アロマセラピーと呪い
「アロマセラピー!」
俺は訳の分からない一言と共に目を覚ました。どんな夢を見ていたのだと一瞬思ったが、起きてみたら、どうしてその言葉を口走ったのか、何となく理解した。
そこは見知らぬ部屋の中だったのだが、お香でも焚いてあるのか、独特な香りがしていた。少し甘いのだが、若干の刺激があるというか、薄荷飴を舐めている時の感覚だ。
その香りを嗅ぎながら確認してみると、俺は黒い革張りのソファーの上に寝ていた。我が家にはない一品で、そこが自分の家ではないことが確定する。
ソファーの近くには衝立があり、それで広い部屋の一角を区切っているようだった。部屋全体の雰囲気は薄暗く、照明は若干の赤みを帯びている。
何かしらの店のような雰囲気だが、正直見たことのない店に、自分はどこにいるのかと非常に戸惑った。
もしかしたら、死んだのか――と本気で考えるくらいには戸惑っていた。
「あら、おはよう」
不意に衝立の向こうから声が聞こえ、背筋が凍るほどの驚きを覚えた。心臓が弱かったら、今の一声で死んでいたかもしれない。
それくらいの衝撃を受けながら、衝立の方に目を向けると、その向こうから一人の女性がこちらを覗いていた。少し吊り目がちの目が印象的な美女だ。妖艶さが醸し出されていて、何となくチャイナドレスが似合いそうだと思った。
ただし、残念なことに衝立を越えて、こちらに来た女性はTシャツ姿だった。無地の黒いTシャツにスキニージーンズ姿で、衝立に肘を置くように立っている。
「えーと…おはようございます?」
取り敢えず、挨拶を大事かと思って、誰か分からないがそう言っておいた。
女性は俺の寝ているソファーの前まで来て、俺に足を退けるように要求すると、俺の隣に腰を下ろした。俺は要求されたまま、足を床に下ろして、ソファーに座ることにする。
「莱花ちゃん」
急に女性が衝立の向こうに声をかけると、そこから新たな声が聞こえてきた。
ただし、この声は初めて聞くものではなく、以前にも聞いた覚えのある声だった。
縞パ…メイド服の少女。あの子の声だ。
「起きたみたいだから、コーヒーを出してあげて」
「ええ…?その人、私のパンツを…」
「莱花ちゃん」
「……分かりました…」
心底嫌そうな声だが、コーヒーを淹れてくれるようだ。未だに状況の把握はできていないが、取り敢えず、ここがコーヒーを出すような店である可能性が高いことは分かった。
ただ、それは何も絞れていないに等しい。コーヒーを出す店は飲食店ならごまんとある。
「えっと…質問してもいいですか?」
「何?ビニール袋に入っていたものなら、ちゃんと冷蔵庫に入れているから安心して」
「いや、そんな心配してないです」
寧ろ、完全に忘れていたまである。言われなかったら、気にすることすらなかっただろう。
「じゃあ、何?」
「ここ、どこですか?」
「どこに見える?」
面倒臭い返しが来た。その気持ちを隠すことなく表情に出して、俺は目の前の女性を見ていた。
何歳に見える?とか、どうなったと思う?とか、そういう唐突なクイズタイムは会話の流れを阻害するだけだと、なぜ気づかない。
「別に変わった店じゃないのよ。ただの喫茶店。ごく普通のね」
ごく普通の喫茶店はこんなラブホテルみたいな照明にしない、と思ったが、ラブホテルに行ったことのない俺は黙った。想像で言うものではないと思いながら、衝立の向こうを見ようと思って、軽く立ち上がってみる。
そうしたら、ちょうどメイド服を着た少女がコーヒーを運んできているところだった。衝立越しに目が合って、露骨に嫌な顔をされる。
「どうも、変態さん」
「いや、そんな格好でパンツ見せてくる方が変態なのでは?」
「別に好きで着てるわけじゃありません!あとパンツも見せてない!」
叩きつけるようにソファーの隣に置かれていた小さなテーブルにコーヒーを置き、少女はさっさと戻っていってしまった。何だか、他に大事なことを聞く必要があった気もするが、異様に頭がぼうっとして思い出せない。
