M^2(モリアーティの2乗)
北村想先生の『怪人二十面相・伝』が大好きなので、それのモリアーティ版を書いてみました。
1
窓外に降りつもる雪を見ていたずんぐりした体格の男が、室内のパイプをくわえた長身の男に話しかけた。
「ライヘンバッハのことを思い出すたび、ふとこう思ってしまうんだ。真っ逆さまに滝壺に落ちて死んだはずの探偵は、これこのとおり、よみがえった。だったら、その相手は? 探偵が追いつめたはずの悪党も、やはり同じようにどこかで生きのびているのではないか、と」
長身の男は冷静に指摘した。
「岩の上で何とか踏みとどまったわたしとちがって、あの男は崖から落ちた。わたしに投げ飛ばされてね。それに彼は当時、かなりの高齢だった。仮に落下の衝撃に耐えたとしても、雪まじりのライヘンバッハの滝の水は、さぞ体にこたえただろう。生きているはずがないよ」
「ああ、もちろんわかっているさ。それはそれ、作家的想像力というやつだよ。読者というのは強欲でね。望みさえすれば、ヒーローだけじゃなく、どんなにろくでもない悪党だって生き返るにちがいないと信じて疑わないものなのさ」
「そして、また戦いを続ける?」
「そうさ。繰り返し、何度も何度もね」
長身の男は、軽くため息をつき、静かにパイプをくゆらせた。
2
一九三〇年のイギリスは、嵐の中の小舟のように揺れていた。
前年のウォール街大暴落に端を発する世界恐慌により、イギリスの失業率は一六パーセントを超え、失業者の数は二〇〇万人を数えた。街にあふれた失業者たちは、口々に政府への不満を訴えた。
国内だけでなく、国外からも不穏な気配は忍び寄りつつあった。
同年九月のドイツ国会選挙でのナチ党の躍進である。
過激な排外主義を唱えるこの政党がドイツの政権を取ることにでもなれば、早晩、周辺諸国と衝突することは明らかだった……。
九月二九日。イングランド南部のサウスシーの海沿いに建つ「サザンライツ・ホテル」は、ひとりの客を迎えていた。
ハンチング帽にインバネス・コートを身につけた眼光鋭い老人である。黒塗りのパイプをくわえ、片手にはステッキ、もう片方の手には小さな旅行鞄を下げている。
老人は、宿帳に「シャーロック・ホームズ」と署名した。
今世紀の初頭ならば、その名を知らぬ者はいなかっただろう。親友の医師が小説の形式で発表した、彼が解決した事件の記録は、イギリスのみならず世界中で熱狂的な人気を博していたからだ。
だが、探偵業を引退して三〇年近くを経た現在では、シャーロック・ホームズの名を記憶にとどめている者はそれほど多くはなかった。ロンドンならばいざ知らず、こんな片田舎ではなおさらだ。その証拠に、ホームズの署名を見たカウンターの受付係は、一瞬、記憶を掘り起こそうとするそぶりを見せたものの、結局は「二二一」と印のついた鍵を無言でよこした。
「あの……、ホームズ先生、ですよね」
ホームズの旅行鞄を持ち上げながら遠慮がちに声をかけてきたのは、二〇歳を出るか出ないかくらいの年若いホテルマンだった。ややおさまりの悪い黒髪に、はしばみ色の瞳をした、まずまずととのった容貌の青年だ。青年は、ホームズにひとなつっこい笑顔を向けた。
「わたしのことを知っているのかね」
「もちろんです。難事件を解決して、何度も女王陛下や国王陛下から表彰されて、前の戦争でも、ドイツのスパイを何十人もつかまえたんですよね」
青年のひたむきな言葉に、ホームズは苦笑せざるをえなかった。
「それは話をふくらませすぎだな。実際のところ……」
ホームズは、青年の耳元に口を寄せた。
「直接つかまえたスパイはたったの六人だけだよ」
青年は、ぱっと顔を輝かせた。
「ぼく、フランソワ・モローといいます。フランソワとお呼びください」
青年が口にした名前と姓は、明らかにフランス系のものだったが、話す英語は、きれいなキングズ・イングリッシュだった。身ぶりにも、取り立ててフランス人らしさは感じられない。生まれはフランスだとしても、ほとんどの期間は、このイギリスで育ったのだろう。
「それじゃ、フランソワ、部屋に案内してもらおうか」
ホームズの部屋の窓からは、イギリス本土とワイト島を分かつソレント海峡が見下ろせた。パイプの煙草に火をつけたホームズの視界の底で、幾千の白い波が寄せては砕け、幾万のしぶきへと変わっていく。
退出しかけたドアの前で、言おうか言うまいか迷っている様子だったフランソワは、意を決して口を開いた。
「あの……、昨年のワトスン博士のご逝去にお悔やみを言わせてください」
ホームズは虚を突かれた表情をした。彼を知る多くの者が、そんなものはないと信じ込んでいる内面のやわらかな部分に、青年の言葉は突き刺さった。
「ああ、ありがとう」
「この辺は雨も少ないし、この時季にしては暖かいので、浜辺を散歩すると気持ちがいいですよ。何か用があれば、ぼくに言ってもらえれば……」
「しばらくひとりにしてくれないか」
ホームズの目の奥に浮かぶ表情に気づいたのだろう。フランソワは、何も言わずに引き下がった。
ワトスン……。
部屋にひとりきりになったホームズに、眼下に見える波のように、過去への思いが押し寄せてきた。
3
九月でも肌寒いイングランド南東のサセックスに、その農場はあった。
かつては蜜蜂の養殖で辺りに知られ、住人の要を満たすだけの牛や鶏も飼われていたが、現在では人も家畜の姿もなく閑散としている。
その農場に、「官用車」と判でも押してあるかのような、ありふれた色と形をしたフォードが止まった。車に乗っていたふたりの男のうち、がっしりした体格の三〇代後半の男が助手席を降り、やせた三〇前くらいの連れを運転席に残したまま、農場へと入っていった。
十数分後、農場の中にある屋敷の応接室で、男は、屋敷の主と向かい合っていた。だらしないガウン姿でパイプをふかす主の姿は、どこから見ても、くたびれた老人にしか見えなかった。
「君も今では、兄のあとを継いで政府の仕事をしているそうだな」
「ええ。まだほんの下っぱですがね」
「それで、何の用だね」
マイクロフト・ホームズ・ジュニアは、その質問にすぐに答えようとはしなかった。
「ご友人を亡くされてからは、すっかりふさぎ込んでおられるとか」
