擬
明け方まで降り続いていた長雨の余韻か、さほど暑さを感じない日だった。
家事は午前中で一通り終わり、誰かと会う予定も、足すべき用事も無い。
手持ち無沙汰になったので、生後半年の娘を連れて散歩に出ることにした。
晩夏とはいえ、日差しはまだまだ強い。娘の柔肌と自分の肌に、念入りに日焼け防止クリームを塗る。繊細な乳児の肌にも安心の、厳選されたオーガニック素材を使ったクリームだ。
支度を終えて外へ出る。程よい強さで吹き渡る風が心地良い。折り畳んであったベビーカーを展開して娘を乗せ、私は近所の公園へと足を向けた。
陽射しと蝉時雨が渾然となって、頭に被ったストローハットごしに降り注ぐ。
ゆっくり歩いていたこともあり、公園に到着する頃には、晒した肌にじっとりと汗が浮いていた。ハンドタオルをカートのポケットから取り出し、先に娘の身体を拭いてやってから、首筋を伝う汗を拭う。
砂場や遊具では、近所の子供達が黄色い声を上げている。母親たちは目の届く場所にいたが、お喋りに夢中である。
あと何年かしたら、娘も彼らのように元気に走り回り、私はあの会話の輪に加わっているのだろう。
そんな事を想像しながら、私は遊歩道へ足を向けた。
道沿いのプラタナスの葉を揺らした風が、私たちをひんやりと優しく撫でる。
「んー、喉が渇いたなあ」
自販機でペットボトル入りのジュースを買い、落ち着いて飲める場所を探しながら遊歩道の散策を再開した。
三分ほど歩いたところで、木陰に設置された白塗りのベンチが目に留まった。
ベンチにはすでに先客がいた。お包みを大事そうに両腕に抱いた女性だ。年の頃は、私とさほど変わらないように見受けられた。
「すみません、隣いいですか?」
「どうぞどうぞ」
私が声をかけると、女性はにこやかな笑みを返した。さぞ満ち足りた生活を送っているのだろうな、と誰もが想起するような、柔和で可愛らしい顔立ちだ。
一つ会釈をして、隣に腰掛ける。ベンチの座面からじりじりと熱が尻に伝わってきたが、座っていられない程ではなかった。
「かわいいお子さんですねえ、おいくつですかぁ?」
ペットボトルの蓋を開けていると、女性の方から話しかけてきた。どこか浮世離れした印象を抱かせる、おっとりした口調だ。
「まだ半年なんですよ」
「そうなんですかー」
「そちらはおいくつですか?」
「そろそろ三ヶ月なんですよ。男の子」
女性が差し出したお包みの中では、丸々とした赤ちゃんが静かな寝息を立てていた。ぷっくりした頬が可愛らしく、思わず指先でつつきたくなる。
「生まれたばかりの赤ちゃんって、大変ですよね。夜泣きとかしますし」
「うちは大丈夫なんですよぉ。大人しい子なので」
「えー、羨ましい!」
心底そう思った。
未だに私の娘は、寝入っている私を泣き声で容赦なく叩き起こしてくれるからだ。
「ただでさえ、おっぱいが張って寝られない時も多いのに、赤ちゃんはお構いなしですからね」
「そうなんですかぁ。うちの子は大人しいから、そういう悩みがないんですよぉ」
「本当、羨ましいですよ」
「いつも眠っていて、私が起きてほしい時に起きて、笑いかけてくれる。そんな子が欲しかったので、そうしたんですよぉ」
「へえ、そうなんですか」
親が望む通りに行動してくれる赤ちゃん。
そんな都合がいい赤ちゃんなど、本当に存在するのだろうか。
「今でこそ一日の大半を眠って過ごしてますけど、そのうちはいはいを覚えたら、目が離せなくなるんでしょうね」
「ああ、はいはいですねぇ。そうですねえ、やっぱり動けるようにしないと駄目かしら」
……何かおかしい。
微妙に、会話が噛み合わない。
そもそもこの女性、なぜこんなお包みを使っているのだろう。
通気性や吸汗性を考えれば、夏場はタオル生地やコットン素材の薄手のものを使うのが普通だ。
彼女が使っているのは、綿打ちの厚手のお包みだ。それなのに赤ちゃんは、汗一つかいていない。
何かが、ずれている。
「あの……」
私が口を開きかけた時、娘がぐずりだした。
おむつ? それともご飯?
考えを巡らせながら娘を抱き上げると、娘の泣き声に呼応するように、お包みの赤ちゃんも泣き出した。
「あらあらぁ、ねんねしてなきゃダメよぉ。ほらほら」
女性が、かき抱いたお包みを上下に揺すり始めた。
最初は優しく、次第に激しく。
それでも泣き声は止まない。
しまいには、赤ちゃんを包んでいることなどお構いなしといった風情で、女性の腕の中でお包みががくがくと揺れる。放っておいたら、中の赤ちゃんが飛び出してしまうのでは、と思えるほどだ。
「ちょ、ちょっと!」
堪らず静止に入ると、女性の手がピタリと止まった。
泣いているのは、娘だけとなっていた。
「むずがった時は、こうして静かにさせてるんですよぉ」
間延びした口調で、女性がにっこりと微笑んだ。
背筋を寒いものが走った。
いつもこんな事をしている?
首も座っていない赤ちゃんに?
正気の沙汰ではない。
お包みの中の赤ちゃん、もしかしたら、失神してしまったのではないか。いや、それならまだいい。もしかして、最悪の事態が起きたのでは……。
「ほら、大人しくしてるでしょう?」
差し出されたお包みを、躊躇いながらも覗きこむ。
お包みの中には赤ちゃんではなく、麻布を縫って作られた雑な作りの人形が収まっていた。疎らな髪の毛がそよ風に揺れ、ビーズの眼は虚空を睨んでいた。
「え」
私が短く声を上げると、女性はお包みを胸元に引き寄せ、生身の幼子をあやすような優しい手つきで上下に軽く揺すった。
見る間に人形が、穏やかに眠る赤ちゃんに変じてゆく。
唖然とその様を見つめていた私に、女性が微笑みかけた。
「どう? よく出来ているでしょう?」
彼女のゆったりした口調に狂気じみた色を感じ、再び背筋が冷たくなった。
固まる私をよそに、女性はやおら立ち上がると、お包みに話しかけながら歩き去っていった。
その姿が遊歩道の向こうに消え、泣き疲れた娘が眠りに就いてもなお、私はその場から動けずにいた。