【2-2】 レディ・トゥ・ダイ - Ready to Die - ②
「ほら、こっち向いて。……今度はこっち」
自分の席に座らせられ、あらかた顔を拭いてもらい終えた頃には、すでにクラスメイトのほとんどが教室から姿を消していたあとだった。残っているのは巽と、女子生徒と、数人の女子グループだけ。巽が、いまだ顔面を這いずり回るハンカチ越しに周囲をちらと覗くと、女子グループがこちらを見てくすくす笑っているのが見えた。これではまるで子供扱いだと、猛烈な恥ずかしさを覚える。
「……千秋野。あとは自分で拭くから」
恥辱に耐えきれずに巽は言った。千秋野と呼ばれた女子生徒は「ほんとごめんね」と言って巽にハンカチを手渡す。巽は苦い顔を作りながらも丁寧にそれを受け取り、自分で顔を拭う。
千秋野 和。身体は小柄だが、しっかり者であり、巽とともに一年三組のクラス委員を務めている女子生徒だ。授業後に黒板を消していたのも、彼女がクラス委員という名の雑用係だったからに他ならない。真っ先に黒板の掃除に取りかかっていたり、明らかに届きそうにない高さなのにめげずにジャンプを繰り返していたりするように、その責任感は強い。
和は、ぎこちない手つきで顔を拭いている巽の様子を眺めながら、にっこりと笑った。
「懐かしいなあ。ちっちゃい頃も、よく御子劾くんの顔を拭いてあげたんだっけ」
「……?」
巽は、顔を拭く手を止めて考えた。はて、そんなことがあっただろうか。
「もしかして、覚えてない? 小学生のときまでご近所さんだったのに」
「……ああ」
そう言われて初めて思い出した。
確かに和の言うとおり、自分が五年前に、九十九市の外へ引っ越していくまで、巽と和は近所同士だった。だから幼い頃はよく一緒に遊んだ。小学校も途中まで同じで、二人でランドセルを背負いながら登下校することもたびたびあった。記憶の底に埋もれていた、むかし懐かしい記憶だった。
「……そうか。そうだった。すっかり忘れていた」
正直に答える。
「うわー。地味にショックだなー、それ。おままごととか、どろんこ遊びとかしてさ、いっぱい遊んでたんだよ。御子劾くん、いつも顔を泥だらけにしててさ。それであたしが顔を拭いてあげてたってわけ」
和の笑顔が、失望の色を帯びたように微妙に変化した。
巽はなんと言葉を返せばいいかわからず、ただ申し訳なさそうな顔をして黙っていた。
「それにしても、御子劾くん、九十九市から引っ越していくまではあたしと身長変わんなかったのに、高校に上がってこっちに戻ってきたら、こぉんなに大きくなってんだもん。久しぶりだったから、びっくりしちゃった。まるで別人みたいだって思ったくらいだよ」
和は巽がいかに成長したかを表すため、大きく背伸びをして、手を高々と翳してみせた。ちょっと大げさだな、と巽は微かに顔をほころばせて、
「成長期だからだ。男子ってそういうものだろ」
「それでも伸びすぎじゃん。五十センチぐらい伸びたんじゃない? このクラスでも一番背が高いでしょ。いや、ひょっとしたら全学年でも一番背が高いかも……あっ」
そのとき、最後まで残っていた女子グループが教室から外へ出ようとする間際に、こちらに向かって「じゃーねー」と声を掛けてきた。それに「ばいばーい」と大きく手を振って答える和の様子を、巽はぼんやりと眺めた。彼女が身にまとうのは九十九高の夏の制服ーー半袖の白いセーラー服と、丈の短いスカイブルーのプリーツスカート。肩もとで切りそろえられたセミショートの髪は、前髪が左右非対称となるように、チャトラ猫を象ったヘアピンで留められている。その前髪の間からのぞく細眉の下には、丸くくりくりとした瞳が活発そうに輝いており、生来の顔の小ささも手伝ってか、とても大きく見えた。
「ねえねえ」
女子グループを見送り終えた和がくるりと振り返り、巽に顔を近づけてきた。やや茶色味を帯びた髪の毛から漂う甘い匂いが、巽の鼻をふんわりとくすぐる。巽は妙な戸惑いを覚え、さっと身を正した。
