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 暑く、不快な夜だった。

 湿気混じりの地熱がねっとりと身体にまとわりつき、それを追い払ってくれる風も無い。

「梅雨が明けたからって、急に暑くなりすぎだろ……」

 じわじわと熱気に体力を絞り取られ、足を動かすのもだるい。

 マンションに着く頃には、流れ出た汗でシャツがべっとりと肌に張り付き、不快指数はさらに跳ね上がる。

 早いところネクタイを緩めて、エアコンを聞かせてビールで一杯やりたいものだ。

 鍵を開け、ノブを掴んだところで手が止まった。

(まさか今夜も、臭うんじゃないだろうな?)

 ここ一週間ほど、俺は出所不明の悪臭に悩まされていた。

 当初は、「捨て忘れた生ゴミが臭っているのかな?」などと呑気に構えていたのだが、臭気は日を追うごとに強く、峻烈になっていった。

 あえて例えるなら、生肉に小便と牛乳をかけて天日干しにした臭いを十倍に濃縮したような、臓腑を抉られる臭いだ。

 不思議なことに、臭いは数分から数十分で跡形もなく消えてくれるのだが、その間は悶絶しそうな悪臭地獄にじっと耐えなければいけない。仕事で疲れた身体には、あまりにきつい時間だ。

 エアダクトに鳥や小動物の死骸があると死臭が漂ってくることがある、と同僚から聞き、管理人に点検を依頼したこともある。しかし異状は見つからず、他の住人からは一片の苦情も出ていないとのことである。ベランダに鳥の死骸でもあるのでは、とも疑ったが、ベランダは全天候型でアクリルの壁に囲まれている。鳥など迷い込みようがないのだ。

 斯くの如く俺を悩ませる悪臭を思い返し、玄関のドアを開ける手が止まった、という次第である。

 しかし、躊躇っていたところで仕方がない。俺が帰る場所は、このマンションの一室だけなのだから。

(ええい、ままよ!)

