【1-4】 リアル・イリュージョンズ - Real Illusions - ④
「ここでこんなふうに考えてみようじゃないか。脳が干渉している視覚情報とは、果たして『盲点』の補完だけに留まるものなのだろうか。それ以上の干渉を行なっていやしないだろうか。もしかしたら――」
鼎は爪楊枝を目の前に掲げると、それを鋭く睨みつけながら言った。
「――今、目にしているこの世界の全てが、脳の干渉を受けて改変された、『幻』ではないのだろうか、って」
どこか陰鬱な響きを伴って語られたその言葉は、まるで目の前の爪楊枝も架空の存在に過ぎないのだと宣言するかのようだった。
巽は一抹の疑念に駆られ、鼎の表情を確認した。爪楊枝越しに浮かぶ顔。その面差しは真剣そのものであり、今の言葉が冗談や戯言のつもりであったようには到底思えない。行き場を失った巽の疑念は、
「……ふっ」
と、溜息へと姿を変えて、巽の口から漏れた。
「それは、さすがに……考え過ぎじゃないのか」
苦笑まじりにそう呟く。しかし、鼎の表情は変わらない。
「そうかな。本当に考え過ぎなのかな。だって、実際に脳がどこまで視覚に干渉しているのか、それを判断する手段はおれたちにはないんだぜ。脳の干渉が盲点の補正だけで済んでいると、そう断言できるような根拠は皆無なんだ。もっと言えば、今おれが見ているお前も、お前が見ているおれも、各自の脳が勝手に創りだした幻影でないと言い切ることは決してできない。その根拠がまるでないんだからな」
「幻影でないと言い切れる根拠か。それなら、ここにあるじゃないか」
巽は片手を伸ばすと、テーブルの上に乗せられていた相手の腕をぐっと掴み上げた。そのまま、腕の持ち主である鼎の顔を、弾劾するような眼差しで正視する。巽と鼎、二人の視線が交錯した。
「手を伸ばせば、こうして触れることができる。つまり、触覚がある。それだけじゃない。お前の声も、俺の耳に正しく届いてくる。だからこそ今までこうして会話を成立させてこられたわけじゃないか」
鼎は視線を外し、俯く。巽の言葉に答えることなく、ただ押し黙っている。
「何も視覚だけに限る必要はない。その他の感覚だって、世界がまやかしでないことを証明する根拠になりうる。……新穿、お前は人の認識というものを、視覚に限定しすぎていたのではないか?」
鼎は眼を瞑ると、ゆっくりと首を横に振った。
「残念だが、それじゃあ何の証明にもならないよ。触覚も聴覚も、行き着くところは脳だ。視覚の場合と同じように、これらも脳の干渉を受けていないとは言い切れない。むしろ、五感の中で、とりわけ視覚だけが脳の干渉を受けていると考えるほうが不自然じゃないか」
「……。それは……」
「それは?」
「…………」
巽は何も答えることができず、鼎の腕を手放した。それは自発的にそうしたというよりも、勝手にするりと抜け落ちていったと言い表したくなるような、力のない動作だった。
鼎は掴まれていた部分を撫でながら、独り言のように呟く。
「おれたちは、自分達を取り巻く世界が、自分の脳を作り上げたんだと思い込んでいる。単細胞生物から始まる進化の歴史の中で、脳というものが作り上げられてきたんだ、とね。でもそれは誤った考え方だ。正解は逆だよ。脳こそが世界を作り上げている、と、そう考えるべきなんだ」
「…………」
「脳という、空前絶後の詐欺師は、感覚器官から取り入れた外界の情報をやりたいように改変して、自分勝手な世界を創りだしてしまう。だから脳の機能が違えば、住む世界だって違ってくる。イヌが住む世界とネコが住む世界は違うし、おれとお前が住んでいる世界もやっぱり違う。そう言われてもピンとこないのは無理もないさ。なぜなら、おれはお前になれないし、お前もおれにはなれないからだ。イヌがネコになれないのと理屈は同じだ」
「…………」
