天動説と地動説
高校生三人の就寝時間に合わせたためか、俺は久しぶりに健康的な起床を体験していた。
この時間に目を覚ましても、無駄に一日が長くなるだけで、特にすることはないのだが、これから夕方まで何をしようか、と働くニート特有の悩みに悩まされながら、習慣のようにスマホを見る。
そこで犬山さんから心配した内容の連絡が届いていることに気づいた。
もちろん、心配とは犯人が見つかるかどうかのことであり、俺のことを心配したわけではない。分かっていることだとは思うのだが、一応。
『おはようございます。誰が犯人か分かりましたか?』
一切の回り道なく、直通で掘られた質問への道を見て、俺はつい苦笑いを浮かべる。気になるのは分かるが、遊びくらいは入れてもいいはずだ。
なので、俺の方から遊びを入れてみることにした。
『おはよう。夢の中でも逢えたね』
『突然、何ですか?気持ち悪い』
あまりに直球の悪口に俺はスマホを落とすほどのショックを受けた。
犬山さんはもう少し婉曲な表現を知らないのか?人に気持ち悪いと直接的に言うか?
『そんなどうでもいいことより、どうだったんですか?』
『どうでもいいって…ちょっと遊びを入れただけなのに…』
『求めてません』
『犯人候補なら、無事に三人と逢えたよ』
『そうだったんですね。良かった』
確かに考えてみると、逢えない可能性もあったのに、順番に逢えたことは幸運と呼ぶしかなかった。
逢えたこと自体は幸運と呼ぶべきだった。
『その結果だけどね。全員白だったよ』
『え?白?』
『パンツの色じゃないよ?』
『分かってますよ!犯人じゃなかったってことですか?』
『残念ながら。犬山さんを知らなかったり、呪いを知らなかったり、何もしていなかったり、で恐らく、全員犯人じゃないね』
そこでしばらく犬山さんからの連絡が途絶えた。そこまでの返信のスパンで考えると、死んだのだろうかと思うほどの間が空く。
『それなら、犯人は誰なんですか?』
しばらく経って、ようやく届いた一文がそれだった。
今の空いた時間の中で、犬山さんはきっと落胆し、いろいろと考えたに違いない。
ただ、その疑問に対して、俺ができる返答は一つだけだ。
『それは俺も聞きたいよ』
死ぬ未来が見えている自分から言うと、犯人が分からなくなって死活問題なのはこっちで、そういう意味ではまだ犬山さんは優しい方だ。
もちろん、優しい方と言ったが、それが問題ではないとは思っていない。犬山さんの抱えた問題の重大さは本人ほどではないかもしれないが、十分に理解している。
その上で俺に聞かれてもどうしようもないという気持ちも強くある。
『犬山さんは他に思い当たる節がないの?』
その一文を打って、犬山さんに送ることなく手を止めた。
ふと、ここで犬山さんに確認しなければいけないことがあることを思い出して、俺は文章の内容を変える。
『他に告白してきた人は本当に覚えていないの?』
『申し訳ないことに覚えてませんね』
『なら、今回の候補の一人だった足利君の印象は?』
『それは昨日も話しましたけど、走っているのを見て頑張っているなって思うくらいで、他は特に』
『試合に誘われていかなかった理由は?』
『試合?』
そこで疑問符のついた答えが返ってきて、俺は何だか妙に嫌な予感がした。
次の返信はまだないのだが、その内容が見えて分かるようで、俺は一度、スマホを置こうかとも思った。
しかし、その前に返信が来てしまった。
それも俺の想像した形で。
『試合なんて誘われてませんよ?』
足利は確かに試合に何度か誘ったが犬山さんは来なかったと言っていた。
そのはずだが、犬山さん本人は試合に誘われたことは一度もないと言っている。
その食い違いに絶句した直後、俺は夢の中で姫渕さんが怪しいことを言っていたと思い出した。
「海原さんは魔術というオカルトをどれだけ信じていますか?」
「それはつまり、普通は信じられない力が実在していると思えているということでよろしいですか?」
あの一言はまさか、この謎に繋がっているのだろうか?
