【1-3】 リアル・イリュージョンズ - Real Illusions - ③
「例えばおれたち人間は、眼という感覚器官で世界を見ることによって、外界の事象を認識しているだろ」
と、鼎は自分の眼を指し示して説明した。
「眼球内の網膜に映し出された視覚情報が電気信号に変換される。それが視神経を通じて脳に伝わる。そして認識されるに至る――そういう過程を経て成立するのが『見る』という行為だ。それはわかるよな」
「ああ」
巽は小さく相槌を打つ。『見る』ことの仕組みや過程は中学理科レベルの話だ。巽だって当然知っている。
「だけどここで注意しなくちゃならないのは、眼から送られてきた視覚情報がそのままの形で認識されるわけじゃないってことなんだ」
「……?」
巽は黙って首を微かに傾げた。「そのままで認識されるわけじゃない」という言葉の意味がよく理解できないらしい。
鼎は巽の反応をそれとなく伺いながらも、七難しい話を続ける。
「さっきも言ったけど、『見る』という行為プロセスには脳が介在しているだろ。問題はそこだ。なんと脳は、眼から運ばれてきた視覚情報を、勝手に改変してしまうんだ」
「視覚を改変……? 脳が、勝手に……?」
巽は反芻するように呟いた。着実に理解が追い付かなくなってきた様子だ。
鼎は少し言葉を柔らかくして話を繰り返した。
「要するに、おれたちは、脳がこっそりと手を加えた視覚情報を、外界からありのままに取り入れた情報だと思い込んで認識しているってことなんだ。おれたちは『天然モノ』の視覚情報ではなくて、脳が勝手に処理した『加工品』を味わわされている、というわけなのさ」
「ちょっと待ってくれ」
巽は話を止めた。目立つほど外部に表れてはいないが、心の底では間違いなく動揺している。辛うじて理解の淵に手を掛けられたはいいが、そこから覗いた話の内容が余りにも常識とかけ離れていた――そのような心境であるらしい。
「それが事実だとすれば、なぜ俺達は脳の干渉に気づくことがないんだ。『脳が勝手に』とか、『脳がこっそりと』のような言い方をお前はするけれど、自らの意識と無関係にそんなことが起こるはずがないじゃないか」
「どうしてそう考える?」
「ど、どうしても何も……」
虚をつかれた巽は言葉を詰まらせた。自分の主張したいことは『当たり前』のことであるはずなのに、その『当たり前』であることを改めて説明しようとなると、これが非常に難しいことに気付く。
必死で言葉を探す巽。幸いにも鼎は黙って待っていてくれたので、じっくりと時間をかけて言葉を組み立てることができた。
これで十分だと思ったところで、巽は重い口を開く。
「……だって、意識は脳の中にあるわけだろ。脳の内部に、意識を司る『核』のような部分があり、そこが司令塔となって身体全体をコントロールしている……んじゃないのか。はっきりとは、その、俺もよく知らないが」
「…………」
鼎は無表情のままだった。そこには肯定の色も否定の色もない。ただ黙って耳を傾けているだけだ。
「……まあ、とりあえず、そうであるとしよう。……ならば、意識のコントロールから逃れて脳が勝手に動くだなんて、そんなことが起こるはずがないだろ。脳が、意識の監視から抜け出して、勝手に動き出す。そんな、脳の暴走みたいなこと起こるなんて、絶対に有り得ない。そんなの、一般の感覚から外れ過ぎている……と、俺はそう言いたいんだ」
絞り出すような巽の言葉。それは確かに一定の説得力を持っているようにも聞こえる。
だが、鼎は軽く首を振って、その言葉を否定した。
「どうやらお前は、自分の意識が脳を制御下に置いていると思い込んでいるみたいだな。でも実際は逆だよ。脳のほうが意識よりも優位にあるんだ。だからこそ、脳の内部には意識でも制御しきれない領域が生じる。すなわち『無意識』という領域がね」
「『無意識』……」
「『無意識』の領域で脳が機能している例は実に多い。例えば、自分の心臓を意識して止めることはできないだろ? 逆に、わざわざ意識して心臓に『動け』と命令しなくても心臓は動き続ける。それは取りも直さず、『無意識』の領域で脳が肉体に命令を送っているからに他ならないんだよ」
