『さくらキャンバス』
今でも鮮明に蘇る。
この季節が始まると、夢となって現れる。
朽ち果てる事のないあの日の記憶。
『さくらキャンバス』
ある日の事、目が覚めると病院に居た。
正確に言うとそこは病室で、現状を把握出来ないままとりあえず時間を確認すべく携帯
電話を開く。
「……まじかぁ」
最期に記憶した日時とその開かれた液晶画面から察するに、どうも自分はここで一晩過
ごしたらしい。更に言うと今まさに二晩目を過ごそうとしていた時、いつも通りの感覚で
目が覚めたようだ。
寝台上からでも覘ける窓の外はとうに真っ暗で、雲ひとつない夜空に散らばる月や星は
とても眩しく見た。
「ぐぅぅぅぅうっ」
そんな柄にもなく浸ってみたものの体は正直である。
「……お腹すいた……」
水分が足りてないらしい咽喉から出た声はかすれていて、先ずは飲み物だと近くにある
棚を開く。
「あった、良かった」
常温のミネラルウォーターを口に含み、口内が咽喉が潤っていく感覚を覚えつつ暗転。
目が覚めた。
今度は昼間に目が覚めた様でma痛いくらいに眩しい太陽、見舞いに来ていた母親、何か
している看護師が目を見開いて驚いていた。
話を聞くに今度は三日ほど眠りこけていたそうだ。とりあえず水分を欲する自分に母は
涙を流しながら「ゆっくりと飲むんだよ」とコップに次いで渡してくれる。
その後担当医を名乗る少しやつれたおばちゃん医師から説明と、今後想定される事を軽
く聞き流しているとまたお腹がなった。
医師は苦笑しながら近くの看護師に「軽食を、消化の良いあのメニューで」と指示を出
す。数分後ノックが響き「やった、食事だ! 」と喜び待っていたが、目の前に出された
のは全粥と海苔佃煮だった。
意外と美味しい。
次の日は普通に、いままでの生活と同じ様に目が覚めた。
特に暇をつぶすものもなく午前いっぱい退屈な時間を過ごし、丁度昼食を終えた頃にま
た扉がノックされる。
「どうぞ」
そう言うとガラッと勢いよく扉が開き、大学の同じサークルメンバーが五名わらわらと
その手に大袈裟な見舞いを持ってやってきた。
先輩が一名、後輩が二名、同期が二名。それぞれが花束なり色紙なり、お菓子の詰め合
わせとかをいろんな感情言葉を込めて棚に置いてくれた。そんな五人に現状と、それと今
後どうなるか分からない旨を伝えると肩を掴んで励ます先輩、何故か涙ぐむ後輩達、頑張
れと中々難しい事をいう同期一名が時間もそこそこに退出して行った。
「みんな行ったぞ、置いて行かれてんじゃんだっせー」
一人残った同期に笑って声をかける。そう言えばこいつは最後まで一言も発さなかった
けど、何しに来たんだろうか? 別に仲が悪い訳でもなく、むしろサークル内ではよく遊
ぶ割と中が良い方だと思っていたんだが……。
なんて笑顔のしたで思っていると、そいつはぐっと眉間にしわを寄せ
「貴様に最高の季節を届けてやる!! それまで必ず生きろ!!」
なんて叫んで勢いよく病室を出て行った。意味が分からん。相変わらず、本当に意味が
分からんが面白い奴だ。そう思い、軽く鼻で笑って……暗転。
暗い。暗い暗いくらーい。
目が覚めた……訳ではなさそうだ。なんだこれは、夢?
何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。ただひたすら暗い場所。
これはなんだろう、これがあれか、死ぬって感覚なのだろうか。
い、嫌だ。まだまだやりたい事出来てないのに、見たかった景色とか、登りたかった山
とかまだ、まだ、まだまだまだまだ……っ!!