屋敷の主、シャーロック・ホームズと多くの冒険をともにしたジョン・H・ワトスン医師は、前年の一九二九年に死去していた。
マイクロフトの言葉に、ホームズはつかの間、遠い目をした。
「ワトスンはいい男だったよ。いい人間は長生きしないものだ」
「ええ。ろくでもない人間にかぎって、なぜか長生きするものです。ちょうど今もそれに悩まされているところでしてね……。実は、あなたに調査を依頼したいのです」
ホームズはあきれたように手を振った。
「わたしが、アスキス伯に請われてフォン・ボルクの逮捕に協力してから一〇年以上になる。今さら、どんな調査にもかかわる気はないよ」
「せめて話だけでも聞いてください。少しは退屈しのぎになるでしょう」
ホームズは、無言で肩をすくめた。
「先週、当局にこれが届きました」
マイクロフトは、一通の手紙をホームズに差し出した。受け取ったホームズは、手紙から手を離した瞬間、マイクロフトが腕時計をちらりと盗み見るのを見逃さなかった。
新聞か雑誌の活字を切り抜いて貼りつけた、いかにも怪しげな様子のその手紙にはこう書かれていた。
「サウスシーに不穏な動きあり。かの人物の資金源になっている模様。当局にて調査されたし」
署名はない。
ホームズはあきれ顔で、マイクロフトに手紙を突き返した。
「こんな要領を得ない手紙をいちいち真に受けていたんじゃ、政府も人手がいくつあっても足りやしないだろう」
「ええ。これだけなら確かにそうです。ですが、この手紙には一通の書類が同封されていました。これです」
マイクロフトが鞄から取り出した書類に、ホームズはわずかに顔色を変えた。見おぼえのある書類だった。いや、この書類自体を直接見たわけではなかったが、はるか昔の捜査で、同種の書類に目を通したことがあった。
「ブルース・パーティントン型潜水艦の設計書です。スパイによって奪われ、あなたが奪還に協力したオリジナルの書類ですよ」
「これは、事件のあと海軍が保管していたんじゃなかったのかね」
「そのはずでした。ですが、海軍に確認したところ、確かにポーツマスの書庫から失われていたそうです」
「しかし、三〇年以上も前の潜水艦の設計書など、今や機密でも何でもあるまい」
「ええ。現代の海戦においてはあんな骨董品の出番はありません。しかし、海軍が厳重に保管していたはずの書類をこれみよがしに同封してきたことで、この手紙にもある程度の信憑性が生じたわけです。サウスシーはポーツマスに近い。たとえば、海軍内部の人間が、ひそかに当局に異変を知らせようとした……とか」
そこまで聞いても、マイクロフトの話は、ホームズの興味を引くものではなかったようだった。
「悪いが……」
マイクロフトは用意していた切り札を使った。
「あなたが興味をもちそうなことを言いましょう。ロンドンでは、最近、『M資金』と呼ばれる莫大な資金の存在がうわさされているのです。この手紙の差出人がほのめかしているのも、おそらくはそのことだと思われます」
「M資金? やけにもったいぶるじゃないか。Mは、マルボロの略かね? それとも、マルコーニかな?」
ホームズは、六年前に売り出された煙草のブランド名と、無線通信の発明でノーベル賞を受賞したイタリア人発明家の名前を、つまらなそうに口にした。
「どちらでもありません。あなたの旧知の人物です」
マイクロフトは、ホームズの耳に口を近づけ、ひとつの名前をささやいた。
「馬鹿な……」
ホームズが見せた表情は、マイクロフトの期待にかなうものだった。依頼についての返答も。
4
「失業者のデモはどうなった?」
ホームズの農場を出たマイクロフトは、待たせていた車に乗り込むなり、運転席の部下に声をかけた。部下は、流していたラジオを止めた。
「リーダーがひき逃げにあって中止になったそうです」
「そうか。早く犯人が見つかるといいな」
「どうでしょう。使われたのは、こんなどこにでもある車でしょうからね」
フォードを発車させた部下は、バックミラーに映るホームズの屋敷に目をやった。
「昔の評判は聞いていますが……、部外者に任せて大丈夫なのですか?」
「設計書をどうやって手に入れたかは気になるが、今はまだ正規の人員を割くほどの大事ではないよ。露払い程度さ、期待しているのは」
マイクロフトは、ホームズの前では決して見せなかった表情を見せた。
「あんな老いぼれでも、いないよりはましだろう」
5
サザンライツ・ホテルに投宿した翌日から、ホームズは調査を開始した。
ホテルの食堂で、地元の新聞を斜め読みしながら、典型的なイングリッシュ・ブレックファーストの朝食を取っていたホームズは、給仕をつとめるフランソワに尋ねた。
「最近、ここいらで何か変わったことはないかね?」
「変わったこと……、ここは静かなだけが取りえの田舎町ですからね」
フランソワは首をかしげると、ホームズにあきれられないか心配するように言った。
「そういえば、最近、鬼火が出るといううわさを聞きました」
フランソワは声をひそめて聞いた。
「何かの調査なんですか?」
「いいや、ただの観光さ」
ホテルを出ていくつかの聞き込みをすませたあと、ホームズは海岸へと向かった。
マイクロフトが受け取った手紙にあった「不穏な動き」と、最近目撃された鬼火に直接関係があるとは思えなかったが、調査の取っかかりにはなるだろう。
海岸には、鬼火のうわさを最初に広めた人物がいるはずだった。岩場に腰を下ろして釣り糸を垂らす初老の男の名は、アシュリー・メイフィールドといった。
「例の鬼火について調べていましてね。はじめて見たのはあなただと聞いたのですが」
ハンチング帽から白髪まじりのもじゃもじゃの髪をはみ出させた、元商店主のメイフィールドは、饒舌に語りだした。
「ええ。六月に夜釣りをしていたときに見たのが最初でした。沖合にぼうっと光る明かりが見えたかと思うと、こちらに近づいてきては、ふっと消えてね。それが幾晩も続くんです」
「海沿いだけでなく、町でも目撃されたそうですが」
「ああ、聞いてますよ。鬼火のやつ、水遊びに飽きて、最近は陸の方にも出張しておるようですな。そのせいか、こちらで見かける数は減ってきていますね」
ホームズは、手近の海岸に停泊した古い漁船を指さした。
「あの船は?」
「あれはロイ・モンタギューの船ですよ。ほら、ちょうど今顔を見せた男です」
