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ストイックと財産

 心配した表情の足利の手を借りて、俺は川から這い上がった。川に落ちたのは、これで二度目だが、今回は夢の中であることもあってか、前回のような寒さは感じない。

 多分、さっきは感じた息苦しさも、夢の中であることを理解したら、今と同じように消えたのだろう。


 そんなことを考えながら、俺は川から這い上がり、あの時と違って、痛みのない身体で足利と向き合うことになった。


「怪我はありませんか!?」


 必要に俺の身体を触りながら、慌てた様子で足利は聞いてくるが、夢の中で怪我も何もない。

 それに俺は椅子から転がり落ちただけで、あの時のようにガードレールにぶつかって、川の中に投げ出されたわけではない。


「大丈夫。怪我もないし、どこも痛くないから」


 俺がそう答えると、足利は途端に安心した顔をした。

 それから、俺と代わる形で川の中に飛び込み、そこに転がっていた自転車を陸に上げようとしてくれていた。


 さっきまで光峰様に天岐という、自分の気持ちを行動の最前列に据えている人種を相手にしていたためか、その足利の相手を最大限に配慮した行動の数々に、俺は涙を流しそうになった。

 もしも、そういう権利が俺にあったのなら、足利を表彰してあげたいくらいだ。

 人助けを頑張ったで賞を授与してあげたい。


 自転車と一緒に足利が川から上がり、俺と足利は揃って濡れてしまった身体を乾かす必要があった。

 今朝は川に飛び込みそうだった足利を俺が止めて、自転車を上から引き上げてもらったことで、俺一人だけが濡れる結果だったのだが、夢の中なら男二人で濡れることも悪くない。


 これが共通点となって、寧ろ、心を開く大きな理由になるかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は足利からも話を聞かないといけないと考えようとしていた。


 しかし、正直なところ、足利の行動はあまりに現実と一致しており、本当に聞き出す必要があるのかと俺は思った。


 裏表のない人間。それが足利の現実での評価だが、ここまでの対応を見るに、俺も同じ印象を持っている。

 現実と違って、本能がそのまま行動に反映される夢の中でも、同じ行動を取っているということは、それがそのまま足利の本能と考えるべきだ。


 強いて言うなら、この性格が災いして、良かれと思った行動の結果、犬山さんに呪いをかけてしまった可能性があるくらいなので、俺は犬山さんのために何かをしようとしたのかどうかの確認をするべきかと考えていた。


 そうしたら、その思案の時間が少し長かったのか、唐突に隣で足利が呟いた。


「走ることは好きですか?」

「はい?走ること?」

「僕は()()()()()()()()()のですよ」

「え?そうなの?」


 話の切り出し方から、俺に走ることを勧めてくるのかと思っていたが、その話の向かう先は想定外の方向だった。


 まさか、あれだけの速度で、あれだけの距離を走って、それで走ることがあまり好きではないと言い出すとは思ってもみなかった。


「特に昔は嫌いでした。とにかく足が遅かったので、走ることはカッコ悪いから嫌だと思っていました」


 足の遅い足利を想像しようとしてみたが、俺はうまく想像することができなかった。


 それはあの足の速い足利を見てしまったからではなく、今の足利は走ることでできているからだと俺は思う。

 走ることで育った今の足利は、走るために成長しており、その見た目は止まっていたとしても、速度を生み出すほどに走り出している。


 言ってしまえば、今の足利は走ることそのものの化身となっている状態だ。

 その姿に足の遅さをイメージすることは不可能だった。


「ですが、僕の両親は苦手なことがあるのを非常に嫌う人達でした。走ることが苦手な僕を見て、両親は僕を誰よりも速く走れる子にしたいと思ったそうです」


 愛情――という表現が正しいのか分からないが、今の足利を見たら、多くの人がそう表現するだろう。


 それがもしも俺に向けられていたら、多くの人が愛情などとは言わずに、非難していたに違いないとは思うが。


「とにかく走らされました。当時はそれが嫌で仕方なかったのですが、走らなければご飯を出さないと言われて、僕は渋々走っていました」


 ろくでもないと俺は思ったが、それを口には出さなかった。


 冷静に考えてみると、それは間違いであると指摘できることでも、それが結果的に成功を導き出したのなら、正しいことに化けるものだ。

 この歪んだ親からの愛情も、足利迅矢という化け物を作り出す理由に繋がったのなら、それを間違っていたと堂々と否定できる人は少ないはずだ。


「走るしかない環境ですから、僕は自然と走ることを嫌だと思う気持ちもなくなって、走ることそのものが当たり前に変わっていきました。それを繰り返していたら、自然と足は速くなりました」


 それだけで本当にあの化け物としか言いようのない脚力が生まれたのかと思ったが、その時間をそれだけで片づけてもいいものか分からなかったから、俺は口には出さなかった。


 今の話だと短くまとめられ、足利が走ってきた時間の長さが俺には伝わっていない。それを簡単にその話の印象だけで判断するべきではない。


「そうして、今では走ることが日常の一部になりました。歯磨きや顔を洗うことに好き嫌いがないように、僕は走ることを特に好きと思うことも、嫌いと思うこともなく、生活の上での当たり前の行動として繰り返しています」

