蟄
朝八時、俺は目を覚ます。
今日は目覚まし時計よりも早く起きることができた。今月はこれで、五勝五敗のイーブンだ。
窓際に立ってカーテンを開くと、部屋に燦燦と朝の陽光が差し込んでくる。
実に清々しい朝だ。
「さて、と。ニュースのチェック、と」
点けたままのパソコンに向かい、最小化してあったブラウザをデスクトップに表示させる。
ブックマークに登録してあるニュースサイトを順繰りに巡り、国内外の情勢やネット上の流行、巷で持ちきりの話題などをチェックしていく。毎朝、起きて最初に行う日課である。
アンテナを張り最新の情報を収集することは、情報化社会に生きる現代人のにとって必須の嗜みだ。ただ情報をかき集めるだけでなく、雑多な情報の海から自分にとって有意な情報を選び取れる素養が求められるのは言うまでもない。
もっとも、多くの情報を蓄えたところで、俺の仕事には何ら活用されることはない。俺の仕事は、自宅警備員なのだから。
世間ではニートだとか引き篭もりだとかと同一視されているが、何も生み出さず、何者にも貢献しない連中とは違うと、声を大にして言いたい。
俺達自宅警備員の存在意義は、自宅の治安と秩序を維持することにある。そのために筋力トレーニングは欠かさないし、周囲に不審者の影はないかと自宅の窓から目を光らせている。職務の性質は、警察や自衛隊と何ら変わらない。ただ、その範囲がごく限られた狭い領域に留まるというだけの話である。
俺の父親は遠方に単身赴任しており、家には年に数えるほどしか帰ってこない。母は専業主婦であり、習い事もしていないため、自宅に居る時間が圧倒的に長い。これは非常に危険な状況である。
この国で一年間に発生する、泥棒や強盗による窃盗は六万件弱。およそ十分につき一回の割合で、どこかの家が泥棒に狙われているのだ。
この二年間で俺は、片手で数えられるほどしか外の空気を吸っていない。俺がほんの少しの間外出した隙に、懐に刃物を呑んだ強盗が我が家に押し入る可能性を考えると、外出する気には到底ならないのだ。
母に凶漢に立ち向かえるだけの力があるとは思えない。だから、俺が常に在宅して警備に当たる必要があるのだ。
本来であれば昼夜兼行で警備に当たらねばならないところだが、俺一人でそれを実行するのは、百歳を過ぎた老人がトライアスロンに挑戦する以上に無茶なことだ。常に体調を整えておくのも、自宅警備員の大事な仕事の一つなので、睡眠はたっぷり摂るようにしている。毎朝決まった時間に起床して、生活リズムを一定に保つのもコンディション維持の一環だ。
「もうすっかり夏だなあ」
窓の外から望む、雲ひとつ無い青天に思わず呟いた時、階下で呼び鈴が爽やかに鳴った。窓から外を見下ろすと、配送業者のパネルバンが家の前に停まっている。
そういえば、注文したパソコンの配送予定日が今日だったか。
まだ八時を少し回ったところだというのに、朝から仕事熱心なことだ、と感心する。
二回ほど呼び鈴が鳴ったあと、玄関から配達員の威勢のいい声が飛んできた。母が出たのだろう。来客者の応対は、母の役目だ。俺がしゃしゃり出る必要はどこにもない。
数分後、窓から見下ろすと、配達員がトラックに戻るのが見えた。両手にダンボールを抱えて。
「あれ?」
大きさからして、俺が注文した段ボールに間違いなさそうだ。それならばなぜ持ち帰ったりするのだろう。母は一体何をしているのだ。
まさか俺宛の荷物と見るなり、受取拒否をしたのではあるまいな。
パソコンが手元に届かなかった苛立ちから、俺は母に苦情を言おうと立ち上がった。
ドアを開けようとした手が、はたと止まる。
ここで声を掛けたら、俺の負けだ。
つい三日前に、あんな遣り取りがあったばかりではないか。
「ねえ、いつになったら就職活動始める気? そろそろ会社を辞めて、二年経つわよ」