メイフィールドが示した指の先では、家の裏庭から顔をのぞかせた中年の男が、ぎろりとこちらをにらんでいた。目が落ちくぼみ、土気色の顔色をしたモンタギューは、ホームズと目が合うと、けたたましい音を立てて扉を閉め、家の中に引っ込んだ。
「モンタギュー氏は、あまり調子がよくなさそうでしたね」
「昨年、奥さんを亡くしてからは、ずっとああですよ。漁に出る気力もないようで」
「そのわりには、船の手入れを怠ってはいないようですな」
「習慣というやつでしょう」
6
夕刻になってから、ホームズは地元のパブ「禍いの荷を負う男」亭に出かけた。地元の人間が多く集まり、情報収集にはもってこい、というフランソワの勧めがあったからだった。
「ちょうど暇をもらえました。今の時期はお客さんがほとんどいなくて」
そう話すフランソワとともにパブの扉をくぐるやいなや、ホームズは、入口近くのテーブルの客から声をかけられた。
「ひょっとして、ミスター・ホームズではありませんか?」
ジョッキを片手に紙巻煙草をくわえたその男は、非の打ちどころのないイギリス紳士といった格好だった。三つボタンの洒落たシングルスーツに、裾の幅の広いオックスフォード・バッグズをりゅうと着こなしている。
「ええ、そうですが、あなたは?」
「ヘンリー・マクドゥーガルといいます。メイフィールドさんに風体を聞いて、もしやと思っていたんですよ。学生時代には、ご友人の著作を読みふけった口でして」
ホームズと握手を交わしたあと、マクドゥーガルは遠慮がちに申し出た。
「あの……、もしよければ、わたしがどんな人間か当ててみてもらえませんか」
ホームズはほほえんだ。昔なつかしいやりとりだった。ワトスンの小説が出回って以来、服装やちょっとしたしぐさから自分の来歴を当てさせようとする読者に、ホームズはすっかり慣れっこになっていた。
「わたしは、探偵業を引退してもう三〇年近くになる、ただの年寄りです。だから、あなたが二年前にロンドンから越してこられたことと、以前は軍隊にいたことしかわかりませんね」
マクドゥーガルは息を呑んだ。テーブルに落とした煙草の灰をあわてて払う。
「さすがはミスター・ホームズだ。ぜひ、一杯おごらせてください」
マクドゥーガルは、カウンターの店主に向けて親指と人差し指を立てた。
「エールふたつだ」
三人で乾杯したあと、マクドゥーガルの求めに応じて、ホームズは推理の根拠を説明した。
「あなたの言葉には、ここのなまりがない。磨きあげた靴はぴかぴか。身につけているスーツは、ロンドンでしか仕立てられないオーダーメイドだ。くたびれ具合から、仕立てて二、三年といったところでしょう」
「軍隊の件は?」
「煙草ですよ」
ホームズは、テーブルの端に置かれたマクドゥーガルの煙草の箱を指さした。
「なるほど。習慣とはなかなか抜けないものですな」
マクドゥーガルは、合点がいったようだった。
「ところで、こんな片田舎にこられたのは、何かの事件の調査ですかな?」
「いいえ、ただの観光ですよ。ですが、こちらも昔の習慣というやつで、例の鬼火が気になりましてね」
「鬼火ですか。わたしも何度か見かけましたよ。道端で、またたきながら宙をさまようのをね。ここの客の中にも、見た人間は何人もいます。あるいは、何らかの自然現象なのかもしれません」
7
ホームズとフランソワが「禍いの荷を負う男」亭を出るころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
フランソワが、ふところから取り出した懐中電灯で照らす夜道を、ふたりはホテルに向かって歩きだした。その途中、ぬかるみに足を踏み入れて、ホームズは顔をしかめた。
「このにおいは……」
フランソワが、道の脇に広がる沼を懐中電灯で照らしだした。
「そっちは沼です。近づくと足を取られますよ」
だが、ホームズは、フランソワの助言に反して沼の方に歩み寄ると、暗がりにひそむものの正体を探るように、しばらくの間たたずんでいた。
「ホームズ先生、どうして、煙草の箱からマクドゥーガルさんが軍隊にいたことがわかったんですか?」
「煙草の箱の開け方さ。軍人は煙草を取り出すとき、吸い口にふれないように箱を底から開けるんだ。弾薬に血に糞尿……、戦場では手は汚れているものだからね」
ホームズは、今口にした言葉にはっとした様子を見せると、フランソワに尋ねた。
「マクドゥーガル氏は、いつも靴をあんなに磨き上げているのかね」
フランソワは首をかしげて考え込んだ。
「以前はそうでもなかった気がしますが、最近はいつもきれいにされていますね」
「そうか。マクドゥーガル氏の家はここから近いのかな?」
「ええ。すぐそこですよ」
フランソワに案内されて、ホームズはマクドゥーガルの家の敷地に入り、呼び鈴を鳴らした。しかし、「禍いの荷を負う男」亭を先に出たはずのマクドゥーガルは、留守にしているようだった。
マクドゥーガル家の入口からきびすを返したホームズは、フランソワに奇妙な注文をした。
「明かりを消してくれないか」
懐中電灯の光が消えた闇の中で、ホームズは地面に膝をつくと、敷石の上にこびりついたものを小袋に採取した。
8
ホテルに戻ったホームズは、部屋にフランソワを招き入れた。テーブルにふたつ並べたグラスに、少量のウイスキーを注ぐ。
長年の習慣で、考えを整理するのに、ホームズは他人との対話を必要としたのだった。口を開く前に、部屋に届けられていた電報の封を切ったホームズは、電文に目を通すと満足そうにつぶやいた。
「思ったとおりだ」
ちびちびとウイスキーをなめていたフランソワは、おずおずと尋ねた。
「何か事件に関係があることですか?」
「沖合に現れる鬼火、目の落ちくぼんだ男、漁には出ないのによく手入れされた船……、これらが示すものは明らかだ。目利きの探偵でなくとも、ワト……、熟練した医師なら、たちどころに見抜いただろう」
ホームズは、フランソワに電文を見せた。そこには、三つの単語だけが書かれていた。「モンタギュー アヘン ミツユ」。
「モンタギューさんが、阿片の密輸を?」
「ああ。彼の症状は明らかに阿片中毒者のものだ。昔は、阿片など珍しくもなかったが、最近はうるさくなってきたからね」
