ティッシュと匂い
次の候補者は――と進みたいところだったが、足利が学校に行ったということは、その後に授業が続いているということで、犬山さんと同じ高校に通っている候補者達と逢うことは部外者の俺には不可能だ。
なので、取り敢えず、家に帰ってから、川に落ちて冷え切った身体を温めて、壊れてしまった自転車を自転車屋に持っていくことにした。
壊れたと言っても、チェーン部分が引っかかって動かないくらいできっと直るはずだ。いや、直れ。
その思いが通じたのか、取り敢えず、自転車は見てくれるようで、閉店前に取りに来るように言ってくれた。変な壊れ方はしていないので直りそうではあるらしい。
そちらは良かったのだが、問題は体調の方だった。
自転車を持っていく前に急いでシャワーを浴びて、何とか身体を温めようとしたのだが、その時には既に遅かったのか、自転車を修理してもらうために運んでいる時には、何だか頭がぼうっとし始めていた。
鼻水も垂れてきそうになるので、家に帰ってきてスマホで動画を見ようと思っても、鼻の穴にティッシュを詰め込まないと集中できない。
このままだと夕方に家を出ることもできなさそうだったので、それまでに何とか体調を回復させようと、俺は一度眠ることにした。昼寝というより二度寝に近い睡眠時間だが、体調を回復させるにはこれが一番だ。
ベッドの上で布団に包まり、俺は鼻にティッシュを詰め込んだまま、目を瞑る。何かを考えられるほどに頭は働いていないので、目を瞑っているだけで自然と意識は眠りに落ちていく。
そこまでは何となく覚えているのだが、その次の記憶はなく、気がついた時にはベッドではなく、革張りのソファーの上に座っていた。
ここはどこだろうと思いながら、ソファーの前にある衝立を見て、俺は鴉羽さんの喫茶店を思い出した。あの時とは違い、特徴的な香りも、ラブホテルを連想させる照明もないが、その構造はあの喫茶店のあの一角そのものだ。
何でこの場所にいるのだろうかと考えていたら、いつの間にか、俺の隣に鴉羽さんが座っていた。
そのあまりの突然の現象に普段の俺なら、慌てふためきソファーから転がり落ちていたと思うが、その時の俺は熱の影響は冷静に考えて、その状況を飲み込んでいた。
これは恐らく、夢だ。
そう思った直後、鴉羽さんが俺を見た。
「正解」
「はい?」
「これは夢よ。間違いなく、ただの夢。それで正解」
「は、はあ?」
夢の中の鴉羽さんに夢であることを教えられるとは思っていなかったが、鴉羽さんなら言いそうだったので、俺は反応に困るだけで不思議には思わなかった。
極論だが、鴉羽さんに言われて驚くことはないように思える。それこそ、未来を言い当てられたとしても、鴉羽さんなら言いそうだくらいにしか思わない。
驚くとしたら、チャイナドレスは人生で一度も着たことないと言われた時くらいだろう。その時はどうして着ないのかと言いながら、鴉羽さんにチャイナドレスを着るように必死で勧めるに違いない。
「夢ならエロいことしてもいいですかね?」
「脱いだら、下をちょん切るから、そのつもりでね」
鴉羽さんがどこからかハサミを取り出し、俺の前でチョキチョキと動かした。俺は咄嗟に股間を押さえて、最悪な想像に汗をダラダラと掻いた。
「冗談です…」
「そう。なら、良かった」
そっちは冗談とは言ってくれないのかと思いながら、俺は隣の鴉羽さんや店の中を見回す。
この店には一度しか訪れていないが、それにしても、俺の記憶力は素晴らしいらしく、かなり忠実な再現度だ。
ただ特徴的な香りや照明を再現していないところは気になるが、俺の脳のことは俺自身も良く分からないので、そういうこともあるだろう。
「でも、何でここなんですかね?鴉羽さんもいるし」
「体調を崩さなかった?熱を出したとか?」