「御子劾くん、九十九からどこに引っ越してったの? 親戚のおうちに一人で引っ越してったってことは知ってるんだけど、具体的な場所とかは知らないんだよね」
「あ……ああ、名田庄というところに。しかし、引っ越し先が親戚の家だとよく知っていたな。誰かから聞きでもしたのか」
互いの家族を伝にして聞いたのだろうか。九十九市のように狭い土地柄では、近所同士が身上を話し合うことは珍しいことではない。だから和が知っていたところで何ら不思議ではなかった。
「あのね、むーちゃんから聞いてたの」
「……むーちゃん?」
「睦ちゃんのことだよ」
「なんだ姉貴か……。そうか、姉貴から聞いていたのか……」
なるほどと肯く。巽の双子の姉である御子劾睦も、この九十九高の生徒だった。双子だから同学年にあたるわけだが、巽や和とは別のクラスに在籍している。だがたとえクラスが違ったところで、和と睦、この仲良し二人組の関係が切れるようなことはない。なぜなら和も睦も生まれてからずっとこの街で暮らしてきていて、小学校、中学校、そして高校にいたるまで同じ学び舎で学んできたほどの深い間柄なのだ。だから、クラスが変わった程度で疎遠になってしまうほどの薄弱な関係ではない。
むしろ変わってしまったのは、ひとり九十九市を離れていった巽との関係だけだった。和、睦、巽の三人の中で、九十九市での暮らしに五年間の空白があるのは巽だけなのだ。五年の空白がもたらした変化は自分が思っていた以上に深かったのかもしれないと、巽は改めて時の流れという言葉の意味を実感した。
「…………」
「どしたの、難しい顔しちゃって」
「いや……何でもない」
巽はそう言って視線を落とした。そして、自分が十歳の時に引っ越し、十五歳になるまで過ごしてきた名田庄での日々を思い浮かべた。
それは普通の少年が送るべき生活といえるものでは決してない、厳しい毎日だった。
そもそも名田庄とは、御子劾家の神社が属する神道の一派、天社土御門神道の本庁が所在している歴史ある村のことをいう。巽はそこで、実家の神社の跡継ぎとして学ぶべき事柄を嫌と言うほど叩き込まれてきた。それは代々御子劾家が背負ってきた役職を継ぐために必要な知識や学問であり、心身を鍛えるための武道や鍛錬であり、そしてーー。
「……そろそろ帰ろう。ハンカチ、返すよ」
考えを断ち切るようにして立ち上がると、巽は手に持っていたハンカチを和に返した。急に帰ると言い出されて、あっけにとられた様子でハンカチを受け取る和だったが、ふと我に返ったように、
「あ、ちょっと待って。御子劾くんに大事な話があったのに、言うの忘れちゃってた」
そう言って巽を呼び止める。巽は立ったまま、表情を変えずに都の言葉の先を伺った。
「実はね、御子劾くんに、生徒会の書記をやってもらえないかなーっていう話が、一年生のクラス委員の中からあがってるんだ」
「……書記? 俺が?」
「うん。新年度になって生徒会が新しくなったから、新一年生の中から新しく書記を決めなくちゃいけなくなってるんだけど、その書記に御子劾くんを推薦したらどうかって声が多く出てるの」
九十九高校の生徒会は、各学年のクラスごとに選ばれたクラス委員から構成されている。その中でもメインとなる生徒会長や副会長は、学校の生徒全員による投票で選出されているが、書記や会計のようなサブ的な役職は各クラス委員からの推薦によって決められていた。会長と副会長は二年生が、会計や書記は一年生が務めることになっている。三年生は最高学年だが、受験が控えているために生徒会の役職に就くことはない。
「だから、頼まれてくれないかなあ、って」
「…………」
巽はしばし考えた。
「答える前に、ひとつ聞いてもいいか?」
「なあに?」
「どうして俺が適任だって話になってるんだ?」