 意を決してドアを開ける。

 案の定、室内で澱んでいだ熱気の塊と共に、強烈な悪臭が鼻腔を直撃する。

 あまりに臭いが酷すぎて、前の日からさらに臭気が強まったかどうかすら判然としないほどだ。

 鼻を手で被いながら、靴を脱ぐ。ほんの数分、数分だけ辛抱すればいいのだ、と自分に言い聞かせながら、リビングのドアを押し開ける。

「あら、おかえりなさい」

 不意を突かれ、心臓が跳ね上がる。

 聞き慣れた懐かしい声。

 キッチンに立っていたのは、二年前に離婚した、元妻の沙由里だった。

「パパ、おかえりなさーい!」

 リビングの床に腹這いになり、お絵描きを中断して顔を上げたのは、翌月の誕生日で五歳になる娘の澪だ。

 沙由里と澪とは、離婚後一切顔を合わせていなかった。それが離婚の条件であったからだ。

 俺から沙由里に連絡をすることはなかったし、彼女から電話やメールが来ることも、この二年間でただの一度もなかった。

 それがなぜ、ここにいるのか。

 予期せぬ再会に面食らい、問い質すことすら忘れて、俺は戸口で阿呆のように立ち尽くした。

「今日はね、あなたの好きなビーフシチューよ。おかわりもあるから、たくさん食べてね」

 まるで離婚の事実など無かったかのような振る舞いである。コンロにかけられた鍋からは、湯気が一筋立ち上っていた。

「パパー、見て見て。お絵かきしたの」

 澪が描きかけの絵を掲げる。

 画用紙の中央に描かれた満面の笑みを浮かべる少女は、澪自身だろうか。その周りにはケーキやフライドチキンが雑然と並べられている。

 離婚前の俺なら、よく描けたねと褒めながら、彼女の頭を撫でていただろう。

 しかし俺は、澪にも、そして沙由里にも何の言葉も返せずにいた。

 沙由里は漫然と他愛もないおしゃべりを続け、澪もお絵描きの続きに取り掛かっている。

 訊きたいことは山ほどある。

 なぜ今になって、帰ってきたのか。

 何の意図があって、俺の前に姿を現したのか。

 合鍵もないのに、どうやって中に入ってこられたのか。

 家中に立ち込めるこのひどい悪臭は気にならないのか。

 だが、俺の口から出た問いは、そのいずれでもなかった。

「なあ、電気も点けずに何やってたんだ?」

 だがその質問への答えはなく、沙由里と澪は再前の言葉を繰り返していた。

「ねえあなた、ビーフシチューよ。あなたの好きなビーフシチュー」

「ほらパパ、あたしお絵描きしたの」

 無表情のままで。

 異様な雰囲気に気圧され、俺は無言のまま、二人と対峙していた。

 部屋の空気は、エアコンが稼働していないにもかかわらず冷え冷えとしている。それなのに止めどなく汗が流れ出るのが不思議だった。

「ビーフシチューよビーフシチュー。あなた好きでしょビーフシチュー」

 不意に、沙由里の頬を伝うものがあった。

 涙、ではない。

 零れ落ちたのは眼球だった。

 丸い形を保ったまま、べちゃり、と湿った音を立てて、フローリングの床に眼球が落ちる。

 ぽっかり開いた眼窩の輪郭が崩れ、鼻と口が形をなくす。次いで、頭皮が髪の毛を付けたまま、ずるりと頭蓋を滑り落ちた。

「パパあたしお絵描きしたの。パパあたしのお絵描きもっと見てパパ」

 澪を見やると、こちらも顔面がどろどろに蕩けてしまっている。愛らしい面影は欠片も残っていない。

「ビーフシチュービーフシチュービーフシチューあなたビーフシチュービーフシチュー好物のビーフシチュービーフシチューよビーフシチュー」

「お絵かきお絵かきお絵かきパパお絵かきお絵かき見て見てお絵かきお絵かき見てパパお絵かき」

 ぐにゃぐにゃに歪んだ口から、壊れたオーディオプレイヤーのように言葉を繰り返し吐き出しながら、二人がどろどろと溶けていく。溶解はすでに、胸元まで及んでいた。

 グロテスクな非日常を目の当たりにして遠退きかけた意識を、ポケットの中の携帯電話の呼び出し音が引き戻してくれた。

 二人に捉われていた視線を引き剥がす。携帯電話のディスプレイには「義俊」の名が表示されていた。

「はい、もしもし」

 声が裏返ってしまった。

「こんばんは、義兄さん。義俊です。夜分遅くすみません」

 義俊は沙由里の実弟である。

 彼とは妙に馬が合い、親縁関係がなくなった現在も時折連絡を取り合って飲みに行く仲だ。

「いや、気にしなくていい。それより、どうしたの?」

「ええ、連絡しようか迷ったんですけど、丸っきり赤の他人でもないですから、報せておいたほうがいいと思いまして」

 義俊は前置きを引き伸ばし、なかなか本題に移ろうとしない。だがその歯切れの悪さが却って、話の内容が決して愉快なものではないことを如実に物語っていた。

 そして語られた内容は、あやまたず俺の想像通りだった。

 気付くと、沙由里と澪の姿は一切の痕跡も残さず消え失せていた。

 火にかけられたままの鍋の蓋が、カタカタと小さな音を立てていた。


 第一発見者は、沙由里の母親だった。

 沙由里と連絡が取れなくなったことを訝しみ、沙由里と澪が住むアパートを訪ねたところ、変わり果てた二人を発見したのである。

 夏場であったことが災いしたのだろう、沙由里と澪の遺体はいずれも原型を留めないほど腐敗が進み、半ば液状化していた。

「お袋、寝込んじゃいましてね。どうしても姉貴と澪を見送りたいって言ってたんですけど、親父が引き止めたんです」

 俺と義俊は、火葬場の控室で焼き上がりを待っていた。室内には俺たち二人以外に誰もいない。そもそも会葬者自体、俺と義俊だけである。

「それで、お義父さんは……」

「お袋の看病だ、って言ってましたけど、仮にお袋が起き上がれたとしても、ここには来なかったと思います。骨は寺に持って行って無縁仏として弔ってもらえ、って言い付けられましたしね」

 憮然とした口調で、義俊が溜息をつく。

 無理もない、と思った。義父は世間気が強く、人倫に悖る行為を嫌う人だ。

 離婚の直接的な原因となった、沙由里の不貞を許せないでいるのだろう。

 道ならぬ恋の相手は、ミュージシャン志望のフリーターだった。関係は、俺との結婚前からずっと続いていた。つまりは二股をかけられていたわけである。澪もその男の子どもなのだという。

 彼女の赤裸々な告白を聞き、離婚に踏み切るまでさほど日を要しなかった。

 沙由里へ慰謝料を請求しない代わりに、財産分与も養育費も無し、澪は沙由里が引き取ることになった。

 全てが俺の希望通りだった。沙由里と澪、二人ともが穢らわしい存在に思え、一刻も早く縁を切りたかったからだ。

 揉めることもなく、俺達はあっさりと他人になり、沙由里は澪を連れてマンションを出ていった。

 そうして沙由里は安アパートを借り、澪と二人で暮らし始めたのである。不倫相手とは、離婚後半年もしないうちに破局を迎えたという。

「金輪際、家の敷居を跨ぐことは罷りならん、ってえらい剣幕でしたからね、親父。もっとも、お袋が定期的にこっそり連絡を取っていることについては黙認していたみたいですけど」

 家庭は破綻し、恋人にも実父にも見放され、澪と二人で生きていくことに疲れたのだろう。

 疲弊した沙由里が選択したのは、最悪の結末だった。

 二人の遺体は、バスタブの中で抱きあうような格好で腐っていた。その傍らには七輪と、空になった練炭の袋が残されていた。

「馬鹿ですよね、姉貴も。なにも澪を道連れにすることは無かったでしょうに。死ぬなら一人で死んどけ、って思いますよ」

 そう言ったきり義俊は黙り込んだ。

 俺はなんとなく言葉を掛けづらくなり、タバコを吸うために喫煙所へ向かった。

 喫煙所からはガラス壁越しに、外に広がる風景を望むことができる。煙を吐き出しながら、何とはなしに外へ目を向ける。

 道路を挟んだ真正面、どろどろに溶けた沙由里と澪が、こちらをじっと見つめていた。


 二人の遺骨は、義父の言い付け通り無縁仏として葬られた。

 初七日を過ぎた頃、沙由里の実家を訪ねようとしたこともあったが、義父からは訪問無用と突っぱねられてしまった。

「もう君も過去にとらわれずに自分の人生を生きなさい、って言いたいんだと思いますよ。親父、不器用ですから、相手を気遣う言葉を掛けるのが苦手なんですよ」

 義俊の言葉に納得し、以来義父とも義母とも連絡を取っていない。

 沙由里と澪は、今も頻繁に俺の前に姿を見せている。

 時には街中で。

 時にはオフィスの片隅で。

 そして、自宅で。

 近頃では二人ともすっかり原型を失くし、醜悪な腐肉の塊になってしまっている。

 彼女たちの真意は分からないし、それを質そうという気も起きない。

 ただ漠然と、一生付き纏われることになるんだろうな、という気がしている。何の根拠もないが。

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