「ていうか、何か頭痛いな…」
「ああ、ようやくそれを思ったの?そうでしょうね。ずっとそうだろうと思っていたわよ」
「え?何かしたんですか?」
「した、というか、しちゃった。彼女が」
そう言いながら、隣に座った女性が衝立の向こうを見て、俺は何となく、意識を失う直前のことを思い出していた。テーブルの上に置かれたコーヒーを啜り、最後に見た光景から冷静に分析してみる。
「結構、身体が柔らかい?」
「そうね。私もそう思うわ。普通はそこまで上がらないわよね?」
「無理ですね。股が裂けます。縞パンパワーですかね?」
冗談で言った瞬間に衝立の向こうからフォークが飛んできて、座っているソファーの肘掛けに突き刺さった。
「ごめんなさい。手が滑りました」
露骨に棒読みの声が衝立の向こうから聞こえてきて、俺は冗談でも下手なことを口にするものではないと悟り、コーヒーを啜った。コーヒーの味はさっきから啜っているように、なかなかに美味いものだ。
「どう?美味しいでしょう?彼女ね。コーヒーを淹れるのだけは美味くなったのよ」
「何か聞かない方が良さそうな含みがありましたね」
「ええ。お察しの通り、聞かない方がいいと思うわ」
ありがたい忠告を頂いたので、俺は詳細を聞くことなく、黙ってコーヒーを啜ることにした。次第にメイド服を着た少女のヤバい一面が明らかになってきているが、俺の頭はコーヒーのお陰か冴え渡っていたので、それに匹敵するヤバい人がいることに、俺はちゃんと気づいていた。
それが俺の隣に座っている女性だ。この見るからにチャイナドレスの似合いそうな妖艶な美女は、これまでに判明した情報から察するに、明らかに常人ではなかった。
まず、さっきから少女のことを説明する時に、枕詞のように付け加えているメイド服だが、あれは少女が好きで着ている物ではないそうだ。それは少女自身の口から聞いたことなので間違いないことだろう。
そうなると、どうしてメイド服を着ているのか疑問に思えてくるが、ここが喫茶店であることを考えると、そこには一つの理由がつく。
それが制服の場合だ。つまり、隣に座った女性が制服として、あの少女にメイド服を着ることを強要している場合、少女はメイド服を嫌々ながらも着なければいけなくなる。
もうこの時点で、隣に座った女性がヤバい人であることの証明はできたようなものだが、更に言ってしまうと、このラブホテルのような喫茶店を普通の喫茶店と称したり、明らかに暴行を受けた俺をこの喫茶店まで運んできたり、それについての説明を一切しようとしなかったり、ヤバいポイントを挙げ始めたら、原稿用紙が何枚あっても足りないほどだ。
それくらいにヤバい人が隣にいて、そのヤバい人の下でヤバさを育てていると思われる少女が衝立の向こうにいて、俺は現状で取らなければいけない最善の手を考えた。幸いにも頭はコーヒーで冴え渡っているので、考えは恐ろしいほどに迅速にまとまっていく。
やはり、先ほどから理由を並べていく上で、これは最初に聞いておくべきだと思ったことを俺は聞いておくことにする。
「あの…名前は何ですか?」
「鴉羽美綺よ。よろしく」
だそうだ。
▲▲ ▲▲ ▲▲
せっかくの質問の機会を棒に振った気がしないでもないが、最初の質問がうまく跳ねて、隣に座った女性が鴉羽美綺という名前であることと、衝立の向こうでせっせと仕事をしているメイド服の少女が犬山莱花という名前であることが判明していた。
犬山莱花。妙に引っ掛かりの覚える名前だが、どこに何を引っ掛かっているのかと聞かれたら、うまく俺は説明できない。
そう思いながら、出されたコーヒーを飲み終えたところで、唐突に鴉羽さんが俺の顔を覗き込んできた。綺麗な顔の綺麗な瞳で覗き込まれると、否応なく心臓は跳ね上がるもので、俺は自分の体調が悪くなったような錯覚を覚える。
もしかしたら、これは病気なのかもしれない。それも治ることのない不治の病――みたいなつまらないことを考えていたら、その考えを冗談っぽく言う前に、鴉羽さんが聞いてきた。
