地下1階 キャナックス詰所
一方、現小橋こと元矢島は、地下のキャナックス詰所で一人、同社各種製品の修理マニュアルを読んでいた。
読んでいるといっても、ただ漫然と眺めているに等しく、何一つ頭には入ってこない。修理の手順以前に、機種名からして、もう、である。KPV5100ーC、それどれ?プリンター?コピー?え、どれ?
矢島はインターネットをホーム画面に戻し『人間 入れ替わり 実話』とか検索ワードに打ち込んでみるが、フィクションと確かめようもない異国の昔話に混じって信憑性が微塵も感じられない体験談が数件あるのみ。胡散臭くすらない。なぜってどれも全く困っている様子がない。
(期待はしてなかったけどさ)
ため息をつきながら画面をスクロールしていると『ひとりで悩んでないで……』とかそういうのになってしまったので、画面を綴じた。
(しかし……、暇だな)
矢島は、修理依頼の呼び出し用携帯を開き、ぱちんと閉じる。
コピー機やプリンターのメンテ依頼など、庶務席や雑用係の担当であって、課長補佐であるところの自分には無関係だから、正確なことはわからないが、結構な頻度で不具合が出る印象がある。週に一度か二度、二週に三回として、仮に社内に100台とすれば10日に300回。一日平均で30台の修理依頼がある計算である。どういう因果か矢島がキャナックスマンになってしまってから、かれこれ2時間。一件の呼び出しもない。
職業病とも言える無意味な計算をして
(無駄なんじゃないの?詰所要員)
と思ったところで携帯が鳴った。
ビクンッ!
鳴ったら鳴ったで焦る。鳴らないに越したことはないのだ。少なくとも、矢島が小橋でいる間だけは。
「は、はい。キャナックスサポートです」
「小橋、さん?矢島、だけど。いや違和感あるわ」
声を潜めている。
「なんだよ」
ほっとしている胸のうちとは裏腹に面倒くさそうな応対になってしまう。
「なんとかの報告だかなんだかをしろとかなんとかって言われたんだけど?」
「まったくわからん」
「だってほとんど外国語だったんだもん」
「はあ?誰から言われたんだよ?」
「誰だろ?」
歳は?と聞けば40くらい?
背は? 普通。
髪型も普通。
メガネは?かけてない。
太って?ないけど痩せてもいない。
「ジムとか行ってそう。派手な色のウェア着て、休みの日は奥さんも一緒って感じ」
そんなヤツ、いっぱいいる。むしろ、そんなのばっかりだ。
具体的な情報はないに等しく、抽象的な情報だけは妙に具体的。まったくわからん。
「今、行く」
「わかった。プリンター、壊しとく」
現矢島は、すばやくキーボードを叩き、不正な指示をプリンターに送信した。
ーーーーー
(ん?)
志乃の片眉が上がる。
その目は、入ってくるなり矢島の席にまっしぐらのキャナックスマンの姿を追った。
入口に近い池本綾香あたりに、修理依頼をした人物なり該当の機械なりを尋ねるのがスタンダードな動きと思うが。
しかもよりによって矢島?ヤツは、自分が壊しても修理依頼などしないだろうに。
哀れキャナックスマンは叱られるかと思いきや、そのまま二人でこちょこちょやりはじめる。その異常に周りは誰も気づかない。なぜなら、神子を見ている。
(神子、今日はやけに長居するな)
近頃、神子はやたら頻繁に来る。
派遣社員217名が在籍している事務センターになら、毎日顔を出しても不思議はないが、このフロアにいる派遣社員は国際営業部のババリンガルただひとりだ。
(営業にまで派遣を送り込む気か?
あり得ない話ではないな)
営業活動に必要ないくつかの要素のうち、過去の統計から導きだすことのできる提案や先方担当者を懐柔するための戦略など、主にデータと経験則に基づく分野は、AIにとってかわられるだろう。営業担当者は有用な情報を持ち帰り、その計算結果を取引先に伝達するだけでいい。そこで不可欠となる人物力こそ、豊富な人材を広く有し、ニーズに合わせて選択し配置する、人材派遣業者の得意分野だ。例えば、顔のいいやつ、話の面白いやつ、野球好き、政治に通じる者からアニメオタまで。神子の手駒は、なかなかに手強かろう。
事実、神子選り抜きの精鋭部隊が、一般顧客向けのコールセンターとは分かれて営業職員専用窓口を展開している。正規雇用の営業を凌ぐ豊富で詳細な商品知識を日々提供する派遣職員たちは、同業他社の元社員や元代理店事業主など、確かな業界経験を持つ者が多い。
(どんな手を使って引っ張ってきたのやら、わかったもんじゃない。いや、使っているのは手じゃなく顔か。いやいや、やっぱり手も使うだろうな)