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雲は生き物のようにうねり、その表情を変えてゆく。
雲の合間からは慈愛に満ちた光の筋が平原を照らしては、うねる雲にまた隠される。
ここがダンジョンの内部……? 桃寺樹は、ワイシャツの袖を捲り、目の前にある遺跡を眺めながら思う。周囲に生き物の気配は無い。
隣には、まるで気配を感じさせない女の子が静かに佇んでいる。
女の子は、全身をゴスファッションに身を包み深紅の瞳で樹と同じ方向、平原に聳える遺跡を見定める。
身長は樹の四分の三程度、年齢だと半分は違うであろう少女は平原を駆ける風に、その灰色の髪を揺らす。
これは何かを暗示している夢なのか? と、樹は考えを非現実に飛ばしてみるが、見える光景、感じる感覚は現実そのものであった。
『――お気をつけて』
そんな言葉をかけられ、ゲートを潜った事を思い出す。
強烈な光に散漫した考えは、徐々に頼まれた依頼、託された使命を想起させる。
「はっ! 五千万円!」
突然の大声に、静かに佇んでいた少女は僅かに意識を樹に向けた。
◆
――ゲートに潜る五時間ほど前……
勤めていた会社最後の日。
定年退職には後五十年以上はある。桃寺樹(二十一歳)は、明日からの生活に不安を抱きながら……それでも、束の間の自由を謳歌しようと、コンビニ袋とビールを片手に答えの出ない考えを巡らせながら家路を辿る。
二月中旬の寒い夜、冷えた体、ビールの酔いもそこそこに温かい肉まんを頬張りながら。
短大卒業後、なんとか新卒カードを切って入社した会社はブラックだった。
休日出勤は当たり前、そして残業に次ぐ残業、ディスクの上は書類の山となり、一年間で心身ともに疲労困憊。
ある日の残業中、日ごろの疲れから突然の睡魔に襲われた。
オフィスには樹一人。一時間だけアラームをセットし、ディスクに伏せて仮眠している時であった。
薄暗いオフィス。
――どれくらいの時間が経過しただろう、女性の声が聞こえてくる。
まだ夢心地な樹は、目を擦りながら、そ~っと書類の山から声のする方向を覗く。
外の薄明かりに照らされ、社長のディスク付近で動く人影。
「おぉ! はぁはぁ……」
「いゃん、社長ったら、あんっ……!」
樹は我が目を疑った。――最悪過ぎる展開。
取引に行ったはずの社長と秘書が帰社し、そして、以前から噂にはなっていた不倫疑惑……もとい、その現場に遭遇してしまったのであった。
「ヤバい……」
とにかくばれないようにオフィスを脱出する事が先決だ。と、樹は音を立てないように、床を這いずり、行為中の音に紛れながら、社長達とは逆方向にある出口に向かって一歩一歩その距離を縮める。
社長達は、オフィスというスリリングな場所で不倫街道まっしぐら。
――その時であった。
『チャラリロリラリロリラロリロ! チャラリロリラリロリラリロリロ!』
オフィス内に響き渡る、陽気なメロディ。
周囲の空気は瞬時に凍り付く。
「だっ、誰だ!!」
社長の悪代官顔負けのセリフに、樹は渋柿を食べたような表情を浮かべる。一時間前にセットしたアラームの存在を忘れていた。
「…………」
アラームを止め、覚悟を決めた樹はディスクの下からゆっくりと立ち上がる。その姿は情けなく、手は震え、冷や汗びっしょりであった。
服のよれを慌てて直す秘書と、トランクス一枚の社長。
トランクス一枚の社長はビルの光に照らされ、怒りの陰影を顔に浮かばせる。
樹の顔を冷ややかに一瞥し、静かに「出て行け」と一言。
樹は会社を逃げるように後にした。
――翌日、社長室に呼ばれた樹はクビを宣告された。明らかな不当解雇。
しかし、日ごろの社長に対する恐怖心と、言葉の圧力に負け、退職同意書にハンコを押してしまう。口止め料は給料の約一月分を手渡された。
最後の日を迎えた樹に送別会など無かった。
むしろ多大な仕事を残したまま突然の退職に、他の社員は樹に対して殺意さえ覚えるのであった。そんな社長の脅しと、社員の殺伐とした空気に耐えながら数日を過ごし、ついに最後の日を迎える事が出来た樹は内心ホッとしていた。