何か淡い明かりに照らされた気がして目が覚めた。
慌てて起き上がり、身体がうまく動かずベッドから崩れ落ちる。
しかしこの呼吸の乱れは、多分、いや確実に、それとは違う。さっき見た夢……の様な
何かが原因だ。
そう考えるとゾワっと鳥肌が全身を覆い、急に嫌な汗がだらだらと流れ出す。
あの時、あの淡い輝きが来なければもしかして……そう思うと怖くなり、再び眠る事が
この夜の静けさが嫌になってくる。
「……」
そうだ本を読もう、母が自室から持ってきてくれた旅の本だ。そうだ、それを読もう。
その後も何度も急に眠っては暗い世界に閉ざされ、淡い何かしらの光に救われる夢の様
な不思議な体験を繰り返した。
最初の頃は頻繁に来ていたサークルの面子も、だんだん来なくなった。アイツに至って
は最初の日以外一切顔を出さない。
母も見舞いと家事とで疲れているのだろう、顔に皺が増えた様な気がする。看護師から
も医師からも原因不明だとだんだん気味悪がられてきた気がする。
母にはもう無理に見舞に来なくていいんだよと言っても、我が子の身を案じない親なん
て居ないんだよ。変な気を使うなと皺の増えた顔に笑みを浮かべた。
もう何度目だろう。またあの暗い世界に閉ざされた。
今度はもう、目が覚めなくていい。これ以上母に迷惑をかけたくない。誰かに気味悪が
られるのも、病室を出れば噂の種にされるのももう嫌だ。
だから、だからもう、あの光は来ないでくれ……もう、捨て置いてくれ……。
光は来なかった。
「起きろ馬鹿者!!」
その代わり、頭に鈍い衝撃と耳に酷い刺激が訪れる。
何事かと目を見開き、無理矢理に身体を起こす。するとそこには汚い髭面ひっさげたア
イツが立っていた。
窓の外はとうに暗く、面会時間は過ぎている……一体なぜ? そう思ったがやけに寒く
冬の臭いを感じて気が付く。
「お前、侵入したのか!?」
とても自分のものとは思えない、掠れた声がそれでも言葉に発しなければと懸命になっ
て飛び出す。
「病院で大声出すなんて非常識な奴め、とりあえずこいつを飲め。ひっでぇ声だぞ」
そう言って笑いながらスポーツドリンクを投げる。当然受け止められず、寝台上に転が
り落ちたそれを拾い飲む。
「お前、何でこんな時間に……」
潤いを取り戻した咽喉でそう問いかける。正直、もう誰も来ないと思っていたから。
「たっくさん寝てボケたのか?」
その問いに小首をかしげて、心の底から呆れた顔をするアイツ。
「宣言しただろう、最高の季節を届けに来ると!!」
大声でそう高らかに叫び横に二歩ずれると同時に、後ろのパイプ椅子の布を取る。
「お前病室で大声は非常識――」
言葉を失った。
目の前に春が、それもとても懐かしい春が訪れた。
「懐かしいだろ? これ、近所の公園の大桜」
そう言ってアイツは目の前の春を指差し「覚えているか? 」と笑う。
忘れるわけがない。日が暮れるまで毎日一緒に遊んだ公園にあった大きな桜の木。
その数年後取り壊され、マンションとなったからもう二度と会う事はないと、そう思っ
ていた思い出の桜の木。
「この絵の弁花はな、あの大桜の枝から挿し木して育った桜のなんだ」
あの公園の近所のおじいさんから貰ったと笑うアイツ。それを加工して一枚一枚綺麗な
状態に、そしてそれを当時のあの大桜と同じ構図に仕立てたと。
「絵なんざ描けないから大分時間がかかって冬になっちまったわ、遅くなってすまんかっ
たな」
最高の季節が収められたキャンバスの縁を軽く叩き笑う。
もう、限界だった。
「ってぇ、何泣いてんだお前!?」
溢れだす涙がどうにも止まらない。ぼろぼろと、ぼたぼたとどうしようもなく流れる涙
を、弱々しくなったこの手で顔ごと覆って隠す。
「だって、だってもう、今度こそ死ぬかと思って、もう、お母さんにも迷惑かけたくなく
って、変な眼で、見られたくなくってぇ、えうっ、ひっう……」
心配になって近付いたアイツに素直な感情が溢れだす。
その後騒ぎを聞きつけた看護師がやってきても、その手を離す事はなかった。
目が覚める。アラームを止めて伸びをする。
とても懐かしい夢を見た。
まだ覚醒しきっていない身体をゆっくりと、ゆっくりと手すりを使って起こす。
上半身が完全に起き上がると、あの時のキャンバスが視界に入り思わず笑みが零れた。
「……やっぱりこの季節になると、何度も夢になって思い出しちゃうなぁ」
そう言って大きく膨らんだ自分の腹部を、慈しみを込めて私は撫でた。
どうも、短編物ばかり投げ込んでいる人、牛蒡野時雨煮、です。
あらすじ……でも何でもないですが、あらすじに描いた通り、僕の通勤路に桜が光を浴び輝いていました。それだけで生まれた小説です。