「さて、本題に入るけど、貴方は覚えているのかしら?」
「覚えている?縞パンのことですか?」
衝立の向こうからナイフが飛んできて、フォークの隣に突き刺さった。これでステーキが出されても問題なく食べられるようになった。
「ううん、違うの。それは覚えていてもらって構わないわ。好きにして」
「忘れてください!」
衝立の向こうから犬山さんの叫び声が聞こえてきた。犬山という名前だけに、犬が吠えるようだと思っていたら、俺は再びそこに違和感を覚えて、その違和感の正体を突き止めようと頭を働かせてみる。
そこで俺はようやく気絶する前に見た縞パン以外の物を思い出した。忘れていたというか、思い出しても現実の物と思っていなかったというか、正直どうでもいいかなと思っていたことだ。
「そういえば、犬山って名前なのに猫なんですね」
「余計なお世話です!」
必死に叫びながら、衝立の向こうから犬山さんが顔を出した。叫び声に合わせた怒りの表情だったが、そこで俺の言ったことに気づいたのか、途端に驚きの表情に変わっていく。
「ちゃんと覚えていたみたいね」
「ええ、まあ、ハッキリと見ましたし。縞パンほどじゃないですけど、インパクトがあったので」
「貴方の中で縞パンはどれだけ上なんですか…?あと忘れてください!」
そう言われてしまっても、一度目に残ってしまった縞パンは生涯忘れることができない。死ぬ直前の走馬灯の中にもレギュラー入りしていることだろう。
そう思いながら、心の中のレコーダーに縞パンの映像を記録していると、不意に鴉羽さんが俺の顔を再び覗き込んできた。その美しい顔に縞パンの映像が掻き乱され、ちょっと今は覗かないでいただきたいと心の中で願っていると、不意に鴉羽さんの手が伸びて、犬山さんのスカートを掴んだ。
「えっ?」
犬山さんが鴉羽さんの突然の行動に、間抜けな驚きの声を漏らした直後、鴉羽さんは何を思ったのか、そのスカートを一気に捲し上げた。
その向こうにあった縞パンが俺の眼前に晒され、俺は再び目撃することになった縞パンを網膜に焼きつけようと、必死になってガン見した。
しかし、そこで俺は再び縞パン以外の光景を目撃することになった。縞パンの奥が膨らみ、そこから黒く長い猫のような尻尾が飛び出してくる光景だ。
それを見た直後、慌てた様子でスカートを押さえ、その中身を上半身で隠すように下げられた犬山さんの頭に、特徴的な三角形の耳があることも確認する。
俺が気絶する前の記憶が蹴りのショックで変わっていなければ、その時は一瞬で消えたはずの耳と尻尾だが、今回はスカートを押さえた犬山さんの頭をお尻にしばらく残っていた。
「こんな感じでね。彼女は驚いたら、猫の耳と尻尾が出てしまうの」
「どの世界の奇病ですか?」
「ちょっと!何を冷静に話してるんですか!?わざわざスカートを捲らなくても良かったですよね!?」
「いいじゃない。一度見られた物だし、減る物でもないし」
「減りますよ!擦り減りますよ、私の心が!」
犬山さんは自分の縞パンの尊厳を主張するように怒っていたが、鴉羽さんはそれを取り合うつもりがないようだった。犬山さんの怒りの言葉の数々を聞き流し、俺がさっき口にした疑問に答えるようにこちらを向いた。
「彼女の耳と尻尾は病気じゃないのよ」
「まあ、そうですよね。そんな病気は聞いたことないですし。あれは何なんですか?」
一部の性的嗜好の持ち主にぶっ刺さりそうな容姿なので、どこかの大企業が極秘裏に開発していた新種のアダルトグッズとかだろうかと、俺は冗談交じりに考えていたのだが、鴉羽さんの返答はその冗談の上を行く冗談だった。
「あれは呪いなの?」
「はい?」
「彼女はね、呪われちゃっているのよ」
この人は何を言っているのだろうか。そう思った俺の気持ちとは裏腹に鴉羽さんは真剣な雰囲気を醸し出しており、犬山さんもおかしなことを言っている鴉羽さんに対して、一切のツッコミを見せることなく、ただスカートを捲し上げた事実に継続して怒っているだけだった。