巽は考え込んだ。確かに、意識的に心臓を止められたら大変なことになる。魔が差して心臓を止めでもしたら、それこそ一大事だ。自殺企図者には便利な身体になるだろうが、そうでない者にとっては物騒極まりない。
「うーん……。こういう、言葉だけだと説明しにくい現象ってのは、実際に体験させてみるのが一番なんだよね。さて、どうしたもんかな」
鼎は腕を組んでしばし考え込む。
「よし。簡単な『実験』をしてみるか。うん、それがいい」
自分で提示した問題に自分で納得すると、すっくと立ち上がった鼎は部屋の中を物色し始めた。何かを探しているらしいが、何を探しているのかは巽には見当もつかない。ただ黙って先行きを見守るだけである。
しばらくしてテーブルの前に戻ってきた鼎が手にしていたのは、スケッチブックと黒のサインペンだった。どちらもホコリを被っている。相当深い場所に眠っていた代物であるらしい。
「…………」
鼎はサインペンのフタをきゅぽんと外すと、鼻歌を歌いながらスケッチブックの画用紙に何かを書き始めた。インク切れはしてないようだな、あのサインペン、と的外れなことを巽が考えている間に、鼎のお絵かきは終了した。鼎は書いた画用紙をビリビリと破り取ると、
「ほらよ」
と巽に差し出した。唯々諾々と受け取った巽は、不可解さの篭った眼でしげしげと画用紙を眺める。
そして呟いた。
「なんだ、これは」
手渡された横長の白い画用紙。その左右には星マークが二つ描かれていた。依然として狐につままれた様子の巽をよそに、鼎は着々と『実験』とやらの手順を巽に指示していく。
「まずは、この紙をしっかりと持って。それから片方の手で、片目だけを覆ってみるんだ」
「……俺に何をさせる気なんだ?」
「いいからいいから。騙されたと思ってやってみなって」
仕方なく、巽は言われたとおりに画用紙を持つと、右手で右眼を隠した。
「よし。そうしたら、持っている画用紙に視線を落としてくれ。それから今度は、明いている眼とは逆方向にある星マークを凝視するんだ。それで準備完了だ」
巽は右眼を覆い隠しているので、空いている左眼で、反対側にある右の星マークをじっと見つめたまま待機した。鼎によればこれで『実験』は準備完了であるらしいが、何の『実験』なのかは未だもって全くわからない。
「準備できたな? それじゃ、視点をその星マークに固定したまま、画用紙をゆっくりと近づけていくんだ。早くじゃダメだ。あくまでゆっくりと動かすんだ。そうすれば、そのうち星マークにある変化が起こるはずだ……」
画用紙を顔に近づけていく。じわじわと迫ってくる画用紙。
それがある一定の距離まで近づいたところで、
「おっ……」
見つめていた星マークに変化が生じた。
星マークが急にその姿を消したのだった。
「星が消えた……。なるほど、そうか。これなら俺も知っている。確か『盲点』というヤツだろう。小学生のとき、科学の雑誌に実験方法が書いてあったのを読んで、実際に試してみた覚えがある」
「そう、それだ。でも、この『盲点』が具体的にどういう仕組みで起こっているかまでは、流石に雑誌には書いてなかったんじゃないか」
巽は黙って考え込んだが、やがて諦めたように首を振った。書いてはあったかもしれないが、内容まで覚えているわけではない。いずれにせよ、今の巽にはわからなかった。
そんな巽の顔色を見た鼎は、得意げな笑みを浮かべて言った。
「実はこの『盲点』こそが、『脳の視覚情報への干渉』の典型例なんだよ」
「『盲点』がか?」
「『盲点』がだ。そもそも『盲点』というのは、網膜に空いている一個の穴のことをいうんだ。網膜に張り巡らされた視神経、それが一束にまとまって脳へと伸びていくための出口みたいなものさ。その網膜上の『盲点』と星マークとが、ちょうど重なりあう角度まで画用紙を近付けた。だから画用紙の上から星マークがフッと消えてしまったんだ」
