に好きな人がいるという話だったのですか…?もしそうであるなら、それは誰ですか…?教えてください」
血走った目で言ってくる光峰に誰が教えるかと思ったが、それを口に出したらいると言っているようなものなので、俺は取り敢えず、かぶりを振った。
「違う違う!可能性の話!いたら、どうするのかなって!さっきの子とは読んでいた本の話をしただけだから!」
「あら、そうなのですね」
安堵したように笑みを浮かべ、光峰が椅子に戻っていったが、安堵したのはこっちの方だった。危うく殺人事件を引き起こすところだった。
しかし、今の反応からすると、もしかしたら、光峰は天岐が犬山さんに告白した事実を知らないのかもしれないと思った。
現状、ここに光峰がいる時点で、天岐をいつも尾行しているわけではないのだろう。その隙に天岐が犬山さんに告白し、振られる結果になった可能性は十分に考えられる。
何より、天岐は光峰の存在に気づいていた。その性格も把握していたのなら、犬山さんの身を案じて、告白のタイミングくらいは選ぶかもしれない。
そう思ったら、光峰が白である可能性と、その光峰に話すのではなく、呪いをかけるという遠回しな手段を取るのかという疑問が湧き、天岐も白である可能性が浮上してきた。
どちらも歪んでいるのだが、その歪み故に呪いではなく、もっと直接的な手段を用いそうだ。
また分からなくなった。そう頭を抱える俺の前に、光峰が一枚の紙を置いてきた。見るに誰かの連絡先の書かれた紙なのだが、その紙に疑問を持って顔を上げると、光峰が笑顔で言ってくる。
「もしも、また会長とお話しすることがあれば、そこに連絡くださいね。何を話していたのか、全て教えてください。お願いしますね」
さもなくば殺す、とは言っていないが、そう付け加えられたような気持ちになり、俺は光峰様の連絡先を受け取るしかなかった。