だとしたら、姫渕さんは一体、何を知っていると言うのだろうか?
その疑問を思い浮かべながら、俺は最後に一言だけ犬山さんに言っておいた。
『今度誘われることがあったら、見に行ってあげて』
『まあ、誘われたら、それくらい行きますよ』
やはり、絶対零度の姫渕さんと比べると、まだ人の心はあるようだ。
▲▲ ▲▲ ▲▲
姫渕さんとの約束まで数時間。その間に俺は一つだけ済ませなければならない用事があった。
そのついでに俺は犬山さんの不可解な言動について、有識者からの意見を求めようと考えていた。
それはちょうど都合良く、どちらも同じ場所が目的地になる。
鴉羽さんの喫茶店だ。
その店の前まで徒歩で移動し、俺は犬山さんのいないタイミングで、鴉羽さんの店を訪れるのは初めてだと思った。
唯一、夢の中で鴉羽さんと逢った時はあったが、あれは話が違うのでノーカウントだ。現実世界だとこれが初めてで、そう考えると妙に緊張してくる。
いや、何を緊張しているのかと言われたら、俺自身で良く分からない。
美人と二人きりの空間なのか、そこに不必要でしかない期待をしているからなのか、二人きりで鴉羽さんを相手する不安なのか、良く分からない。
ただ緊張しているから、今日はやめておくかとはなれないので、俺は意を決して、鴉羽さんの喫茶店に飛び込むことにした。飛び込むと言っても、普通に扉を開いて入るだけだ。
「いらっしゃい」
扉を開いてすぐ、カウンターの向こう側からカウンターに身体を預けるように凭れかかっていた鴉羽さんが挨拶してきた。
昨日は寝起きだったためか、Tシャツにスウェットパンツ姿だったが鴉羽さんも、今日は流石にジーンズを履いている。上は変わらずTシャツで、黒地にリアルな猫の顔がプリントされている。
「あら、珍しい。莱花ちゃんならいないけど、今日は私にセクハラするの?」
「何で俺の来店目的が犬山さんへのセクハラだと思ってるんですか?そんなはずないでしょう?」
「あら、そうなの?なら、それはもうしないの?」
「バリバリしますよ!」
あれ?もしかして、これが通報されそうになる理由なのか?
そう思ったが、俺は気のせいだと思うことにした。全人類のためにこれを肯定してはいけない。
「それで何をしに?コーヒーでも飲みに?」
「これを返しに来ました」
俺は鴉羽さんの前まで移動して、カウンターの上に持参した枕を置いた。
鴉羽さんから渡されたもので、これのお陰で犯人候補+αと夢の中で逢うことができた。
「あら、律義に返してくれるの?」
「持っていても仕様がないものなので。あと枕が変わったら、寝づらいし」
「それは分かるわ。私も昨日の夜は寝づらかったから」
「……ん?何故に?」
「枕が変わったからよ」
昨晩、鴉羽さんの枕が変わった?枕を交換した?