「じゃあ、あまり好きではないけど、嫌いでもないの?」

「少し前までは」


 その含みを持った言い方に俺は首を傾げた。


「少し前?」

()()()()()()()()んです。ほとんど一目惚れみたいなもので、何とか好きな気持ちが伝わるように努力しました」


 そういえば試合を見に来るように犬山さんを誘っていたと言っていた。


 ただし、その誘いに犬山さんが乗ることはなく、足利も良く知らない人扱いされていたので、その気持ちの多くは犬山さんに届かなかったのだろう。


 それは足利に同情するというよりも、犬山さんの対応の悪さに苦言を呈するべきことだ。

 見に行くことくらいはしてあげても良かったはずだ。もしくは覚えてあげることくらいはしてあげても良かったはずだ。


 この努力を踏みにじることはしない方が良かったと俺は思う。

 ――思ってから、ただ何となく、モヤモヤとした気持ちになった。


 確かに犬山さんは少々きついところもあるが、俺のことは最初から普通に覚えていた。仕事の態度も真面目のようだ。


 その子がこの真摯さを見せた足利をほとんど知らない相手と認識するものだろうか?


 そのことを不思議に思っていると、不意に足利が寂しそうに笑った。


「ですが、振られてしまいました。それがショックで、どうして振られたのか考えた時に、僕は気づいてしまったんです」


 足利が濡れたズボンに触れて、自分の足を示すようにポンポンと叩いた。


「僕にはこれしかないんです。走ることしか能がない。それ以外の取り柄が全くないんですよ」


 そんなことはないはずだ。それだけの取り柄があるのなら、それは十分に大きな財産のはずだ。

 俺はそう思ったが、足利はそう思わなかったようだ。


「ふと思ったんです。このまま、ただ走るだけの人生でいいのかって。そうしたら最近、少しだけ考えるようになって」

「……何を…?」

()()()()()()()()()()と」


 犬山さんが告白を振ったことで生まれた急な重苦しい話に、俺は呪いのことも忘れて沈黙してしまっていた。


 これは明らかに何かを言わないといけないが、足利以上に取り柄のない俺に言える言葉の一つもあるはずがない。


「いえ、もちろん、辞めてどうするんだという疑問はあります。いろいろと考えましたが、そこは何も思いつきませんでした。だって、それしか知らないのですから」


 何かに失敗した時、どうして失敗したのか理由を考え、自分に足りないものを見つけようとする。


 足利もその当たり前の行動を取って、そこで自分に足りないものしかないことに気づき、それを何とかしたいと考えた。

 それはきっと走り続けて生まれたストイックさが作り出したもので、そこに対して、不安とか正しさよりも、このままで自分はいいのかという気持ちの方が強いのだろう。


 走ることは好きなことではない。それも大きな理由の一つなのかもしれない。


 足利にとって、好きなものは走ることではなく、犬山さんの方なのだ。


「僕はどうするべきなのでしょうか…」


 さっきまでの光峰様や天岐と明らかに違う雰囲気に、俺こそどうするべきなのか分からなくなっていた。


 夢の中での会話がどれだけ現実に影響を及ぼすのか分からないが、現実とそこまで振る舞いの変わらない足利は、その影響が大きい可能性が十分にある。

 下手に辞めてもいいと言って、それで足利が本当に辞めた時に、それをアドバイスとして言って良かったのかと俺は悩む羽目になる。


 本題ではないところで、これほどまでに悩むことになるとは思っていなかったが、悩まずに軽く言うことは避けた方が絶対にいい。


 そうして、俺はしばらく言葉を考えて、足利に言うべきことはやはり、率直な意見であるべきだと思った。


「辞めなくていいと思うよ」

「そうでしょうか…」

「うん。だって、俺には君にとっての走ることみたいな、一つの取り柄もないから」


 君は何ができるかと聞かれた時に、何ができると堂々と言えることがある人は意外と少ない。

 もしくは何ができると言ったそれが他人よりもできる人は決して多くない。


 誰かは誰かもできることをできると言うだけで、それが自分にしかできないことである人は非常に少なく、そういう部分に悩む人も多い。


 その中でただ一つでも、自分にはこれができると言えて、誰よりもそれができるという事実があることは、何物にも代えがたいその人の財産だ。


 やはり、それを放棄するべきではないと俺は思った。


「何かがあるなら、それを大切にするべきだよ。何もないと思っても、その何かと比べているから小さく見えるだけで、本当は他にもたくさんあるはずだから。見えているものを捨てるべきじゃないよ」

「走ること以外にありますかね?」

「少なくとも、川に落ちた自転車を飛び込んでまで拾い上げる人はそうそういないよ」


 俺が隣で半壊した自転車を指差しながら指摘すると、足利は不思議そうに首を傾げた。


 あまりにストイックで、絶対に友達になれないタイプだと思っていたが、天岐とは違う理由で、こういう友人もいいのかもしれないと、俺はその表情を見て思った。

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