一九二〇年の危険薬物法の成立によって、イギリス国民は、数世紀にわたって慣れ親しんだ阿片の使用を全面的に禁止されていた。
「あの釣り好きのメイフィールド氏には、うわさ話を大げさに広めるきらいがある。大陸側から阿片を運んできた船に、モンタギューが自分の船から合図した明かりを見て、鬼火が出たと言い立てたんだろう」
「では、町で目撃された鬼火は、勘違いだったということですか?」
「いいや、それさ、気に入らないのは。陸の鬼火は確かにあったんだ」
ホームズは、眉根を寄せて考え込みながらウイスキーをあおった。
「一見、ことは単純に見える。犯罪者がいて、事件の隠蔽をはかる協力者がいて、真相を探偵に告発する通報者がいる。事件は一件落着だ。だが……」
「そういえば、さっき気づいたことがあったんですが……」
フランソワにあることを耳打ちされたホームズは、一転して、機嫌よく空のグラスにウイスキーを注いだ。今度のは、前よりもずっと量が多かった。
「どうやら、これでパズルのピースがすべてそろったようだ」
9
その翌日、ホームズの通報にしたがって、地元の警察がモンタギューの家に踏み込んだ。
モンタギューの家と彼が所有する船からは、電報にあったとおり、阿片の密輸を示す証拠が次々と見つかった。
暗くなってから、ホームズは、マクドゥーガルの家を訪ねた。今度は、前の晩とはちがい、マクドゥーガルは喜んで出迎えた。
「さすがは名探偵ですな。わずか一日で、鬼火の正体を見抜くとは」
「いえいえ、ホテルに通報があったのでね。わたしは何もしてはいませんよ」
「しかし、そうすると、町で目にした鬼火は錯覚だったのでしょうか?」
「そこですよ、面白いのは」
ホームズは応接室の窓に近づき、カーテンに手をかけた。
「おや、あれは……」
怪しげな光を放つクリケットの球くらいの大きさの鬼火が、窓の外を横切った。
部屋の中に騒々しい音が響きわたった。大きく後ずさったマクドゥーガルが、椅子を倒す音だった。
「もういいよ。入ってきたまえ」
ドアを開けて入ってきたのは、鬼火をささげ持ったフランソワだった。手の中の鬼火は、部屋に入った途端、光を失った。
「それは一体……」
「風船に夜光塗料を塗ったものさ。これに沼池から出るメタンを詰めてやれば、ここらを騒がせた鬼火の出来上がりだ」
今世紀初頭にドイツで開発されたラジウム夜光塗料は、第一次世界大戦で軍事利用されたこともあって、ヨーロッパ中に広まっていた。そして、ホームズは、沼からの風に含まれるメタンの臭気に気づいたのだった。
「鬼火を町中に飛ばしていた人間は、海以外でも目撃されれば、モンタギューに対する疑いが弱まると思ったんだろう。木は森に隠せ、というやつさ」
「それもモンタギューが? それとも、共犯者のしわざですか?」
「最初はそう思っていた。一方に、モンタギューの協力者がいて、もう一方には、今回の通報者がいると。だが、そのふたりが同一人物だったとしたらどうだろう?」
「これ以上はモンタギューをかばいきれなくなったと?」
「ああ。モンタギューを犠牲にしても、古色蒼然とした探偵にお引き取り願いたかったのさ。うっかり自分がやっていることを嗅ぎつけられでもしたらたまらないとね」
マクドゥーガルは、わずかに口ごもった。
「そんな男がいたとして、その男は何をやっていたのですか?」
「いくつか考えられるね。たとえば、バスタブでこっそりジンを作る輩がいるそうだよ。これはアメリカの話だがね」
一九二〇年から施行されたアメリカ禁酒法は、一九三〇年当時も効力を失ってはいなかった。ニューヨークだけで五万軒もの違法なパブを生みだした、この世紀の悪法が廃止されたのは、それから三年後のことである。
「古典的なにせ金づくりも忘れちゃいけない。昔、プレスコットという男が作った、目がさめるような印刷機を見たことがあるよ。あるいは……」
ホームズは、カーテンを開けたままの窓を指さした。その指は、北の方角を示していた。
「あるいは、こうだ。ここはポーツマス海軍基地に近い。その男は、基地を見張っていたんじゃないかな。そして、いざというときにモンタギューの船が必要だったか、または罪を着せでもするために、あの阿片中毒者を手元に置いておきたかったのさ」
ホームズは、手にしたステッキでコツコツと床をたたいてから、その先端をマクドゥーガルの靴に向けた。
「こんな田舎に、不自然なほどに靴を磨きあげた男がいる。何のために? 紳士のたしなみか。もちろん、それもあるだろう。だが、ひょっとしたら、何かで靴が汚れることを恐れたためじゃないだろうか」
ホームズは、ポケットから小袋を取り出し、中に入っていた粉をテーブルの上に空けた。部屋の明かりを消すと、テーブルの上の粉は微光を放った。
「君の家の敷石に付着していた夜光塗料だ。鬼火がこんなところまで遠出すると聞けば、メイフィールド氏も話の種になると喜ぶだろう」
マクドゥーガルはかすかに身震いをした。
「わたしが祖国を裏切って、スパイをしていたと言うのですか?」
「別に祖国を裏切ることにはならんさ」
ホームズは穏やかに指摘した。
「君はドイツの生まれだろう」
顔色を変えたマクドゥーガルは、ふところからピストルを取り出した。ホームズを突き飛ばし、ドアに向かって駆けだす。
そのとき、ドアの前にフランソワが割って入った。
「よせ!」
思わずホームズは叫んでいた。若さゆえの無鉄砲な行動だろうが、ピストルを持った相手に素手で立ち向かうなど無茶もいいところだ。
体格のちがうマクドゥーガルに押されて、フランソワはなすすべもなく後ろに倒れこんだ。だが、次の瞬間、きれいな弧を描いて、マクドゥーガルの体は宙を舞っていた。
マクドゥーガルの腹に当てた右足を支点に、相手の勢いを利用して後方に投げ飛ばしたのだ。起き上がって服のほこりを払うフランソワに、ホームズは感嘆の声を上げた。
「見事な腕前だな。驚いた」
フランソワは息ひとつ切らさずに答えた。
「ホテルマンというのは、こう見えてなかなかの力仕事ですからね。時には、暴れる酔っ払いを取り押さえたりもしなくてはいけませんから」
ホームズの合図で、あらかじめ待機させておいた警官隊がドアからなだれ込み、マクドゥーガルを引っ立てていった。
10