鼎は再びスケッチブックを開き、画用紙をもう一枚破り取った。そして、黒ペンで画用紙に描き始めた。今度は星マークではなく、何かの絵を描いているらしい。
「ここでいう網膜とは、映画でいうところのスクリーンに等しい。スクリーンに映し出された映像を、おれたちは視覚による情報として認識している。だから、網膜にこういう絵が描かれていたとすれば……」
出来上がった絵を巽に見せる鼎。そこには幼児向けの絵本に出てくるような簡素な風景が描かれていた。あまり絵心はないらしい。
「……この通り、画用紙に描かれた絵そのままの映像が認識されなければならない。でも……」
今度は、落書きされた画用紙の中央を狙い、黒ペンの先端でぶすりと刺し貫いた。画用紙に空けられた穴は、風景の中に突如現れた異物のようにも見えた。
「……スクリーンにはこうやって穴が空いている。『盲点』という穴がね。……さて、ここでひとつ疑問が生じる。網膜に盲点が空いているのに、どうして普段のおれたちは、この穴の存在を認識することがないんだろう。いつだってスクリーンには穴が空いている。なのに、おれたちはスクリーンの穴を認識したためしがない。穴空きの世界を見た経験がまるでないんだ。これ、おかしいとは思わないか?」
「確かに、おかしい。……だが、なぜだ?」
自分の言葉の通り、確かにおかしかった。確かに妙だった。画面に穴が空いているというのに、その画面を四六時中目にしている自分が、その穴の存在を認めたことは一度たりともないのだ。これは明らかに矛盾していた。
だが、いざその原因を自分なりに考えてみても、答えらしい答えは一向に浮かんでこない。考えても考えても、何も出てこなかった。
「わからん。なぜ俺たちは穴を認識することがないんだ?」
「答えは簡単だよ。おれたちが盲点を認識しないように暗躍している『犯人』がいるからさ。そしてその『犯人』とは――コイツだ」
鼎はゆっくりと手を持ち上げると、指でさし示した――自分の頭を。
「脳だ。脳こそが、勝手にスクリーンの穴を補完している犯人だったんだ。そして、まさにこれこそが、おれたちが話していた『脳の視覚情報への干渉』そのものなんだよ」
巽は思わず息を詰まらせた。それと同時に、なぜ鼎が自分に盲点の実験をさせたのかも理解した。鼎は巽に、『脳の視覚への干渉』を、その身を以て知らしめたのだ。いくら言葉でもってこれを説明しようとも、内容があまりにも突飛すぎている。文字通り、普通の感覚とはかけ離れた話だ。言葉による説明だけでは、巽だって半信半疑のままだっただろう。
だが、こうして実際に体験してしまった以上は、疑いたくとも信じるほかはない。まさに『百聞は一見に如かず』であった。
世界が一巡したような顔をしている巽を前に、鼎はさらに言葉を加えた。
「これを仮に、黒地の紙に、白い星マークで実験したとしよう。それでもやっぱり、脳の干渉によって星マークが消える。これは脳が、『周囲の背景の色が黒なら、盲点部分だって同じ黒だろう。それなら背景と同じ色に埋めてしまった方がいいに決まってる』と勝手に判断して、盲点を埋めようとするからなんだ。こういうふうに、視覚というものは常に脳からの干渉を受けている。このこと、身を以て理解できただろ」
「……『目から鱗』とは、こういうときに使う言葉なんだろうな」
しみじみとそう呟いてみせる巽に対し、
「鱗が落ちたところで、脳みそが干渉をやめてくれるわけじゃないけどな」
と、意地の悪い微笑を浮かべながら答える鼎であった。
「しかし、随分といい加減なものなんだな、視覚というのも」
呆れ声で巽は呟く。
「そうさ、いい加減なのさ。視覚なんていうものは曖昧なものなんだよ。ところが、人間てヤツは嫌気が差すほど自己中心的なイキモノだから、『自分が認識できる物事だけがこの世の全てである』と思い込んでしまう。……この広い広い世界には、人間が認識できなくとも、確かに存在しているモノがたくさんあるってのに」
鼎は、楊枝で突き刺し過ぎてぶにゃぶにゃになったたこ焼きを口の中に放り投げた。しばらく咀嚼して飲み込むと、再び話を始めた。