【1-5】 リアル・イリュージョンズ - Real Illusions - ⑤
それはゴーグルのような装身具だった。形状は、スキーヤーやハイカーが身に着けるようなミラーシェードタイプであり、鼎のパーソナルカラーともいうべき真紅で統一されている。
「それは何だ……? ゴーグルか……?」
「これはゴーグルじゃなくて『眼帯』だよ。とある人間の手によって造られた特注品で、一切の光を通さないように出来ている。これがなくちゃ『真実』は見られない。当然、鑑定だって出来ない。いわば、おれの商売道具さ」
「……?」
その答えに、巽は微かに首を傾げた。『真実』を見るというのに、なぜ肝心の視覚を封じてしまうのだろうか。辻褄が合っていないような気がする。
当の鼎はさっそく『眼帯』を装着した。右手の親指と中指で両側から挟み込むようにして眼帯を押さえつけている。そのままじっとして動かない。なんだか考え事をしているようにも見えるし、頭痛に悩まされているようにも見える格好だった。巽も無言でことの成り行きを見守っている。
意味ありげな沈黙がしばらく続いたあと、眼帯を支えていた手がゆっくりと離れはじめた。
「…………」
急に張りつめたような空気が部屋中に漂いだす。空間そのものを束縛するような緊張感。その緊張の根源は言うまでもなく鼎だった。
巽からすれば、眼帯を装着した人間とこうして相対するのは奇妙な感覚だったが、その奇妙さはそれだけが理由ではないような気がした。巽には、目の前の鼎自身が、真実を見通す《眼》そのものになって、自分を凝視しているのでは――そんなふうに思えていたのだ。こうして自分を見つめてくる鼎の前では、自分など御子劾巽という存在を構成する情報群に過ぎないのではないか。新穿鼎という《眼》により捕捉され、走査され、解析されるための――ただそのためだけの存在に成り下がったのではないか、とすら感じられる。
「……お前さ」
不意に、鼎の口が開かれた。
「この屋敷に来る前に、商店街の楽器店に寄ってただろ」
いきなり聞かされた言葉の意味に、巽は思わず目を見開いた。
「お前が約束の時間に遅れてきたのはそのせいだ。ちょっと立ち寄ってベースやギターを見物するだけのつもりだったはずが、どうしても弾いてみたいギターを見つけたんで、店員に頼んで試奏させてもらってた。そういやギターとか好きだったよな、お前」
唖然とした様子で鼎を見つめる巽。
「で、文字通り時間を忘れて試奏に夢中になった。約束の時間になっても気付かずに弾き続けるほどな。……ようやく約束の時間のことに気付いたお前は、慌てて店を飛び出して、自宅に舞い戻り、鑑定の依頼品を取って返した」
滔々としゃべる鼎。対する巽は、半端に口を開けたまま、一言も発することができずにいる。
「急ピッチでこっちに向かって来る途中、お前は偶然、出店のたこ焼き屋を見かけた。で、ほとんどぼったくりに近い値段でも、手ぶらよりはマシだと考えて、一パック買ったってわけだ。……へえ、遅れたことの詫びにするつもりだったのか」
そこまで言い尽くしてから、鼎は悠々とした動作で眼帯を外し、テーブルに置いた。ふう、と深い溜息を吐くと、長い前髪をかき上げる。現れた額には、汗の珠がたくさん浮かんでいた。疲労の色を湛えた汗だった。
「さあ、今の言葉の中で、何かお前の記憶と違っている箇所はあったか」
「……い、いや」
硬直したまま答える巽。
記憶と違っている情報は何一つとしてない。いや、それどころではなかった。その時その場面で巽が何を考え、どう感じていたのかという心の内面までもを、鼎は言い当ててしまっている。
「はー、疲れた。ま、過去視と精神感応の複合技ってところかな。これでおれが『真実』を見通す異能を持ってるってことが証明できただろ」
鼎はジャージの袖で汗を拭きながた言った。全力疾走してきたかのように呼吸も荒くなっていはいるが、それでも悠然とした様子だ。普通の異能者のように、異能を使うことによって内面に何かしらの異常が発生しているようには見られない。
恐らく鼎には、体力を消費する以外に異能を使うリスクがないのだろうと巽は考えた。それなら鑑定を依頼しても心配はなさそうである。