警官たちがマクドゥーガルの家を捜索する中、ホームズは、奥の部屋に向かった。部屋の隅に置いてある木箱を開け、その中身に巻かれていた布をめくる。
「無線通信機ですね」
「そうだ。マルコーニ先生の発明品さ。これで仲間のスパイと連絡を取り合っていたのだろう。まったく、文明の進歩というのも諸刃の剣だな」
ホームズは、ワトスンとはじめて出会ったとき、血液だけに反応する試薬を実験中だったことを思い出した。それは、血痕を他の染みと区別する画期的な判定法になっただけでなく、犯罪捜査に科学的分析を持ち込む第一歩ともなったのだった。
だが、捜査の進歩にともない、年々、犯罪も巧妙になってくる。いたちごっこだ。
「今度の事件には、『サウスシーの鬼火』とでも名づけるかな」
ホテルへ戻る帰り道で、上機嫌にそう言ってから、ホームズは心底がっかりしたようにつけ加えた。
「ああ、ここにワトスンがいればなあ」
三日後。サウスシーの浜辺に、ステッキをつきながら歩くホームズと、それにつきそうフランソワの姿があった。
モンタギューの密輸事件とマクドゥーガルのスパイ事件。ふたつの事件をめぐる騒動にようやく片がついたため、ホテルに着いた最初の日にフランソワがすすめてくれた浜辺を案内してくれ、とホームズが頼んだのである。
曇り空を見て、フランソワはふたり分の傘を抱えてホームズのあとに続いた。
周りに人影が見えなくなったとき、ホームズは、後ろを振り向かずにフランソワに声をかけた。
「君がモリアーティなんだね?」
11
「どうして、わかったんです?」
ホームズは後ろを振り返った。フランソワは、ホームズが今までに何人も相手にしてきた悪党のように、ふてぶてしく笑ったりはしなかった。出会ったときと同じように、ひとなつっこい笑みを浮かべたままだ。
「マクドゥーガルを投げ飛ばした技―—、あれはバリツだね」
それは、四〇年近く前に、ホームズ自身が、ライヘンバッハの滝で宿敵モリアーティを投げ飛ばしたときに使った技だった。日本発祥の格闘技である。
「ええ。正確には巴投げと言うそうですよ。ジュージュツの先生から教わりました。片田舎のホテルマンが、東洋の格闘技を身につけているのはおかしいですか?」
「いいや、そうじゃない。ピストルを持った相手に恐れげもなく立ち向かっていったからさ。興奮にわれを忘れたのかと思ったが、君は冷静そのものだった。君は、彼が撃たないことを知っていたんだ」
くるりとひらめかせたフランソワのてのひらの上に、手品のようにピストルの弾丸が現れた。
「前の日の夜に抜いておきました。追いつめられた人間は、何をするかわかりませんからね」
「それに、マイクロフトのところに送られてきた手紙、あの活字は、『サウスシー・タウン・クロニクル』のものだ。ホテルが取っていた新聞も、『サウスシー・タウン・クロニクル』。そして、支配人の話では、たまった新聞を燃やすのは君の仕事だと。それだけじゃない。メイフィールドやマクドゥーガルとタイミングよく引き合わせたのも君だ。まったく……、少しばかりヒントが多すぎやしないかね」
フランソワは手をたたいた。その瞳に皮肉の色はなく、素直な感嘆の色だけがあった。
「ご推理のとおりです」
「手紙に同封した設計書はどうした?」
「ここにくる前は、ポーツマスのパブで働いていました。常連の水兵さんたちには、ずいぶんかわいがってもらいましたよ。でも、あそこの基地は、警備をもっと厳重にした方がいいですね。最新のレインボー級の設計書を持ち出す誘惑を押しとどめるのは大変でした」
「すべては、わたしを呼び寄せるためか」
フランソワはうなずいた。
「ロンドンにうわさを流しました。地方都市で、モリアーティの残党と見られる組織がひそかに活動していると。それほど信憑性のあるものではありません。きなくさい現在の情勢からすれば、当局としては、正規の人員を割くことはできるだけ避けたがると考えました」
「そこで、とうの昔に引退した老いぼれの出番、か」
皮肉っぽくほほえんでから、ホームズは真顔になった。
「わたしを呼び寄せた目的は復讐なのかな?」
「まさか」フランソワは首を振った。「一度あなたとお会いしてみたかった。それだけです」
「彼は今でも……?」
「いいえ。父は死にました」
「そうか」
ホームズは短くうなずいた。それはすでに予期していたことだった。心を動かされたのは、「父」という単語の方だった。
12
「お父さんの話をしてもらえるかな。ライヘンバッハからあとのことを」
「当時の父は四〇代半ばでした。体力的に、落下の衝撃に耐え、極寒の急流に流されても生きのびられるギリギリのところだったようです。息も絶え絶えに川から打ち上げられた父を助けたのは、スイスの裕福な未亡人でした。ぼくの母です。母は、財産や外見よりも、相手の知性に惹かれる気質でした。もっとも、早死にした最初の夫のおかげで、金銭には不自由しなかったことも大きかったでしょうが」
フランソワはクスクス笑った。
「そして、あなたがお嫌いで、ワトスン博士ならさぞお気に召しただろうメロドラマのあげくに、ぼくが生まれたわけです」
フランソワは、胸元に下げていたロケットを開き、中の写真を見せた。
そこには三人の人物が写っていた。
真ん中にはフランソワ自身とおぼしき、背の高い椅子に座った五、六歳の幼児が、その右には、上品な中年の婦人が写っている。
そして、左側には、少年期のホームズの家庭教師をつとめ、長じては宿敵となった男の年老いた姿が写っていた。
ジェイムズ・モリアーティの姿が。
だが、それは、ホームズの知るモリアーティではなかった。
重力だ。かつて彼の全身をおおっていた重力が消えていた。
猫背気味の背中だけでなく、その精神をも大きく歪めていた巨大な重力が消え失せたその柔和な表情は、かつての「犯罪界のナポレオン」とはほど遠く、上品だが平凡な老紳士という印象しか与えなかった。
彼は、ホームズが自身の精髄と信じる部分を失ったかわりに、ホームズが決して手に入れることができなかったものを得たのだ。
13
「父親としての彼はどうだったかね?」
「ぼくが生まれたのは、父が六〇近くになってからでしたから、すっかり子煩悩の爺さんになってしまっていましたね。ぼくのことをひどく甘やかして、顔を見るたびにチョコレートをくれるものだから、子供のころは虫歯だらけでした」
