19階 営業統括部 再び
何とか無事に研修を終えてオフィスに戻った矢島は、入口の座席表を頼りに何とか自分のデスクを見つけ出し、席についた。ほっと安堵の溜め息を洩らしてから、周囲の視線に気付いてぎょっとした。
(なんで、みんな、こっち見てんの?)
じっとりと見つめている者もあれば、チラチラと覗き見ている者もいる。どっと冷や汗が出る。
(いや……)
落ち着いてみると、周囲の視線はどうやら自分を通り越している。
矢島は、首を回して肩越しにそっと後ろを振り返る。何やら淡い光を感じる。ほんのりと甘い香りも。そろりと椅子を回した矢島の目に彼が映った。控えめで整った顔立ち、さらりと柔らかそうな髪、バランスのとれた四肢、白い肌にはシミどころか毛穴すらないように見える。妖怪か何かのレベル。この世のものと思えない未知の生き物でありながら、どこか既視感がある。はてと考えて思い当たる。嫁の本棚、祭壇。
どれくらいの時間、呆けた顔を晒していただろう。矢島の視線を感じたらしい彼とバチっと目が合う。と、微笑まれた……。ズキュン……。
(矢島よ、邪魔だ。どけ)
ほとんどの女性社員から理不尽な反感をかっていることにはまったく気づかぬまま、矢島は小一時間ほど前に持ち主を変えたばかりの魂が旅に出てしまわぬよう、平常心の奪還に努めた。
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解錠音がして扉が開き、入ってきたのは岡山支社長の天野だった。天野は、室内をざっと見渡し、何人かの顔見知りに向かって声をかける。「やあやあ、どーもどーも」とか、そういうのだ。声がでかい。電話中の社員が慌てて受話器を手で覆う。それから、天野はまっすぐに池本綾香に歩みよった。
「常務、今、話せる?」
(は?なんで私?)
秘書は若くてかわいい子だと思うのはフツーのことではある。だが今、綾香は鑑賞中だ。
いっそ無視したいが、騒々しい客が気になったのか、神子がこちらを見ていた。
「秘書席は私じゃなくて」
綾香は席を立ち、隣の島まで天野を案内する。
「舟井さん、常務のスケジュールをお尋ねですよ」
そう言われて立ち上がった舟井が挨拶をする間もなく、
「ほへえー、秘書さんが男なの?はへえー、女性役員だから?それはセクハラにはならないの?」
天野は、がっはっはと笑った。
「関澤常務の秘書をしております。舟井です」
眉一つ動かすことなく、舟井は言った。
で、あんたは誰?と黒縁メガネの奥から目で問いかける。青白い顔のその口元に薄い笑みを貼り付けて。
「ああ、私?天野、岡山支社長」
「おつかれさまです。関澤常務は在室ですが、ただいま近畿営業局長が入られていまして」
舟井が説明している間に、天野は志乃の席札を見た。
『課長 戸川志乃』
天野は志乃を見て小さく顔を歪めると、別席でお待ちくださいと言う舟井を遮って
「近畿局長?近藤さん?そんなら、顔馴染みだから」
と勝手に常務室へと向かってしまった。
仕方なく舟井は、常務室に内線をかけて天野が入る旨を伝えた。
志乃は、パソコンの画面から視線を逸らすことなく、黙々と仕事をしていた。