「…………」
いや、と巽はかぶりを振った。今、自分が気になって仕方がないのは、そういうことではない。鼎が本当に『真実』を見抜いてしまったことだ。ペテンやハッタリではなさそうである。鼎の能力を疑っていたわけではないが、それでもいざ自分の隠していた『真実』を暴かれるとなると、あまりいい気持ちはしない。それがあまり褒められたような記憶でないのなら、なおさらのことだった。鼎の顔を見る気にもなれない。
行き場のない視線を泳がせていると、テーブル上の物体に目が留まった。例の、視覚を完全に封じるという眼帯だ。気付いた時には、巽は眼帯に手を伸ばし、それを顔にかけていた。
「…………」
――暗闇。
装着した途端、底知れぬ暗闇が巽の視界を浸した。まさしく無明の闇だった。瞼を閉じて得られる以上の暗黒が己の眼前に広がっている。これでは視覚などあってないようなものだ。
こんなものをこのまま装着し続けていたら、自分の視覚そのものを眼帯に吸い取られてしまうのではないか――そんな奇妙な不安に襲われた巽は、慌てて眼帯を外そうとした。
そのときだった。
「ああぁ!」
目の前でとんでもない大声が上がった。
「バカお前! なに勝手に着けてんだ! 早く返せ!」
部屋全体を揺るがさんほどの大声に驚いた巽は、慌てて眼帯を外そうとした。だがいささか慌て過ぎた。眼帯の取り外し方が悪かったのか、それとも手に込めた力が強すぎたのか、それは定かではない。ただ一つはっきりとしているのは、「ぼきり」という悲惨な音を立てて、眼帯の弦が折れてしまった――その事実だけだった。
「ああ!?」
それはまさに「信じられない」という一心が込められた、まじりっけのない「ああ!」だった。
巽は咄嗟に、
「す、すま」
と謝罪の言葉を出そうとしたが、すでに何もかもが手遅れだった。
「出てけアホ――――――――――!」
鼎の手によりテーブルがひっくり返され、食べかけのたこ焼きが宙を舞った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
屋敷から巽を追い払った鼎は、冷めやらぬ怒りを抱えながら、部屋の中央で仁王像のように立ち尽くし、荒い息を吐いていた。
「あのアホ……他人の大切なモノをぶち壊しやがって……くっそー……」
時間が経つとともに怒りは徐々に薄れていき、代わりに悲壮感が浮かび上がってくる。
鼎はしぶしぶとひっくり返したテーブルを元に戻し、飛び散ったたこ焼きを片付けると、壊れた眼帯をテーブルの上に載せて、じっと見つめた。
「まったく……。もし直せなかったら、どうしてくれるんだ……」
眼帯は二つのパーツに分断されていた。眼鏡で言えばレンズに当たる部分と弦とを繋ぐ部分が壊れてしまっている。直せないことはなさそうだが、かなり高い技術を要するだろう。第一、鼎は手先が器用な方ではない。これでは先が思いやられるとばかりに、鼎は深い溜息を吐いた。
テーブルの上に両腕を乗せ、その中にうずくまるようにして頭を乗せると、鼎は寂しげな眼をして眼帯を見つめた。鼎の頭の中に、ぼんやりと、製作者の後ろ姿が浮かび上がる。
それは気高く美しい、銀髪の若い女性だった。その女性はストレートロングの銀髪を揺らして振り返ると、優しさと厳しさが同居しているような力強い瞳でもって、鼎に笑いかけている。
「師匠……」
鼎は眼を閉じた。悔やんでいても仕方がない。何とか直す手段を考えなくては、能力を使うことができない。能力を使うことができなければ、依頼品を鑑定することもできない。
――鑑定。
鼎は巽が持ってきたジオラマを探した。久しく話題に上らず忘れ去られかけていたそれは、ひっくり返されたテーブルの巻き添えを食うように、部屋の隅で倒れていた。
とりあえずテーブルの上に戻そうと、巽はジオラマを持ち上げかけた。
その瞬間、鼎の動きが止まった。
土煉瓦でできたジオラマの裏面に、何かが付着しているのをみとめたからだ。
「これは……」
思わず声を上げる。
ジオラマの裏面に付着していたもの。それは、グロテスクなまでに赤黒いシミだった。
「…………」
血痕としか呼びようのないそれが、ジオラマの裏側に、べっとりと付着していた。