ホームズは、その様子を想像して、つい顔をほころばせた。
「悪くない晩年だったと思いますよ。『犯罪界のナポレオン』、『ロンドン中に張り巡らされた蜘蛛の巣の中心で糸を引く巨大な蜘蛛』―—、そんな仰々しいふたつ名で呼ばれた人間にしては」
「わたしがめぐり合った犯罪者の中で、お父さんほど独創的な人物はいなかった。彼は、ロンドンの闇を意のままに支配していたんだ」
だが、ホームズの言葉に、フランソワはゆっくりと首を振った。
「買いかぶりです」
「何だって?」
「ロンドンを裏側から支配する悪の帝国―—そんなものはなかったのですよ」
「なかった……?」
「父は、あなたが思っていたほどたいした悪党ではなく、ひいでた才能を適切に評価されず、社会に不満を抱いていたインテリのひとりにすぎませんでした。名高い悪の帝国も、せいぜい内輪だけの違法なサークルというのが正味なところです」
「だが、わたしは……」
「そう、あなたとご友人の著作が、父を実際よりはるかに大きく見せてしまったんです。蛇を竜に、鳩を猛禽へとね。そして、火のないところにあなたがたが放り込んだマッチの火が、業火となって今も燃えさかっているんです」
ホームズは困惑した表情を見せた。
「よくわからないな。つまり、組織は今も存続しているのかね? 彼を失ったあとも」
「あなたの冒険談を読んで、多くの人がこう考えました。世界の首都たるロンドンには、きらびやかな栄光と同じくらい深く翳りをおびた部分があるにちがいない、と。それを利用したのが、あなたの兄上、先代のマイクロフトでした」
「マイクロフトが……?」
「兄上はご慧眼でした。国家という巨大な機械をコントロールするには、表の世界だけでなく、裏の世界も掌握することが必要だということを理解されていました。当時は、ドイツとの戦争が迫っていたという事情もありましたしね」
「だが、兄は死んだ」
ワトスンの死の次に、ホームズを打ちのめしたのが、幼少期から彼の才幹を高く評価してくれたこの兄の死だった。
「ええ。組織は、今、後継者の手にゆだねられています」
「その後継者というのは……」
ホームズの脳裏に響く声があった。
―—君も今では、兄のあとを継いで政府の仕事をしているそうだな。
―—ええ。まだほんの下っぱですがね。
「そうです」フランソワはうなずいた。「今は、マイクロフト・ホームズ・ジュニア、あなたの甥御さんがその組織を仕切っています」
ホームズはめまいがする思いがした。何もかもが一度に起こりすぎている。モリアーティが生きていた一九世紀に戻ったかと思えば、今度はまた二〇世紀、それも甥が犯罪組織を主導している、歴史が書き換えられた二〇世紀にやってきた気分だ。H・G・ウェルズが一八九五年に発表した小説に登場する、タイムマシンとかいう乗り物にでも乗っているかのようだ。
14
「それでは、M資金というのも嘘かね」
「いいえ」フランソワは首を振った。「M資金と呼ばれるものは確かに存在します。ですが、Mは、モリアーティのMではなく……」
「マイクロフトのMか」
「はい。驚かれるかもしれませんが、M資金の中核を占めていたのは、あなたが極秘裏に解決した事件の依頼主からの口止め料でした。前世紀の一時期、あなたは、ボヘミアやらドイツやら、醜聞を抱えるヨーロッパ諸国御用達のトラブル解決係でしたからね」
「まさかマイクロフトがそんな強請りまがいの真似を……」
ホームズは、今日一日で、残りの一生分の驚きを使い果たしてしまったようだった。
「兄上は、あなたとちがって、ずいぶんと下世話なことにも通じておいででしたからね。国家のためには手段を選ばず。けれど、それでいて、決して自らの私腹を肥やすことはありませんでした」
ホームズは、フランソワが言外に匂わせた意味を敏感に感じ取った。おそらく、兄の後継者はそうではないのだろう。そういえば、マイクロフト・ジュニアがしていた腕時計は、パテック・フィリップ社製のものではなかったか。あれは、当人の言う役人の薄給では、とうてい手が出せる代物ではない。
すっかり気が抜けた様子のホームズに、フランソワは笑いかけた。
「そういえば、復讐とおっしゃいましたね。実はあなたを恨む気持ちがまったくないと言えば、嘘になります」
「そうかね」
「ええ。父は酔っ払うたび、あのいまいましい探偵がわしを投げた技だと、ぼくにさっきのバリツをかけようとしたものでした。子供のころは、それで、あなたのことを大いに恨んだものです」
放心状態が続いた反動だろう。これほど大声で笑うホームズは、ワトスンでさえもめったに見たことはなかった。
15
ひとしきり笑ったあとで、ホームズは、かつての宿敵の息子に問いかけた。
「君はこれからどうする? まさか、あのホテルに骨を埋める気はあるまい」
「この間、マルコーニの無線の話をされましたね」
ホームズの質問に直接には答えず、フランソワは空を見上げた。この地方特有の、極太の刷毛で刷いたような曇天である。
「こんな想像をしたことがあります。はるか未来には、無線でできた巨大な網がこの世界をくまなく覆うようになるかもしれない、と。主人のいない自由な蜘蛛の巣です」
ホームズもつられて空を見上げた。のっぺりした雲の群れだ。だが、その中でも水蒸気は絶え間なく動いているのだろう。
フランソワはホームズに視線を戻した。ふたりの目が合う。
「でも、ぼくらの世界の、影の領域に張られた蜘蛛の巣には、まだ取り仕切る頭が必要です。『巣の中心で糸を引く巨大な蜘蛛』が」
ホームズは小さく息を吐いた。自分をこの地に呼び寄せたのは、暴力と陰謀が支配する裏の世界に飛び込む前に、かつての父親の宿敵と会っておきたいというフランソワなりの決意のあらわれだったことが知れた。
「だからと言って、君がその席を占めなくてはならないということもないだろう」
「ええ。ぼくだって、ふさわしい人間がいるなら、面倒な役目は他の誰かに押しつけたい」
フランソワは肩をすくめた。
「けれど、もうあまり時間がないのです。政府の高官だったあなたの兄上は、表と裏の組織を巧みに操って先の戦争を乗り切りました。ですが、息子の方のマイクロフトでは、ドイツとの次の戦争には勝てないでしょう」
―—ナチ党がドイツ第二党に躍進!
