4
ヴォイルの視線はヒュドラの首元に向けられる。
しかし、同じ眼差しで見る樹には到底不可能に思えた。
“あんなの倒すなんて無理だよ! 防御も高いし、再生もする。おまけに下は毒の海じゃないか!”
――毒の海。
ヴォイルに見えていないはずはないヒュドラの放った毒。
その毒を、ヒュドラは海中を移動するように、這いずる。
「流石にこの状況は……それに手があるって?」
あるみも眼下に広がる毒に躊躇していた。
『うむ。【清 浄 化】がある限り問題ない』
樹の身体を包む黄金のオーラ。
如何なる状態異常を中和し、使用者の身体を守る万能のベール。王冠の特殊技能であった。
「でも、再生能力は……? 魔力に制限があるんじゃ倒しようが無いじゃない」
闇の剣士のような幽体や、輪道のような生身の人間では無いヒュドラ。アリィの火炎を再生させるだけの力があるヒュドラに、中途半端な攻撃魔法は通用しないだろう。
『そこはこの男の、律義さが吉と出たようだな』
“え?”
「どういうこと?」
『そなた達の書にすら記されぬ、このアーティファクト……』
樹が銀慈から渡された、指輪型のアーティファクトをしげと見つめる。
『【屠竜刀】と呼ばれる“竜を倒すため”に造られた剣だ。何の効果も無いアーティファクトなど無い――』
“とりょう……とう?”
『竜の嫌う金属を使用し、竜に対し絶大な効果を発揮する刀剣の一種だ。今まで竜を倒した経験はないだろう?』
樹もあるみも、今までダンジョンで竜を倒した経験は無く、アリィが竜化した時に初めて竜という存在を見たほどであった。
そもそも、竜の出る様なダンジョンは稀であり、屠竜刀という存在も竜に対して効果が無いのであれば確かめるすべは無い。
“だから、カタログにも載ってなかったのか……そ、それじゃ! ヒュドラを倒す事が出来る!?”
『そなたの身体しだいだ。だが心配する事は無い、多頭竜の相手なら幾度か経験はある』
毒の海に不気味に光る、十八の眼光。
九つの怒りは、九つの執念を燃やし、九つの狡猾さを持って――
『話している暇は無さそうだッ!』
ヴォイルはアリィから飛び降りる。
「ちょっ――…………ッッ!!」
ヴォイルの突然の行動に手を伸ばしたあるみは、真下から伸びる“悪魔の手”に息を飲んだ。
悪魔の手……
そう形容するに相応しい、ヒュドラの跳躍。
九つの頭、全ての牙を剥き出しにし、毒を切って跳躍するヒュドラに向かって、剣を振りかざし降下するヴォイルは、炎の中に、嵐に、濁流に――超自然的恐怖に立ち向かうかのような無謀さを見せながら、迫る闇と対峙する。
『むゥゥゥっっ!!』
“ぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!”
二人の声は合わさり、逆手に構えられた屠竜刀は中央のヒュドラの頭部に突きささる。
――ほとばしる紫の血液。
『ジュュュララララララララララッッッ!!!!』
響き渡るヒュドラの悲鳴。
ヴォイルは、深々と突き刺した屠竜刀を握りしめ切り裂きながら背中を滑る。
対竜加工された武器……ヒュドラの中にある竜の細胞が、屠竜刀に含まれた成分を拒絶する。朽ちた布を引き裂くように、易々とヒュドラの肉体を裂く。
『シュジュルラララララララララララッッッッッ!!』
屠竜刀に傷つけられた部位の再生は困難を極めるようであった。
九つあった頭部の一つはしなだれ、ヒュドラの背は紫に染まる。
深い毒の霧の中に輝く黄金の光。
我が身を傷つけた光……怒り心頭のヒュドラ。
怒りの尾を、目の前の黄金の光を押しつぶす勢いで、しならせ、叩きつける。
激しく地面を打つ音。
しかし手ごたえはなく、変わりに空を舞う――
尾。
『ジュ、シュラララララララララララッッッ!!?』
無骨な幅広の刀剣、剣の達人で無いにしろ、対竜加工、肉体強化に、先細った尾は、骨肉を断たれ宙を舞う。
更にヒュドラが怯んだ隙に、ヴォイルは屠竜刀を投げつける。
強暴な鉄の音。
絶妙な角度でヒュドラの頭部に突き刺さり、持ち主のエルトルの供給を失った屠竜刀は指輪に戻る。
ヴォイルは素早くキャッチし、再コンバート。
胴を切り裂き、反撃する牙を断ち、頭部も断つ――……。
◆
――確実に数を減らす頭部。
残された最後の頭に深々と屠竜刀が刺さった所で、ヒュドラはぐらりと巨大な身体を倒す。
ヴォイルは頭部から剣を抜き取り、軽く血切りをする。
『……身体強化だけでも十分戦えたな。どうした? 気絶しておるのか?』
樹の声が、戦闘の途中から聞こえなくなった事をヴォイルは知っていたが、そちらの方が戦闘に集中し易く、放置していた。
“……き、気絶してないよ。――でも、今、交代されても立てないかも……”
空中からのダイブ、その後、目の前で行われたヒュドラとの戦闘。矢継ぎ早の体験に、樹は声を出す事も出来なくなっていたのであった。
『気絶しなかっただけでも、そなたにしては十分だ』
纏う【清 浄 化】に、周囲の毒の残留量は減っていた。
それでも、完全に浄化出来た訳ではない。
ヒュドラの胸部からエルトルの結晶体を取り出すと、大きな岩の上によじ登りヴォイルはアリィを呼ぶ。
「大丈夫なの!?」
あるみの質問に、ヴォイルは
『大丈夫だ! 異常は無い』
“異常ない事はないんだけど……”
樹の精神的に負った恐怖は考慮に入れられていないようであった。
抱きかかえた闇エルトルの結晶体の輝きに、ヴォイルは微かな笑みを浮かべながら答える。