「どの道向いてなかったんだな……次だ、次」
それくらいの呑気さ、むしろ辞めれて良かったと思える楽観な気持ちでないと、橋の下に見える暗い河に身を投げたい思いになる。
河に映る月に、今日が満月だということを知る。
ささやかなビール(発泡酒でない)と体を温めてくれる肉まん。白く吐く息は、自分と外の世界との温度差を感じさせる。
「はぁ~、明日からどうするかなぁ……」
実家に報告するのも気が引ける。再就職を考えながらも、とりあえず数日は遊んで過ごしてやれ! と、積み本、積みゲーの優先順位を頭の中で整理する。
それほど使う事の無い脳をフル活用し、もっとも効率よく消化できる手順を考えていた其の時であった。
「――こんばんは」
橋を渡りきる寸前。耳元で囁かれる声。
警戒心から即座に背後を振り返る。
ウェーブのかかった長髪の白人男性。コートを着込み内側には白衣が見える。体格の割に線は細く、街灯に染まる肌から色の白さが強調される。どことない存在感の薄さは幽霊のようで好奇の色に怪しく光る灰色の目が印象的な人物であった。
樹はその怪しい視線に自然と目を合せてしまう。
「急にすみません。――少し、お時間よろしいです?」
流暢な日本語で、にっこりとスマイルを見せる。
妖しさを感じながらも、男の言葉の抑揚と笑顔に警戒心も薄れる。
「は、はぁ……大丈夫ですが」
二人は交通量の多い国道を離れ、少し離れた河沿いの道に移動する。
「よかった。突然ですが、あなたに手伝ってほしい事があるのです」
「――手伝う?」
「そうです。【ダンジョン】は、ご存じで?」
近年ダンジョンの発生率は増え、発見されたダンジョンはニュースにも取り上げられるほど世に浸透していた。
「――テレビでやってる程度なら……それが何か?」
「なるほど、ではダンジョンに入る事のできる人間、ご存知ですよね」
「……えっと、【ダンジョンフォース】とか【ダンジョンウォーカー】の事です?」
ダンジョン内部に侵入出来る人々を、【ダンジョンウォーカー】。
ダンジョンを唯一攻略できる人々を募った【ダンジョンフォース】と呼ばれる部隊。世界規模でダンジョンの攻略が進められ、成果は上々であるとニュースでは報道されていた。
「選ばれた人々、ダンジョンウォーカー……私は、そんな人材を発見する能力に長けた【ダンジョンサーチャー】という力を持ってまして……」
「ダンジョンサーチャー?」
初めて聞く話しに、樹は首を傾げる。
「この世に、発生したダンジョン……それを素早く感知できる能力を持つ者の事です。それと同時に、ダンジョンに入る資格がある者……ダンジョンウォーカーも探しだす事が出来るという訳です」
「…………?」
男はクスリと笑う。
「端的に――あなたにはダンジョンウォーカーの素質がある」
「へ?」
上ずった返事。突然告げられた事実に樹の頭の中は真っ白になる。
ダンジョンウォーカーの素質がある人間……おおよそ三万人に一人の割合で存在し、日本でも数千人素質がある者がいると何かの番組で見た覚えがあった。
日本の人口から数千人という確率に、まさか自分が該当しているとは到底信じら
れなかった。
「いやいやいや、そんな! 突然そんな事言われても! それにっ――」
男は、全力で否定する樹の言葉を遮るように手をかざす。
「実は、数週間前から様子をうかがわせていただきました。私は自分の力に自信を持ってます……あなたには間違いなく、ダンジョンに入る資格がある。話しを戻しますが――」
手をゆっくりと下ろし、樹を見定める。
「あなたに手伝っていただきたい用件。それは、今から行くダンジョンに御同行願い、ある物を取って来てほしいのです」
「ある……物?」
「そう、とにかく時間が限られてますし、成功した時は……」
男は地面に置いたアタッシュケースを持ちあげ、ゆっくりと開く。
「こちらの五千万円を報酬金として差し上げます」
アタッシュケースに敷き詰められた百万の束に、樹は言葉を失う。
「ふふふっ、そのお気持ちは分からなくもないですが、受けて頂けますか?」
樹は、あんぐりと口を開け、小刻みに頷き依頼を承諾した。