サヨナラ
サヨナラと言えば、君は泣きそうに顔になった。口にはしたくなかったけど。
でも、言わないと区切りはつけられないから。だから、あえて言うよ。
「サヨナラ」と。
雨がぽつぽつと降り始めた。僕はそれをガラス窓に顔を当てて眺める。
ため息が出てしまう。何で、あの子にあんな言い方しかできなかったんだろうか。
後悔先に立たずというけれどまさしく、今がその時だった。僕は湊という。つい、昨日に別れた彼女は名前を美波といった。
黒くて長い艶やかな髪と大きくて切れ長で薄茶色の瞳、抜けるように白い肌にすらりとした体躯が魅力的な少女だった。性格は明るくて活発な感じだ。よくしゃべり、くるくると表情が変わる子でもあった。
『…湊はいつも、ぼうとしとるなあ』
大阪出身の美波は威勢のいい関西弁が特徴で関東出身の僕にはよくわからない言葉も使っていた。たとえば、自転車を「チャリ」と言って見せた事がある。
何それと尋ねれば、美波は笑いながら教えてくれた。
『…湊。チャリいうたらな、自転車の事や。ほんま、関東の人らは大阪の言葉を知らんのやな』
『……そうかも』
気まずそうに答えたら美波はおかしそうに笑っていたが。
ふと、思い出に浸っていたら、横から声をかけられる。
「何を一人で笑ってんの。湊」
振り向くと母さんだった。
「いや、なんでもない」
「…思い出し笑いなんてやめときなさい。あんた、今年で大学生でしょ」
「わかったから。母さん、ほっといてくれないか」
「…ほっといてくれって。仕方ないわね。母さん、向こうに行くから。課題を早めにすませときなさいよ」
母さんはさっさとリビングの隣にある和室へ行ってしまった。僕はしょうがなしに立ち上がり、自室に向かった。
課題を終えて、受験対策のために予習をする。数学や国語の古文に現代文などの教科書やテキストを出して机の上に積み上げた。そして、勉強を始めた。
今は夏に近い六月だが、僕は早めに大学受験の勉強をし出している。周りの同級生達からは気が早いといわれたけど。
「…えっと。αとxの二乗は」
ぶつぶつといいながら計算問題を解く。以前であれば、彼女であった美波から教えてもらえたりしていたが。今は贅沢を言ってられない。自力で解くしかない。そう言い聞かせながら、夜の十一時まで予習をやったのだった。
予習を終えて、入浴をすませる。気分がさっぱりしたところで自室に戻り、僕は就寝する事にした。ベッドにもぐり込み、瞳を閉じる。
すると、脳裏に美波の泣き顔がよぎった。
『…ほんまにお別れなんやね』
『ごめん。美波、僕は大学に入ったら。東京に行く事が決まったんだ。もう会えなくなる』
『そうなんや。元気でな』
美波は精一杯、笑いながらそう言った。僕は今すぐにでも抱きしめたい衝動にかられながらもそれを必死に我慢する。美波の薄茶色の瞳から大粒の涙が溢れた。同時にぽたぽたと頬に滴がこぼれる。
見上げたら、空から雨が降り出していた。
『湊。サヨナラ』
そういいながら、美波はこぼれる涙を拭きもせずに僕の前から走り去った。追いかける事もできずに呆然と見送ることしかできなかった。
今でも、喉に刺さった小骨のようにそれを思い出しただけでしくりと胸が痛くなる。僕は髪をくしゃりと握り込んだ。
自然と涙がこぼれていた。一人で美波の事を思い出しながら、泣き出してしまった。情けないなと思ったけど後の祭りだった。
朝になって、僕は泣きはらした瞼の状態で目を覚ました。だるい体で起き上がり、部屋のカーテンを開ける。
まばゆい日光が目に刺さるようで正直、きつい。
ため息をつきながら、別れた彼女の事を思い出すなんて未練がましいなと嘲りの感情が顔を出してくる。一人で笑いながら、パジャマから制服に着替えた。
高校生活も今年と来年の三月までとなった。準備などをしっかりとやらなくてはいけない。
そんなことを考えながら、僕は頬をぺちんと叩いた。
制服はブレザーなのでネクタイを巻かなくてはいけないのだが。少し、歪んでしまった。まあいいかと大ざっぱに直して昨日に用意しておいた鞄を手に持つ。
自室のドアを開くと一階の台所に向かう。父さんと母さん、妹の恵美が既に椅子に座っていた。
僕は挨拶もそこそこに顔を洗ったりしに洗面所へ向かう。制服を汚したりしないように気をつけながら、歯磨きと洗顔を手早くすませる。
タオルで濡れた顔や手を拭き、鞄をもう一度手に取り、台所に行った。
「…あ、おはよう。兄ちゃん、目が腫れてるよ?」
不思議そうに今年で中学三年になる恵美が尋ねてくる。僕は考えながら答えた。
「…美波さんの事思い出してたんだ。そしたら、その。男泣きしちまった」
簡単に説明すると恵美は軽蔑するような視線を送ってくる。
「ええ。兄ちゃん、あの美波さんと別れたの。浮気とかしたわけ?」
「…してない。ただ、大学行ったら上京しないといけないから。つき合えないって言ったんだ。そしたら、わかったと言われた」
「…ひどい。美波さん、そんなこと言われたんだ。かわいそう」
よけいに非難するような視線を恵美は送ってきた。すると、ぱんぱんと乾いた手を叩く音が台所に響く。
「二人とも、喧嘩はよして。湊、早く朝ご飯を食べなさい。遅刻しちゃうわよ」
母さんがこちらを見ながら注意をしてきた。僕は頷きながら 空いた椅子に座り、母さんお手製の朝食にありつく。恵美は非難たっぷりの視線を未だに送りながら、野菜スープを口に運んだ。
父さんも黙って食べている。僕はご飯や野菜スープ、目玉焼きにサラダをあわててかき込んだ。
「…ごちそうさま!」
いち早く、食べ終えて壁掛けの時計を見た。既に、七時二十分になっており、学校に行くにはちょうどいい時間になっている。
椅子の横に置いた鞄を手に持ち、玄関へと向かう。
「行ってきます」
僕は言うと父さんや母さん、恵美に背中を向けたのであった。
おしまい