ホームズは、つい先日読んだ新聞記事を思い出した。
ナチ党の党首……、たしかヒトラーといったか。あれは危険な人物だ。ドイツとの再度の戦争……、おそらく起こるだろう。それもそう遠い先のことではない。
見る間に、空から雨の最初のひとしずくがこぼれ落ち、すぐさま本格的に降りだした。だが、フランソワがあらかじめ広げておいた傘のおかげで、ホームズは濡れずにすんだ。
傘をさしながらホテルへ向かう帰路、ホームズはふと思いついてフランソワに尋ねた。
「そういえば、聞くのを忘れていたな。マクドゥーガルの英語は完璧だった。なぜ、彼がドイツ人だとわかった?」
非の打ちどころのないイギリス紳士と見えたマクドゥーガルの素性に気づいたのは、フランソワの方だった。
「数を数えるときの指の折り方です。ぼくらイギリス人は、人差し指、中指と数えますが、ドイツ人は、親指から順に数えていきます。エールを注文したとき、マクドゥーガルが立てていたのは、親指と人差し指でした」
フランソワは、今口に出した二本の指を立ててみせた。それは、マクドゥーガルが突きつけたピストルの形に似ていた。
「なるほど。こいつは一本取られたな」
「ほんの初歩ですよ。親愛なるホームズ」
16
数日後。ふたりが別れの挨拶を交わしたのは、ポーツマス&サウスシー駅だった。
ホームズは、自宅のあるサセックスへ。フランソワは、世界の首都たるロンドンへ。
バーバリーのトレンチコートに身を包んだフランソワは、ホテルの従業員に扮していたときとは打って変わって、貴公子然としていた。ホームズはその姿をまぶしく見つめた。
「あなたに渡すものがあるんです。晩年の父は、ずっとこれにかかりっきりでした」
フランソワは一冊の本を差しだした。
「改訂版です。これを理解できるのはおそらくあなただけだろうと」
フランソワは、恥ずかしそうに頬を染めた。
「ぼくはいつも、二ページ目の真ん中あたりで眠くなってしまうんです」
お返しとばかりに、ホームズは、折りたたんだ紙片を指につまんで、フランソワに差しだした。
「これは?」
「ひとつ心当たりがあってね。マイクロフトが貴重な文書を保管するとしたら、おそらくそこだろう」
「いいんですか?」
「徒手空拳で彼と渡り合う気なら、これくらいのハンデがあってもいいだろう」
フランソワは優雅に一礼すると、紙片をコートの内ポケットにおさめた。
「それじゃあ、フランソワ……」
別れの握手を求めてのばしかけた手で、ホームズは、ぴしゃりと自らの額をたたいた。
「まったく、なんてまぬけだ。もっと早く気づくべきだった。フランソワとは、ナポレオンの息子の名前だね」
「ええ。あなたに気づいてもらうためのヒントのひとつです。せっかくの出会いをできるだけドラマチックなものにしようと考えてしまうのは、きっと父親ゆずりの性分なんでしょう」
ホームズは目の前の青年のはしばみ色の瞳を見つめた。若く、自信に満ちている。おそらく彼はやりとげるだろう。エルバ島から捲土重来をはかろうとしたナポレオンのようにはなるまい。
万が一、自分に子供がいたら……、ふと胸をかすめた思いがホームズにあることを気づかせた。ある意味では、自分がこの青年を生みだしたのだ。ライヘンバッハで自分が滝壺に投げ飛ばしたことが、冷たく正確に動く機械時計のような、数式と陰謀以外のものが占める場所をもたなかった宿敵の人生に、この温かい誤算を贈ったのだ。
ホームズはわずかに顔を伏せた。口元が、ほほえみのかたちを作るように動いた。
「最後に、君の名前を教えてくれないか」
17
その夜、ホームズは、サセックスの自室で、前の戦争以来愛飲しているトカイワインのグラスを片手に、フランソワに渡された『小惑星の力学』を手に取った。列車の中では開く気になれなかったのだ。
ワトスンを幾度となく嘆かせたコカインは、とうの昔にやめている。
貴腐ブドウからできたトカイワインの飲み口は甘く、だが、ひとりで過ごす夜にホームズをいざなう過去への回想は、それ以上に甘かった。
ワトスン、マイクロフト……。思い出の中では、いつでも今は一九世紀で、いつでも場所はベーカー街だ。そして、アイリーン……。
ため息をひとつつくと、ホームズはその本のページをめくった。
『小惑星の力学』―—、それは、地方の大学の冴えない数学教授だったころのモリアーティが発表した博士論文である。控えめに言っても、その論文は、一九世紀の数学のレベルをはるかに超越していた。その画期的な内容が正当に評価されるには、ライヘンバッハから時を経ること一四年、時間と空間に関する奇天烈な論文を発表したベルンの特許審査官、あのアルバート・アインシュタインの登場を待たねばならなかった。
だが、そのころには、犯罪者として以外のモリアーティの功績は、すっかり忘れ去られていたのである。
ただし、ホームズだけは、そのかぎりではなかった。
「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」
戦略家として名高い、古代中国の孫子の兵法だ。
その格言のとおり、「M」の頭文字がついたホームズの書棚は、他のどのアルファベットの棚よりも広かった。犯罪とはまるで無関係なモリアーティのこの著作にも、ホームズは何度も目を通している。彼と火花が散るような激しい争いを繰り広げていたころも、ライヘンバッハの滝の水が、その火花をすべて消し去ったと信じたあとも。
旧版の内容を知る者だけが気づく細かな改定内容に、目を細めながら読み進めていたホームズの目に、下に線を引いた次の一節が飛び込んできた。
「ふたつの小惑星が衝突することなく、調和を保ったまま巡ることができるためには……」
時が止まったように、その一節を穴があくほど見つめたまま、ホームズは目をしばたたかせた。何度も何度も。
18
日が昇りはじめたばかりの早朝の冷気を引き裂いて、一発の銃声が響きわたった。
ロンドン郊外に広がる「国民の森」エッピング・フォレストである。
撃ち手であるヴィンセントは、だが、発射した瞬間に銃弾が外れたことを悟って、音を立てて舌打ちした。
狙いをつけていたまるまる太った牡鹿は、豊かな下肢を揺らして、木々の間を走り去った。
ヴィンセントの腕なら、外すはずのない距離だった。八歳のころから大叔父に狩猟術をたたきこまれたヴィンセントは、名人と言ってよい腕前だったが、現在は精神的な揺れが引き金を引く指先を鈍らせているのだった。
ヴィンセントは、これ以上狩りを続けるのをあきらめ、紙巻煙草に火をつけた。
「そんなへっぴり腰じゃ、兎一匹仕留められんぞ!」
幾度となく浴びた大叔父の叱責が、耳元で聞こえるようだった。
アフガン戦役で数々の軍功を挙げた大叔父は、剣呑きわまりない狩猟家でもあった。軍を退役したあとに、その銃弾の餌食になったのは、必ずしも獣ばかりではない。
おれは駄目なハンターさ。あんたみたいにはなれない。
卓越した射撃の腕前を買われて、ロンドンを牛耳る秘密組織に入ったヴィンセントだったが、数日前に犯した失敗のせいで、今や、その組織から追われる身だった。
なぜ、あのとき自分は撃てなかったのだろう。紫煙を吹かしながら、ヴィンセントはぼんやり考えた。
今は亡き大叔父ならば、ためらうことなく引き金を引いただろう。
木々を揺らす音に、反射的に銃口を向けたヴィンセントは、それが鹿や猪といった野生動物ではなく、二〇歳を出るか出ないかの青年であることを見て取り、銃口を下げた。
いかにも育ちのよさそうなその風体から、組織の追っ手ではあるまいとほっとしたのもつかの間、ヴィンセントがふたたび銃口を上げたのは、青年がライフルを下げていたからではなく、その逆、丸腰だったからだった。
「迷子にでもなったのか、ぼうず。銃も持たずに狩猟場にやってくるなんてな」
「太公望とかいう中国の仙人は、針をつけずに釣りをしたそうだけどね」
青年の不可解な言葉に、ヴィンセントは渋面を作った。彼は、釣り人をよそおった太公望が、軍師を求めていた文王を、釣り針のない竿で見事に釣りあげた逸話を知らなかった。
「あなたを探してきたんだよ、ミスター・モラン。足取りをつかむのにずいぶん苦労した」
「ほう。それで、おれに何の用だ?」
ヴィンセントは慎重に青年の胸に狙いをつけた。気に入らないことに、青年は笑顔をたたえたままだった。虚勢を張っている風もない。
「『デイリー・ヘラルド』の話を聞いたよ、ミスター・モラン。襲撃には成功したのに、記者を撃たなかったって」
なぜ、この若造はそのことを知っているのだろう。やはり組織の人間なのだろうか?