「……知りたい?」
「ああ」
「聞いたらがっくりするかもよ?」
「それでもいい」
「うーん。しょうがないか。じゃあ言うね。……「学年で一番マジメそうだったから」、だって」
「…………」
予想しておくべき答えだった。クラス委員のときと全く同じだ。なぜいつもそういう理由で自分が槍玉にあげられるのか不思議でならない。
「やはりそういう理由なのか……」
「だから言ったのに」
困ったような笑みを浮かべる和を前に、巽は顎に手を当てながら考えていたが、ふと思いついたように言葉を発した。
「なあ、俺よりもむしろ千秋野のほうが適任なんじゃないか。千秋野は気が利くし、責任感も強い。生徒会の大事な仕事にも向いていると思う。少なくとも俺よりはふさわしいと思うが」
そう言われた和は、細い肩をすくめながら答えた。
「そう言ってくれるのは有難いんだけど、あたしはもうダメなんだよね。他に役目が決まっちゃってるから」
「他の役目? 会計とかか?」
「んーん。会長や副会長すらも目じゃないくらいに、もんのすごく損な役割」
「……?」
台詞が後半にいくに従って恨み節のような調子に変わっていった。千秋野がそれほどまでに嫌悪するような厄介な仕事が生徒会に存在しているのだろうか。巽は色々と想像してみるが、ピンと来るものは何もなかった。
「もんのすごく損な役割」の実体は定かではないが、とりあえず巽は書記への推薦について回答することにした。
「済まないが、俺には荷が勝ちすぎるようだ。他の人間を当たってくれないか」
「あー……うん。わかった。御子劾くん本人がそういうなら仕方がないよね。生徒会にもそう伝えておくよ」
落胆する和。声のトーンも明らかに落胆の色を呈していた。巽は和に対し申し訳ない気持ちを心中に抱えつつも、帰り支度を整えて別れの挨拶を交わすと、足早に教室を出ていった。その背中に向かい力無げに手を振って見送る和には、巽がどことなく急いているように見えた。だがもちろん、和がその理由を知る由もなければ、そもそも本当に急いでいたのかどうかもわからない。
誰もいなくなった教室の中で、和は肩をかっくりと落とし、小さく溜息をついた。書記の仕事を断られてしまうし、それ以前に巽には自分の存在すらも完璧に忘れられていた。それは自分としてはかなり、ショックな出来事だったかもしれない。もしかしたら、書記を断られたことよりも、ずっと。
「いやいやいや。何でショック受けてんだろ、あたし」
和はぶんぶんと首を振り、ネガティブな気持ちを振り払った。他人は他人、自分は自分だ。今日はもう早く帰って、テストに備えて勉強でもしよう。そう思い、荷物を持って教室のドアから一歩踏み出しかけた。
そのときだった。ひとりの女子生徒が廊下の向こう側から近づいてくるのが見えた。女子生徒はクラス名が書かれた表示板を確認しながらこちらに近付いてくる。
その目が、和の目とかち合った。
「あ……」
女子生徒は和の存在に気付くと、一息に走り寄ってきた。
「和ちゃん、よかった……まだ教室にいたのね」
息を切らしながら女子生徒は言う。その制服の襟首には緑色のラインが走っており、彼女が二年生であることを示していた。
「静海先輩……?」
都はその女子生徒の名前を言った。彼女とは、ある共通の役割を負っていることで、すでに顔馴染みであった。
「どうしたんですか、こんな時間に。いや、まさか……!」
「そう。そのまさかよ」
和の背筋に悪寒が走り抜けた。
「またしてもオカ研でトラブル発生。私たち、「対策係」の出番ってわけ」
上級生は強い口調で言った。
そして、力強い眼差しで和を見つめながら、出陣前の武士のような気合いを込めてこう言うのだった。
「急ぎましょう。取り返しのつかない事態になる前に、私たちがなんとかしないと」
上級生こと静海空は、うろたえる和の手を取ると、文化部棟へ続く廊下へ共に飛び出していった。