猫耳少女と回し蹴り
十八歳の春に無事に高校を退学した俺は堕落した生活を送っていた。
あれから二年が経過して、酒も煙草もギャンブルも許された二十歳を迎えたが、人生は変わらず足踏み状態で、そこから回復する兆しもない。
まだ若いと自負する年齢だが、正直、就活よりも終活を始めた方が効率的なのではないかと本気で考えるほどに、俺の今の生活は落ちぶれている。
堕落した生活と表現したことで、一つ勘違いしてほしくないのだが、決して俺の部屋が汚れているとか、ゴミで溢れ返っているとか、そういうことはないから安心してほしい。ちゃんと定期的に母親という名前の清掃員が部屋を片付けてくれている。
何だ、親の脛を齧っているのかと思ったかもしれないが、親の脛を齧っているから、生活は堕落を極める一方であり、親の脛を齧らなければ堕落する前に俺の人生は文字通りの終わりを迎えていた。
今の俺は遊ぶ金欲しさにバイトをしている以外は、日々の膨大な暇な時間をゲームと漫画とネットと睡眠とオナニーで潰しているだけのニートだ。バイトしているならニートの定義から外れると文句を言う人がいるなら、働くニートと言い換えよう。
どうして、俺がそのようになってしまったのかとか、本来なら卒業するはずの十八歳の春に高校を退学することになったのは何故かとか、そういう疑問がここまでの話から湧いてきたかもしれないが、その辺りの説明は一切する気がない。
その話を説明するには、二年前までの高校生活の話とか、この二年間で何があったのかとか、長い割に大して面白くもないそういう話を延々としなければいけない。
話す方も聞く方も苦痛な話だ。まだ校長先生の話の方が身になる話だ。それを聞きたいと思う人はいないだろう。
それよりも、今はもっと重要な話があった。
この世界には存在しない。架空の世界にはあっても、この世界にはない。そう思い込んでいた物を俺は目撃してしまった。
それは正しく、世紀の大発見だった。
▲▲ ▲▲ ▲▲
四月中旬の平日夕方のことだ。先に話した通りにバイトをしている俺は、今日も夜にシフトが入っていた。
その時間まで四時間。まだ時間があったので、近所のコンビニでお菓子とか飲み物とか買ってきて、家でゴロゴロとした自堕落極まりない時間を過ごそうと思い、俺は家を出た。
コンビニまでは徒歩で十五分くらいだ。自転車を使えばもっと速いが、途中の道が如何せん狭く、俺は基本的に徒歩でコンビニに行くことにしていた。
行きは特に問題なかった。いつものようにコンビニに到着し、いつものように物色し、いつものように欲しい物を手に取って、万引きと間違われないように財布を取り出す瞬間を念入りに店員に見せびらかしながら、レジで会計を済ませた。
ビニール袋の中にスナック菓子とチョコレート菓子と炭酸飲料が一つずつ。それを持って帰りも同じ道を歩き始めた。
その帰りの時間になって、タイミングが合ってきたのか、学生と思しき若者達とすれ違う機会が多くなっていた。
若者と言っても、俺もまだ若いことは自負している。それは分かっているのだが、それにしても学生は若すぎる。俺が肉の柔らかさから重宝される若鶏だとしたら、学生はヒヨコみたいなものだ。まだ食べられる領域に至っていない。
楽しそうに談笑する制服姿の女子高校生二人組。これは非常に可愛らしいものだ。それ以上の何かを思うことはないが、こういう存在が何の蟠りもなく、延々と中身のない会話を繰り広げている世界に生まれていたかった。
仕様もない話ばかりをする男子高校生三人組。俺にも存在していたかもしれない青春の姿だが、それに対する羨ましさは意外となかった。友達のいない生活を送り過ぎて、既に感覚が馬鹿になっているのだろうか。友達が欲しいと思うことも特になかった。
学生とは思えないほどに仲睦まじい様子を見せるカップル。死ね。
それらとすれ違ったのだが、それらは全員どこかしらの学校の制服を着ており、それらとすれ違うだけなら、俺も学生と思しき若者達みたいな言い方はしなかった。
問題はその次にすれ違った――もっと正確に言ってしまえば、すれ違おうとした――のが、一見しただけでは判断できない、恐らく学生と思しき少女だったからだ。
では、制服を着ていなかったのかと言われてしまえば、その少女自体は制服を着ていた。
それなら、その少女は学生だろう。制服を着ているのなら間違いないと思った人ばかりだと思われるが、問題はその制服だった。
それは高校の制服ではなく、恐らくどこかの店の物と思われる制服だった。制服と言ってしまうからややこしいのだが、もっと簡単に、誰にでも伝わりそうな言い方をしてしまうと、それはメイド服だった。本物のメイドが着ているのかどうか怪しい、メイドカフェで制服として採用されているようなメイド服だ。