「換言すれば、世界に存在する存在の数だけ、世界が存在しているというわけなんだ。禅問答みたいに訳のわからない言葉だと思うだろう。でも認識というものをこれ以上に的確に言い表している言葉はないと思うぜ、手前味噌ではあるけどな」
「…………」
「仏教でいうところの色即是空、唯識の理論。現象学でいうところのノエマ=ノエシス。物理学でいう不確定性原理やシュレーディンガーの猫。これらは全て、『観測者が対象の存在を規定する』という意味を含んでいる。宗教でも哲学でも、科学の領域でさえも、行き着くところは同じ。存在を規定するのは客観的な世界ではなく、個人の主観だという見解が、現在における世界解釈論の主流なんだよ」
「……も、」
「そもそも、おれたちの意識ひとつとってみても、その実態が何なのか未だにわかっちゃいない。一説によれば、意識とは五感が脳内で交錯する際に生じた錯覚的な仮想機構のひとつに過ぎないと……」
「もういい、もう降参だ。これ以上話を続けられたら頭が割れる。やめてくれ、頼む」
とうとう我慢ができなくなった巽は、眉間を押さえて呻くように言った。
「お前の話を聞いていると眩暈がしてくる。そもそも、俺が聞きたかったのはお前がどうやっていわくつきの品を鑑定しているかだ。益体もない認識論などではない」
「ああー、ごめん。少し興奮しすぎた。認識論の話は鑑定の仕組みを説明するために絶対に必要だったんだけど、そっちに力を入れすぎちゃったな……」
申し訳なさそうに項をかくと、鼎は話を再開した。
「おれの鑑定方法。簡単に言えば、それは『見えないモノを認識する能力』――つまり、異能を使う、ということだ」
「異能……?」
巽は拍子抜けしたような声で繰り返した。いざ聞いてみれば、あまりにもあっけない答えだ。今までの難解な講義は一体なんだったのかと憤りたくもなるが、それでも鼎が言うには認識論と深い関わりがあるのだという。
巽は我慢して話の先を待った。
「例えば霊視とか透視みたいに、普通の人間には見えないモノを見ることができる特別な力があるだろ。そういう特別な力をおれが持ってるっていうだけの話さ。ぱっと聞くだけにゃ単純だと思うだろうが、いざ説明するとこれがなかなか奥が深い」
「……。で、その異能とやらが、脳の干渉とどんな関係にあるというんだ?」
「それはこういうことさ。脳の干渉が弱ければ弱いほど、目に見えないモノをより強く知覚することができる。つまり、脳の干渉が弱まることで、見えないモノを見る能力が泡のように浮かび上がってくる――これこそが異能と呼ばれる力の正体なんだ」
「脳の干渉が弱まれば、異能が強くなる、ということか……。何だか、シーソーのような関係だな」
「なかなか上手い例えだ。……そして、この脳の干渉が生まれつき弱い人間、異能を持った人間のことを、異能者と呼ぶ。霊視という能力だって、実際は数ある異能の中の一種に過ぎない。異能と呼ばれる力の種類は実にたくさんあるのさ」
「……例えば?」
「そうだな……。過去読解や未来予知、精神感応。あとは千里眼なんかも異能に含まれるね」
話が今度は超能力へと飛んだ。また脱線するのでは、と巽の胸に嫌な予感が過ぎる。
「霊視の次は、超能力ときたか」
「まあ、超心理学はもともと心霊主義研究に端を発しているからなあ。幽霊学の本場である英国の超心理学研究所も、その前身は心霊主義研究所だったし。米国でも同じだったかな」
「つまり超能力者と心霊術者は、親戚同士のようなものだってことか」
「言いえて妙だな。物質転送も今でこそ超能力の一類型と思われているが、もともと心霊主義者の異能だと考えられていた。心霊主義も超能力も、異能を扱うという点では同じなんだよ」
再び話がズレてきたので、巽は軌道修正の意味も込めて、論旨を整理することにした。