「撃たなかった理由を聞いてもいいかな?」
ヴィンセントは、自分の前に平身低頭してうずくまる男の姿を思い出した。質問に質問で返されるのは不愉快だったが、ヴィンセントは答えてやることにした。組織には通じるはずもない命令違反の理由を、誰かにぶちまけたい気持ちもあった。
「あのブン屋の野郎、娘が三人いるなんて言いやがるからよ。しょうがねえだろ」
そんな安っぽい哀願にほだされて、ヴィンセントは、組織に命じられた標的を見のがしたのだった。ヴィンセントは、自嘲気味に肩をすくめた。
「まあ、あいつが言ったのは、その場しのぎの嘘の皮で、おれはひっかけられたのかもしれねえけどな」
青年はにっこり笑った。
「そんなことはない。彼の一七歳と一五歳と六歳の娘は、今でもあなたに感謝していると思うよ。ミスター・モラン」
一瞬鼻白んだヴィンセントは、気持ちを見透かされたのではないかと、ことさらに声を張りあげた。
「こっちが答えてやったんだ。用があるなら、さっさとそれを言いな」
「今のあなたにはいい話だよ、ミスター・モラン。ロンドンを、今あるのとは別の組織が牛耳ろうとしている。それに加わる気はないかい?」
ヴィンセントは、思わず口笛を吹きそうになった。そいつはいい。渡りに舟というやつだ。その新興の組織とやらが、組織との関係に亀裂が入ったヴィンセントの腕を買って、この使い走りの小僧を差し向けたというわけか。
ヴィンセントは、青年に向けていた銃口をわずかにそらした。
「そいつは願ったりだが……、簡単に信用するわけにはいかないな。その新しい組織の規模はどれくらいだ?」
「ふたりだ」間髪入れずに青年は答えた。「ぼくとあなたと」
ぺっ、とヴィンセントは、くわえていた紙巻煙草を吐き出した。
せっかく運が向いてきたかと思えば、このくそがきのたわごとだったとは……!
期待を裏切られてむかっ腹を立てながら、ヴィンセントは、銃口をぴたりと青年の心臓に向けた。
「今すぐここから消えろ。さもないと……」
青年の次の発言は、ヴィンセントの虚を突いた。
「W文書の隠し場所を知っているんだ」
「何だと……」
W文書!
それは、大叔父の宿敵だった探偵が解決した数々の事件の真相を記した一冊の書類のことだ。オリジナルの事件簿に、のちに得られた詳細な調査結果を追加したものだが、オリジナルの著作者の名前を取って「W文書」と呼ばれている。メアリー・セレスト号の真相、切り裂きジャックの正体、ロマノフ朝の最後の末裔の行方……、国の屋台骨を揺るがしかねない未解決事件の真相もそこには含まれるとされていた。
一種の閻魔帳であり、そこに書かれた国内外の王族・貴族の弱みを握ることで得られた資金によって、組織が、ロンドン内部のサークルから国際的な犯罪組織に変貌を遂げたことは、組織の人間にとっては公然の秘密だった。
「それをぼくらが手に入れれば、組織への宣戦布告にはもってこいだと思わないか?」
W文書に記されている事件の多くは、三〇年以上も前のものだ。すでに鬼籍に入っている関係者も多く、現在では、貴族らに対する脅迫材料としてはそれほど有効とは言えない。だが、有効性よりも、W文書は象徴としての意味合いの方が大きかった。組織のいしずえとなった文書は、いわば、玉璽としての性格を有している。
それを手にした者こそが、組織の長なのだ―—。
そう信じる者は多い。
確かに、W文書さえ手に入れれば、組織の中からもついてくる者は出てくるだろう。
さらに、文書をかたに、ディオゲネス・クラブの連中にも揺さぶりをかければ……。
いかん、いかん。ヴィンセントは思考を中断し、首を振った。こんな若造の口車に乗って、組織を丸ごと敵に回そうものなら間違いなく地獄行きだ。いっそ、こいつを組織に突き出すというのはどうだろう。それで、「デイリー・ヘラルド」の件に詫びを入れて、何なら、もう一度あの仕事をやり直せば……。
「ヴィンセント」
機先を制したのは青年の方だった。そのはしばみ色の瞳から、なぜかヴィンセントは目をそらすことができなかった。
「君はもう三人の娘がいる父親の命を奪わなくてもいい。セバスチャン・モランの妄執にとらわれなくてもいい。他の誰かじゃなく、自分の意志で引き金を引くときがきたんだ」
その言葉は、ヴィンセントの内側でさっきの銃声よりも長く響いた。
「あんたの名前は?」
しばらく続いた沈黙を破ったヴィンセントは、そのまま早口でつけ加えた。
「言っとくが、別におれが聞きたいからじゃないぜ。どこの貴族の坊ちゃんか知らないが、さっきからご大層な名前を言いたくてうずうずしてるみたいだからよ」
「ああ。実はそうなんだ。早く聞いてくれないかと思っていた」
にこやかにうなずくと、青年は自らの名を名乗った。
「モリアーティ。ジェイムズ・モリアーティ・ジュニアだ」
ヴィンセント・モランの顔に、のちに、すべてのロンドン市民が浮かべるのと同じ表情を認めて、彼は大いに満足した。
時に一九三〇年。ロンドンの影の帝国を受け継ぐ青年が、もうひとりのM―—マイクロフト・ホームズ・ジュニアとの間で激しい火花を散らすには、まだしばらくの時を待たねばならない。
主に、ベアリング=グールドの『シャーロック・ホームズ ガス燈に浮かぶその生涯』を参考に書いています。
マイクロフトの名前は、何度もマイクロソフトと打ち間違えました。