それは偶然、昨日枕を変えようと思っただけの可能性もあったが、俺はカウンターの上に置いた枕を見て、まさかと考えてしまう。
「これって…」
「身近にあった枕に術式を刻んだのよ。だから、昨日の晩はクッションを使ったわ」
「もっと匂いとか嗅いでおけば良かった!」
後悔に苛まれ、絶叫した俺を見下ろして鴉羽さんがくつくつと笑った。
犬山さんなら直球の罵倒が飛んでくるところなのだが、これが大人の余裕という奴なのだろうか。鴉羽さんの無邪気な笑みに、少しドキッと俺はする。
「イイ感じに気持ち悪いわね」
「その笑顔でそんなこと言いますか!?」
不意打ちの一言だったので、想像以上に胸に突き刺さった。
いや、もちろん、そう言われるかもしれないという期待はあったが、それはタイミングがあるというもので、快感に昇華できないタイミングで言われると、普通に心に突き刺さる。死にたくなる。
「それで、どうだったの?全員と逢えた?」
「まあ、それは無事に。ただ全員白って分かっちゃいましたけど」
「まあ、そうよね」
「分かってたんですか?」
「それはそうよ。だって、そんなに簡単に見つかるなら、すぐに私が見つけてしまうから」
確かに言われてみればそれは当たり前のことだと俺は思った。
鴉羽さんも見つけられないくらいなのだから、いくら姫渕さんが協力していたとしても、すぐに見つかるとは思えない。
それなら、最初からそう言ってくれれば良いではないかと思ったが、言われたところで解決法がそこにないのなら、どうしようもないことだった。
「それで次はどうするの?」
「次…そのことで一つ、聞きたいことがあるんですけど」
「何かしら?」
「記憶に何かする魔術とかってあるんですか?」
俺は簡単に犬山さんと足利の関係を説明し、それに関係する魔術の存在を聞き出そうとした。
鴉羽さんはサービスなのか、頼んでもいないコーヒーカップを俺の前に置きながら、考え込んでいる。
そのあまりにも怪しいコーヒーに手をつけることなく、俺が鴉羽さんの返答を待っていると、「それはサービスだから、お金は取らないわ」と鴉羽さんが言って、余計に手をつけることができなくなった。
あまりに怪し過ぎて、コーヒーカップを持つことすら怖い。
「記憶に関与する魔術がないわけではないわ。だけど、それは少し癖が強くて、使える人物が限られるものよ。そこらの魔術師には使えないわ」
「鴉羽さんは?」
「私は使えるけど、使ったことはないわよ?使う必要もないから」
それはそうだと思うのだが、どうにも鴉羽さんは信用できない。
他にも何か隠しているのではないだろうか?とどうしても、考えてしまう俺がいる。
「本当に何も知らないんですか?」
念を押すように俺が聞くと、鴉羽さんは俺の前に置いたコーヒーカップを手に取り、自分で啜り始めた。
どうやら、本当にサービスだったらしい。飲めば良かった。
「天動説って知ってる?」
「急に何ですか?それくらい知ってますよ。地球が太陽の周りを回ってるって奴でしょう?」
「それは地動説。その反対が天動説」
「あれ?そうでしたっけ?」
思い返しても、学生時代に真面な勉強時間はほとんどなかったので、それがそうだったのか、どうだったのか一切分からない。
その不思議そうに首を傾げる俺の姿を鴉羽さんは笑いながら、更に意味の分からない発言を続けてきた。
「天動説は昔の主流だったんだけどね。今では全員、当たり前のように地動説の方が正解に近かったと知っている。正確には両方違うんだけどね。でも、地動説の方が正しいかもしれないってなって、天動説を推していた人がその証拠を見つけてしまって、それでどうすると思う?」
「どうするって…ごめんなさいって謝るんじゃないですか?私が間違っていましたって」
「傍から見ている人はそう思うかもね。でも、当事者はそこにプライドがあるの。何かを否定してしまったら、それを認める理由ができても、素直に認めることはできないの。そういうもの」
「それが一体、何の関係があるんですか?」
「そういうことなの。全部」
説明にならない説明を済ませて、鴉羽さんは満足したように空のコーヒーカップを流し台に置いていたが、俺は全く納得できていなかった。
俺の聞いた何も知らないのかという質問の答えがまだ返ってきていない。意味の分からない説明で有耶無耶にされただけだ。
そう思うのだが、鴉羽さんは説明を終えた雰囲気を醸し出し、俺に聞いてきた。
「ところで店番をお任せしてもいいのかしら?私は少し眠りたいのだけど、言ったように眠れていないから」
「いやいや、しませんよ。俺はまだこれから大事な用事があるんです」
「そうなの?」
「はい。自転車を取りに行かないと」
昨日、完全に忘れていたことだった。