「脳の干渉が弱いと、霊視ができたり、過去が読めたり、他人の心の中を覗けたりする……というのが、今のお前の話だった。言いたいことはわかるが、しかし理屈がわからん」
「理屈なら簡単だ。単純にそれらを知覚できるからだよ」
「知覚できる? 過去や未来をか?」
「ああ。異能者は、幽霊とか他人の思考のような非物質的なモノから、過去や未来という形而上の概念に至るまで、それら全てが手に取るようにわかってしまうんだ。脳の干渉が弱まっている分、本来なら『知覚され得ないモノ』として脳から処理を受けるべき情報群が、それをすり抜けて知覚されてしまうからだな。異能者にとっては、霊視も思考読取も、未来を予知することさえも、朝飯前の芸当なんだ。ごく普通の人間が、ごく普通にお天道様を拝んだり、風の音を聞いたりするのと全く同じ。至極平凡かつ日常的なことでしかないのさ」
「俄かには信じられんな……」
「でも本当のことなんだぜ」
もちろん、鼎の言葉を本心から疑っているわけではなかった。ただ、余りにも話が現実離れしているために、直感的に受け入れられないだけだ。盲点の実験を直接経験した巽であっても、その事実は認めがたいものだったのかもしれない。
「まあ、いいだろう……。しかし、異能を持つというのも、それはそれで不便ではないのか。そういったモノが当たり前のように知覚できるということは、言い換えれば、知りたくなくても知ってしまうということだろ。必ずしも良いことばかりではないと思うのだが……」
他人の思考が読めたり、未来が予知できたりすることは、確かに優れた力であるかもしれない。しかし、それが異能者に良い結果を齎すとは限らない。むしろ、その逆の方が圧倒的に多いのではないか――そう巽は考えたのだった。
「そうだな」
鼎は腕組みし、虚ろな瞳で暗い天井を眺めた。
「異能者の住む世界は、一般人の世界とは余りにもかけ離れている。それでも何とかして一般社会で生きていこうとする異能者は多数いるけれど、その殆どは失敗に終わる。疎外感に苛まれて社会からはみ出していく者。あるいは逆に周囲から厄介払いされる者。もっと酷いケースとなると、異能によって知覚される情報群に己の精神が耐え切れなくなり、発狂して自らの人生に幕を下ろす者もいる。……異能者の迎える末路は、みなすべからく悲惨だ」
「『過ぎたるは及ばざるが如し』、どころの話ではないな……」
俯きながら呟く巽。その瞬間、何か大切なことを思い出したかのように、巽ははっと顔を上げた。そして鼎の顔をじっと見つめる。その眼には、隠そうとしても隠しきれない憐憫の情が、確かに込められていた。厳しい顔付きの巽には到底似合わない感情が、陽炎のように揺らめいている。
巽は気付いたのだ。淡々とした様子で異能者の悲劇を語ってきた鼎自身もまた、異能者であることに。異能者の背負う過酷な運命を、鼎も背負わされているということに。
「新穿、お前は……」
思わず、悲哀を込めた声で呼びかけてしまう。
しかし、そんな巽の感情を撥ね付けるかのように、鼎はかぶりを振って否定した。
「おれは違うよ」
「違う……?」
「確かにおれは異能者だ。けれど、普通の異能者のような末路を辿ることはないし、辿るつもりもない。おれの持つ異能は――もっと特殊なんだ」
巽は黙ったまま拳を握り、鼎の言葉の先を待った。待つしかなかった。
「おれの異能――それは、真実を見通す《眼》を持っていること。……ヒトの認識の限界を超えて存在する、ありとあらゆる概念、事象、因果、法則――即ち、『この世全ての真実』を見通すことのできる《眼》を持っていることだ」
「この世全ての……『真実』……?」
「そうだ。何なら、試しにお前の『真実』から暴いてやるとしようか。なぁに、おれが異能をちょいと使ったところで何の心配いらないってことも、一緒に証明してやるよ」
そう言うと、鼎は懐から何かを取り出した。