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19階 営業統括部

午前7時30分を少し過ぎたばかり、丸ノ内中央改札には、数多の革靴が地面を叩く音と自動改札の電子音が、霰のごとく降り注いでいる。


この人の流れは、日本の経済活動そのものだ。と矢島恒久は思っている。そしてここにいる自分は、それを構成するブレインの一因子である。と。

矢島はスマートな仕草でスーツの内ポケットからICカードを取り出し、一連の動きで自動改札機に翳すと、オフィスビルの林立するビジネス街へと踏み出していく。


フラットな石畳、手入れの行き届いた街路樹、オーロラのような流線形を描くビルの壁面、ガラスやタイルをふんだんに使った建物の合間に皇居の緑、まだ眠る高級店のショーウィンドウ。


矢島の勤める一日生命は、皇居のお堀に面して建つ石造りのビルである。ここ10年ほどの東京駅周辺再開発で建てられた真新しいビルとは趣を異にする重厚な建物だ。

矢島は数段の石段を上がり、立っている警備員に首から提げたIDをチラッと提示する。

「おはようございます」

挨拶する警備員に軽く頷きを返す。

円筒形をした入口の自動扉が緩やかなカーブを描いて矢島を迎え入れた。


ーーー


プリンターはまだ動いている。

戸川志乃は時計を見た。もうすぐ昼である。

11時には何やら印刷を始めていたのだから、かれこれ1時間になる。


(カラープリンターで1時間!コスト意識が低すぎる。いったい誰だ?)


志乃は席を立ち、プリンターの小さな液晶をさりげなく見る。発信者の個人番号は00048179。席に戻って検索する。矢島恒久、研修担当。スケジューラーを見ると、午後1時から支社長クラスの経費管理研修とある。


(なるほど。研修資料か。そういや、さっき頭抱えていたような。つっこまれどころにでも気づいたか)


地方の支社長クラスともなると、めんどくさいのがうじゃらうじゃらいる。矢島は、いけすかないすかし野郎だが、営業経験も浅く30前半で、狐や狸を相手に指導的立場をとらねばならないことには同情しないこともない。まあ、矢島の性格からして、萎縮するようなことはないだろうが。

とは言え、カラープリンターで1時間はコスパが悪すぎる。費用面だけでなく時間的にも、印刷室に持ち込んで社内印刷を依頼したほうが効率的だ。その口で費用対効果を説くのだから、正におまえが言うかである。


(ま、小さいことだ。どうでもいい)


そのままにして昼食に立った志乃が昼休憩から戻った頃には、さすがにプリンターは止まっていた。

見ると矢島のデスクにホチキス留めの資料の束が一山積んである。ランチ返上かと笑いかけたが、机上にはコーヒー屋の紙コップと紙袋がある。


(デスクめしか。しかし、ランチのチョイスまですかした野郎だ)


志乃は、キーボードに暗証コードを打ち込んでパソコンのスリープを解くと、経費申請書の束を引き寄せた。仕事だ。


ーーーーー


時刻は間もなく1時。昼食に出ていた社員たちが続々と戻ってくると、矢島は重そうな腕時計を一瞥して「おっと」とわざわざ声に出し、それからノートパソコンと資料の束を脇に、そしてコーヒーを片手に席を立った。


いざ会議室に向かおうと、エレベーターを呼んだが、昼食戻りの社員たちで混雑していてなかなか来ない。

矢島は仕方なく階段を選択する。

階段に向かう手前で、ゴミ回収のワゴンを押す清掃員に出くわしたので、まだ少し残っているコーヒーをそのままにワゴンに投げ入れた。


矢島が颯爽と通りすぎた後、清掃員がゴミ袋の中にこぼれたコーヒを呆然と眺め、怒りに頬を染めることなど、矢島に限って気付くはずもない。


階段に続く金属の扉を開け、リズミカルに駆け降りようとしたその時、矢島は何かに激突し、非常に強い衝撃を受けると同時に転倒した。どこが痛いのか、もはやわからない。それでも矢島は立ち上がろうとして、両手に何も持っていないことに気が付いた。


(パソコン!データッ!!)


見回すと、研修資料は床に散らばっているが、パソコンは自分がしっかり抱きかかえている。


(よかった。さすが俺。……ん……?)


「お……え……」

起き上がった自分が言った。


状況を把握するのは、それほど難しくなかった。所謂、入れ替わり。世界的大ヒットを記録したあの映画のおかげで、大抵の人は既にその概念を持っている。もちろん、あり得ない事象としてだが。


小橋啓介34才、OA機器メーカーキャナックス社員。

このビル内で使われているプリンター、コピー機他、OA機器類のうち、同社製は100台を越える。そのメンテナンスを担当するキャナックスマンは、ビル内に詰所を持ち常駐している。それ、である。


彼の、と言うか、自分の素性がわかったところで、自分の、と言うか、彼のポケットで携帯が振動した。

小橋……、元小橋は元矢島に携帯を手渡した。


「矢島課長補佐、今どこですか?支社長たち、お待ちですよ?」

少し甘ったるい声がした。入社2年目の女子社員、池本綾香である。

「ちょっと問題が発生していて……ムリかもしれない。いや、ムリだな」

「はあ?何、言ってるんですか?出張して来させといてキャンセルとか、私からは言えません。自分で言ってください」

「でも……」

元矢島から携帯を奪い取った元小橋が

「すぐに行く」と答えて電話を切った。


「ほら、行くぞ」

現矢島は、自分のなりをした現小橋に向かって言った。


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