それを着た少女が前方から歩いてきて、流石の俺も面食らっていた。住宅街のど真ん中であり、近くにはコンビニくらいしかないと俺は思っている道の途中だ。そこをメイドが歩いてくるとは露ほども思わない。
驚く俺に対して、少女は俺の視線を気にする雰囲気がなかった。そこで気を取られていたメイド服から、少女の顔に目を移したのだが、少女はメイド服を着ていたとしても違和感の欠片もないほどの美少女だった。
作り物のように整った顔立ちではないが、少女の愛らしさを残した見た目は、シンプルに男受けする可愛らしさだ。きっとモテるに違いないと思いながら、俺はすれ違う少女を見送ろうとした。
そこで世紀の大発見に繋がる事故が起きた。
事故と言っても、その原因は不明だ。少女の足を見るに、少し厚底のローファーを履いているようだったのだが、それが足に馴染んでいなかったのかもしれない。もしくはアスファルトの道路の一部が整備されておらず、少し欠けていたからかもしれない。
どちらにしても、少女はそこで大きく体勢を崩し、前のめりになる形で転んだ。
それを咄嗟に俺は目で追った。危ないとは思いながらも、働くニートは咄嗟に動けるほどにフットワークが軽くない。危ないと口に出す前に、少女の身体は地面に倒れ込んでいて、倒れないように補助する時間はなかった。
しかし、その一瞬でも、俺は見逃さなかった。この世界には存在しないと思っていた物だ。その世紀の大発見とも言える瞬間を俺は目撃した。
前のめりに転ぶ少女。そのスカートが大きく跳ね上がった瞬間、そのスカートの中に存在する水色と白の縞々。
俺はそこで『縞パン』を目撃した。
▲▲ ▲▲ ▲▲
縞パンに気を取られていたので、そちらばかりに注目していたが、その瞬間の変化は他にもあった。とはいえ、世紀の大発見と言える縞パンに比べると小さなことなので、取り立てて言うことでもないのかもしれないが、一応は説明しよう。
縞パンが見えた直後、一秒にも満たない時間の中で、その縞パンが膨らんだ。ちょうどお尻に当たる部分で、その膨らみは縞パンを上り、やがて、その縞パンから飛び出した。
それは黒い毛に覆われた尻尾だった。フサフサのフワフワな尻尾だ。犬よりは猫の尻尾に近しいと思った。
それと同時に転んだ少女の頭の上には、三角形の黒い山が二つ現れていた。ちょうど頭につけていたカチューシャの奥に生えるように現れて、ピコピコと動いている。
猫耳。本能的にそう思ったが、それは猫の尻尾のように見える尻尾があったからかもしれない。
本当に猫耳かは分からなかったが、その頭の上の山と尻尾は一瞬現れて、少女が地面に倒れ込んだ数秒後、引っ込むように消えていた。
地面に倒れ込んだ少女は大きく打ったに違いない腹や、怪我をしていてもおかしくはない顔ではなく、頭の上を押さえながら起き上がった。
ふるふると慌てたように周りを見てから、隣に立っていた俺の存在に気づいて、大きく目を見開いている。不審者を見た時の反応だが、俺からしたら、そちらの方が不審者だと言いたい。
「見ましたか…?」
少女は恐る恐るという雰囲気で聞いてきた。
見たかと言われて、正直に答えてもいいものかどうか迷ったが、嘘を吐くのも心苦しいかと思ったので、俺は正直に頷くことにした。
頷いた俺の姿を見て、少女はさっと顔を青褪めさせている。絶望顔のお手本とも呼べる表情に、俺は写真を撮りたい気分になったが、その失礼を平気でするほどに俺は落ちぶれていない。
「はっきりと見てしまいましたか…?」
震える唇でそう言ってくるので、俺は再び力強く頷いた。目を瞑れば思い出せるほどにはっきりと目撃した。
再び頷いた俺を見て、少女は更に青褪めながら、しばらく動かなくなる。
その姿に俺はまさか、まだ疑っているのだろうかと思った。何度か確認したくなるほどに現実を否定したい瞬間があることは良く分かる。俺にも経験のあることだ。自分の部屋に入ったら、アダルトDVDが綺麗に並べられている光景を見て、意味もなく扉の開け閉めを繰り返したことがある。
しかし、現実は常に非情なものだ。願っても変えられないものはある。次に親と逢った時にどのような顔をしようかと悩む時間も、成長のためには必要な時間と思うべきなのかもしれない。
なので、俺ははっきりと口で言ってあげることにした。ちゃんと目撃したという事実を。
「水色と白の縞々だったね」
言い終わった二秒後、俺はこめかみに強い衝撃を受けて、そのまま道路に倒れ込んでいた。何が起きたかは良く分からないが、意識を失う直前に少女のスカートが視界を横切った気がする。