昼飯のトレイをテーブルに置きながら、母が声を尖らせる。
食事を作って俺に給仕するのも、無論母の役目だ。添え物の小言は不要だが。
「ちょっと、聞いてるの? あなたもう二十五なのよ。前の会社で辛い思いをしたのは分かるけど、いい加減に振り切らないと。今行動しなきゃ、取り返しがつかなくなるわよ」
以前に勤めていた会社を退職して以来、顔を合わせる度に同じ話題を繰り返すので、正直辟易していた。
「分かってるよ、そのうち何とかするから」
場を取り繕うために、俺は普段通りに答える。
自宅警備員という仕事の重要性をいくら説いても、母がなかなか理解を示そうとしないからだ。
「そのうちそのうち、て何度目よそれ。今は生活できるけど、もしお父さんやお母さんが倒れたら、あなたどうするの? 養ってくれる人がいなくなっても、独りで生活できるっていうの? いざ働こうとしても、職歴も知識もスキルも無くて、ただ歳を食っただけの人間を雇い入れてる企業なんて、ほとんどないのよ。だから――」
「うるさい!」
俺の中で弾けた感情は、怒声となって口を衝いた。
「俺は俺なりに考えて、こういう生活を選んでいるんだ! とやかく口出しするな!」
「何よ、親に向かってその口の利き方は!」
「都合がいい時だけ、母親面するなよ。俺が苦しい時に何をしてくれた? 助けてほしくて悩みを打ち明けても、尻を叩くだけだったろう。自分の子どもが抱えている苦悩を理解できなくて、何が親だ」
「ちょっと、そんな言い方――」
「いいから出て行けよ。それと、用事がある時以外は一切話し掛けるな。邪魔だ!」
俺がピシャリと言い放つと、母は物言いたげな顔つきのまま、黙って退室した。
それきり、母とは言葉を交わしていないし、顔を合わせてすらいない。
俺はパソコンの前に戻り、コーラを一口含み、気分を落ち着かせた。
腹立たしいのは事実が、こちらから言葉を投げかけるのはもっと癪だ。仕方がない、再配達をネットで依頼しておこう。
気を取り直し、俺はオンライン対戦ゲームを立ち上げた。複数人のプレイヤーが二つのチームに別れ、戦場で銃撃戦を繰り広げるゲームだ。
ゲームには世界中からプレイヤーが接続しているので、対戦相手に困ることは皆無である。
遊びだって? いや、違う。これも自宅警備員の訓練のうちだ。
チームの勝利に貢献するためには、的確で素早い状況判断、不意の襲撃にも即座に対応できる反射神経、長時間緊張を持続できるだけの集中力が必要とされる。
いずれも自宅警備員に欠かさざるべき素質である。
いつ不測の事態が発生してもいいように、こうして日々鍛錬に励んでいるというわけだ。
「やっぱりこっちのパソコンだとラグいな」
壊れたメインパソコンに比べると性能が一枚落ちるため、ほんの僅かではあるが挙動が遅れてしまい、普段通りの動きができない。母が荷物を受け取らなかっことが、なお一層恨めしく思える。
いらぬ考えを頭から追い出し、しばしの間、ディスプレイに神経を注ぐ。
ふと時計を見ると、十二時になろうとしていた。いつもの事ながら、この訓練の最中は時間が経つのを忘れてしまう。
(腹減ったな)
買い置きのスナックの段ボールを覗きこんだが、折り悪く空になっていた。冷蔵庫に入っているのはジュースと酒だけだ。
階下に降りるつもりはない。母と顔を合わせたくないのは、先程述べた通りだ。
しかし胃は、食い物を要求してぐうぐう鳴っている。いっそ、ピザでもデリバリーしてしまおうかと考え始めた時であった。
ことん
廊下で微かな物音がした。
フローリングの床に、何かが置かれたような音だ。
息を潜め、三分ほど待ってから、そっとドアを押し開ける。果たして戸口には、トレイに乗せられたナポリタンが置かれていた。
「何だかんだ言っても親の情、てやつかね」