隣にいる鴉羽さんの指摘に俺は少し驚きながら、鴉羽さんの顔を見た。鴉羽さんは俺の顔を覗き込むように見ながら、俺の反応にニヤリと怪しげな笑みを浮かべている。
「やっぱりね。匂いは印象に残りやすいから、そういう時には出やすいのよ」
「匂い?でも、この店の中には匂いがないですよね?」
「あるわよ。嗅げていないだけ」
そう言われて俺は鼻を押さえた。鼻にはティッシュが詰め込まれている。
そう言えば寝る前にそうしていたのだったと思い出すが、それは寝る前の話で、今は夢の中だ。ティッシュが律義に再現される必要はない。
「熱に浮かされている時は、匂いから夢を見やすいってことですか?」
「ううん。熱に浮かされている時は、境界線が曖昧になって繋がりやすいのよ」
「はい?」
鴉羽さんが何を言っているのか良く分からない。これも熱の影響だろうかと思ったが、鴉羽さんは前に逢った時も良く分からないことを言っていた。
呪いとか魔術とか、既に受け入れてしまったことも、頭で理解できているかと言われたら、全く理解できていない。
超常現象は超常現象でしかなく、その理屈を凡人に理解しろと言う方が無茶だ。
「それでどう?呪いをかけている相手は見つかった?」
「いえ、まだ候補の一人としか逢ってません」
「候補?ふ~ん…それで、その候補の一人はどうだったの?」
「良く分かりません。足の速さとか異常だったし、あれが魔術の影響だと言われたら、そうとしか思えないし、犬山さんのことを話している時も恨んでいる様子はなかったけど、気にかけている様子はあったから、そういう気持ちが間違って、どこかで呪いに繋がってしまった可能性はあるかもしれないとか考えてみたり」
結局のところ、足利が黒であるか白であるかは分からない。保留したように、現状は疑問がいくつかある程度だ。
「そうやって悩んでみるのも一つの手よね。どちらにしても頑張って。これは貴方にしか頼めないから」
「それなんですけど、候補が分かっているなら、鴉羽さんが調べるのも良かったんじゃないですか?俺としてはこんな苦労したくないんですけど?」
「それはダメよ。私だと永遠に解決できないから」
「永遠に?」
やけに自信満々に断言する鴉羽さんに首を傾げると、鴉羽さんは再び怪しげに笑って、俺の前にコーヒーカップを一つ置いてきた。
これまたハサミと一緒でどこから出したか分からないコーヒーカップだが、中にはコーヒーが入っている。湯気が出ているので淹れ立てのようだ。
「どうぞ、せっかくだから一杯だけ飲んでいって」
「これって、また呪う気ですか?」
「安心して。今度はちゃんとしてるから」
鴉羽さんのちゃんとしているという発言を信用するべきなのかと一瞬悩んだが、これはどうせ夢であるのだからと思い出し、俺はコーヒーを飲むことにした。
カップを手に取って口に運ぼうとしたところで、鼻に詰め込んだティッシュが邪魔であると気づく。
それを鼻から抜いてみると、途端にコーヒーの香りが鼻孔を擽った。
どうやら、本当にティッシュが原因で匂いを嗅げていなかっただけで、匂い自体はあったらしい。
その発見に驚きながら、俺はそのコーヒーを口に含み味わって飲んだ。
そこで俺の意識は再び途絶えた。
次に気がついた時、俺は自分の部屋のベッドの上で布団に包まっており、布団の上には鼻に詰め込んだティッシュが転がっていた。
ベッドの上で起き上がってから、テーブルの上に置いていたスマホを手に取ると、予定の時間よりも早くに起きてしまったようだった。
もう少し眠れたのに、変な夢を見てしまった所為で早く起きてしまった、と思っていた俺がそこで自分の身体の変化に気づいた。
「あれ?」
そう思って、俺は体温計を取り出し、試しに熱を計ってみた。
どうやら、完全に体調は回復したらしい。