独り言ちながらトレイを自室に持ち込み、テーブルに置いた。タバスコがないのが不満だが、台所で母と顔を合わせるのも嫌なので、そのまま食うことにした。
フォークに巻きつけたパスタを口へ運ぶ。
――不味い。
麺は芯が残っていて固く、逆に具材は火を通しすぎて焦げてしまっている。
味付けも雑を通り越して壊滅的なレベルに達している。異常に塩辛く、とても食えたものではない。おまけに、何をどうしたらこんなことになるのかと問いたくなるほどの悪臭を発している。敢えて例えるなら、ケチャップと中濃ソースと酢を混ぜ合わせ、数日間日なたに放置したような臭いだ。
朝の一件同様、母なりの意趣返しなのだろうか。そうだとすれば、実に面白くない。
ほとんど手付かずのままで部屋の外に差し戻したのは、せめてもの抗議の表れだ。
止むを得ず俺は、ジュースで空腹を誤魔化すことにした。仮に餓死しかけたとしても、あの不味いナポリタンを食うのだけは御免だ。
午後の時間は、ネットの巡回と筋肉トレーニングに費やした。時折、窓辺から周辺の状況を窺う。異状なし。
俺の出番は今日も無さそうだが、それは平穏であることの証だ。出番が無いなら無いで、それに越したことはないのである。
夕暮れ時、下腹部に締め付けられたような痛みが走った。昼に食ったナポリタンが、今になって利いてきたというのだろうか。堪らずトイレに駆け込む。
用を足し終えて部屋に戻りかけた時、階段をゆっくり登ってくる足音が聞こえてきた。
母とは鉢合わせたくはないが、音の近さから察するに、それは避けられそうにない。
トイレに引き返すか、それとも部屋に戻るか。
逡巡している間にも、足音は着実に階段を登ってくる。
その足音が、何だかおかしい。
たっぷり水を含んだ靴下を履いているかのように、べちゃり、べちゃりと、湿った音を立てているのだ。
すでに宵闇は家の中にも忍び込んでいて、階段の灯りも点いていない。
それなのに濡れた足音は、足元が見えないことなどお構いなしといった風で登ってくる。
程なくして、足音の主が姿を現した。
俺の腰ほどの、低い背丈の人影である。
頭からすっぽりと布を被ったようなシルエットで、顔立ちは判然としない。
母でないことは一目瞭然だ。
唖然とする俺に気付かぬ風で、人影は両手で持ったトレイを、俺の部屋の前に置いた。
人影はしばし部屋のドアを見上げるような格好で佇立していたが、やがて身を翻し、再前の湿った足音を立てながら、ゆっくり階段を下っていった。
足音が聞こえなくなったのを見計らって、俺は床に置かれたトレイを覗きこんだ。
ご飯と味噌汁、中央の皿に乗っているのは焼き魚だろうか。
何の魚なのか判別できないほど、真っ黒に焦げている。
この分だと、味噌汁の味も期待はできないだろう。
(もしかして、昼のナポリタンも……)
あの人影が持ってきたのであろうことは、容易に推察できた。味覚を破壊するような出来栄えにも合点がいく。
それにしても、あの人影は一体何なのだ。
あんなモノが家の中を彷徨いているというのに、母は何とも思わないのだろうか。
そっと階段から階下を窺う。
リビングも玄関も、照明は点いていない。
濃くなり始めた夜の闇が、家中に満ちていた。
その時、鼻腔がこれまでに嗅いだことがない異様な臭いを捉えた。
生肉をアンモニアに漬け込んで発酵させたような、吐き気を催す悪臭を。
臭いは階下から漂っているようだった。
一体何が臭いを発しているのだろう。
母もこの臭いに気付いているのだろうか。
母はこの臭いを嗅いで平気なのだろうか。
様々な疑問が頭のなかで交錯するが、考えているだけでは埒が明かない。
(調べてみるか)
異常事態に直面しても、逃げ出すわけにはいかない。
なぜなら、俺は自宅警備員なのだから。
立ち込める悪臭に噎せそうになりながら、俺はゆっくりと階段を下り始めた。